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第14話

『何も思い出せないんです。自分の名前以外は、何も……』 真っ白な病室で目を覚ました時のことを、矢千は思い出していた。鼠色の空が唸り声を上げている。風が強いようで、窓から見える木々は激しく暴れていた。 ベッドの周りを取り囲むスーツ姿の男達は唖然としながら互いの顔を見合わせている。それから穏やかな声で、順を追って説明してくれた。彼らは事情聴取に来た警察だった。 まず、貴方は記憶を失っている。どこかへ急いで運転してる途中後続車に追突され、事故に合ったと話した。貴方の車だと写真を見せられたが、フロントガラスは粉々に砕け落ちており、廃車は確実に見えた。中に乗っていた自分が軽傷で済んだことは奇跡のようだ。 しかし、その時の衝撃で記憶に障害が生じた。 貴方に身内はいない。事故の直前には四年も務めていた貿易会社を退職している。つまり現状は無職。身元を引き受けてくれる存在もいない。 俺は一体、どういう人生を送ってきていたんだろう。社会に適合できないだけではなく、裏で悪事に手を染めるような奴だったらどうしようか。 漠然とした不安に苛まれたが、警察のひとりからある物を渡された。 「これは貴方のものだと思います」 とても小さくて、最初は落としそうになった。軽いが、掌の中で強い輝きを放つ。 そして……もしかしたら貴方には将来を誓い合った大事な人がいるのかもしれない、と言われた。 その意味まではよく分からないけど、しばらく見つめていた。銀色に光るエンゲージメントリング。 試しに人差し指につけてみたけど、何か気持ち悪くて外した。大体サイズが合ってない。しっくりくるのは、やはり左手の薬指だけだ。 恋人がいたなんて到底思えないけど、本当にいたとしたら自分が買ったんだろうか。それとも貰い受けたのだろうか。 それはどこの誰だろう。 きっとその人は、自分を世界で一番知っている人だ。矢千はそのリングを薬指にはめて生活することにした。これをつけていれば、いつか誰かが自分に気付いてくれる。記憶を失う前の自分を見つけてくれる。 でも。 多分違うんだよな。見つけに行かなきゃいけないのは俺の方で。 約束の時間に……間に合わなくてごめん。 「要……」 目を覚ますと真っ白な風景が広がり、矢千は飛び起きた。 ここは病室だ。“あの時”と同じ、始まりの場所。 窮屈な部屋の中で息苦しさを覚える。しかし隣で微かに聞こえる寝息が、矢千の冷静さを取り戻した。 ベッドサイドのパイプ椅子で眠りながら座っている青年がいる。高科だった。 何故なのか、また安心して涙が零れ落ちた。 怖かったんだ。また初めからやり直すのかと思った。消失と再生のビデオを繰り返し見る恐ろしさは言葉にできない。無限に続く恐怖が今も自分の心に巣食っている。 けどそれを打ち消してくれるのはいつも同じ。 名前以外は何も知らない上司、高科だけだ。 「……矢千?」 「わっ」 布団を掛けてやろうと身を起こしたところで、高科は覚醒した。そして狼狽えながらこちらに手を伸ばす。 「大丈夫かっ? 俺のことが分かるか?」 多少言葉遣いがラフというか……キャラが変わってる気がしなくもないが、笑って頷いた。 「わかる。高科さんでしょ?」 「あぁ……良かった。いや、まぁ……うん。良かったよ」 釈然としない言葉を続けながら、高科は胸を撫で下ろす。その姿を見て、矢千の胸の中は熱くなった。 さっき目を覚ました時、自分は誰かの名を呼んだ。でもその名前が思い出せない。 「矢千。本当に、帰ったらたっぷりお仕置きするから」 「えぇっ! 何故!?」 「俺に許可なく勝手に外に出るわ、客とデートするわ、挙句の果てに出先で倒れて救急搬送されるわ……これだけやらかしておいて許せるわけないだろ?」

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