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第8話

「矢千さんって真面目で良い人だけど、プライベートがとにかく謎よね。突然やってきて、オフィスで寝泊まりしてるでしょ。まさか自分の家がないのかしら」 「あー……確かに。三階は全部矢千さんの個人ルームになってるよね。高科さんなら絶対知ってそうだけど訊きづらいし。矢千さんはあんまり自分のことを話さないからなぁ」 話さないのではなく、話せないのだ。 休憩がてら自販機で飲み物を買いに行った時、事務室で職員達が自分の噂をしているところにバッタリあたってしまった。 彼らの疑問はもっとも。だから追求されたら返す言葉もない。早く話題が変わることを祈って、そそくさとその場を通り抜けた。 高科が外出から戻ってきたのはすっかり空が暗くなった頃。矢千は膨大な入力作業をする為パソコンにかじりついていた。周りの音が一切耳に入らない矢千に痺れを切らし、高科は彼の背後に回って耳元に息を吹きかけた。そして驚いた矢千が椅子から転げ落ちる。……というのは、毎回恒例のやり取りだ。 「真面目に仕事してるね? 感心感心」 「もうっ! それやめてくださいよ!」 豪快に尻もちをついた矢千には目もくれず、高科は笑いながら通り過ぎていった。どうも、ちょっかいを出したいだけらしい。それはその日の機嫌のパラメーターにもなる。会議で叱責されたり、トラブルが起きて不機嫌な時ほど子どものようなちょっかいを出してくる。我儘で大人気ないと自負している矢千ですら、その時の高科は最っ高に大人気ない。もしかしたらこれが彼の本性なのでは? と睨んでいた。 矢千は何に関しても知らないことが多く、年齢という数値はほとんど無に等しい。ありとあらゆることが初体験で、それ故に感動が大きい。最初の頃は敬語を使うこともままならなかった。食べること、走ること、読み書きに計算。たった一ヶ月で目ざましい成長を遂げたと自画自賛している。 以前の自分はもはや赤ん坊と同じだった。身の回りのこともできず、ただ呆然と流れる景色を見ることしかできなかった。それを覆してくれたのは、他でもない高科だ。本来なら彼は親や兄のような存在でもあり、命の恩人なのだが、素直に感謝を伝えられない日々が続いている。 そうだ。 高科が好きか、それとも嫌いか、と尋ねられたら、自分は迷うことなく「好き」と答える。 この世界で唯一、本音で語り合える相手だ。社会的に弱い自分を庇護してくれた味方だと思っている。 いつかは彼に恩返しがしたい。アイデンティティを取り戻し、胸を張って生きられるようになりたい。 こんな自分と彼は、言葉で表すなら何という関係性なのだろうか。本やインターネットで調べているものの未だにわからず悶々としている。 一日の業務を終え、今日も矢千は高科の部屋に向かった。

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