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ひと

 俺が彼と出会ったのは、小学生の頃。  初めて彼を見た時は、冗談抜きで、教会に住む天使に見えた。  白い肌にふわりとした黒髪。丸く大きな瞳と濃くない眉。  花びらみたいな唇。中性的だったが、女の子だとは思わなかった。一目見て男だとちゃんと理解していたのに、俺はすっかり心を奪われてしまっていた。  自分でも驚いた。誰かに、どうしようもない怒りや、恐怖以外の何かを感じること。そんなことは二度とないだろうと、幼い俺は無意識のうちにそう思い込んでいて、彼を見るだけで火照り、むず痒くざわつく指先をどうしたらいいのかわからず、かといって、目も反らせず、ただ痺れるほど強く服を握っていた。  きっとあの瞬間に、俺の幼くして死んだ心は息を吹き返した。  彼に恋をして。 「百晴」  神父に促され、百晴は「初めまして」とはにかみながらあいさつしてくれた。  その瞬間、俺が心から思ったことを、素直に誰かに話すとしよう。きっと、そいつは「大げさだ」とせせら笑う。そして、俺はその歯茎を見せて汚く笑うやつの顔をぼこぼこに殴るだろう。  俺は、あの時、心から天使様に祝福されたのだと思った。  その教会は孤児施設を兼ねており、その当時は俺と百晴のふたりだけだった。元々、臨床心理士として働いていた経緯を持つ神父は普通の施設では扱いきれない子どもを引き受けていた。  今思えば、あんな善人は滅多にいない。施設をほとんど一人でやりくりをし、入寮してきた子どもに対して根気強く、親ほど馴れ馴れしくなく、親戚ほど他人行儀でもなく、どうしようもなく他人で、親身で、懸命だった。  それは、百晴に夢中だった当時は気づきようもない美しさだった。  俺は教会の寮に入ってから百晴にべったりだった。彼と出会うまでの俺は、我ながら手の施しようがないほど感情の振れ幅が大きく、カッとなりやすくて、暴力的。挙句に、言葉というものを知らない獣のように無口だった。人間の中に野犬が混じっているようだと、どこかの施設で言われたほどに。  どうしてか、自分でも不思議に思うが、俺はそんな子どもだったのに、百晴にだけは一度も手を上げたことがなかった。  初恋の相手だからとか、そんな理由ではなかった。  彼には子どもらしからぬ落ち着きがあり、時々、物分かりのいい大人のような顔をする。俺が苛立っている時は叱らず、静かに距離を置いてくれて、寂しい時は邪険にせず、そっと寄り添ってくれる。  俺は、相当に難しい子どもだったに違いない。昼間は音楽が聞こえたり、晴れているだけで、何もかもが癇に障り、憎く思えて、一人にしろ、近づいたら殺してやるだと怒鳴っておきながら、夜は誰かそばにいてくれないと寂しくて、怖くて、眠れなかった。  そういう面倒くさい俺をまともにしてくれたのは、神父と、百晴だった。教会で一か月、半年と過ごしていくうちに、その二人といる時は俺は多分、世間で言うところの「普通」の子どもでいられた。  同じ年ごろの百晴と遊び、神父から勉強を学び、座って食事をして、清潔な寝具で眠り、晴れた日には三人で散歩をした。  自分のことだけで精一杯だった俺はどうして百晴がこの教会にいるのか、この事件が起きるまで考えたことがなかった。病気なのだろう、ということだけは食後に飲む薬や、俺と神父と食事の内容が違うことで、何となく察してはいたがそれだけだ。  その事件というのは、俺が引き取られた翌年、教会に子どもと言うには無理がある歳の女が入ってきたことだ。彼女を初めて見た時に走った衝撃は未だに忘れられない。  きれいな女性だった。見た目はまるっきりの大人だった。当時の俺より当たり前に背が高く、くびれがあり、ふっくらと胸も膨らんでいた。多分、二十歳くらいだったはず。それなのに、子どもみたいにわんわん泣いて、食事の好き嫌いが激しく……教会へ来てから数か月で亡くなった。  朝から晩までめそめそ泣いている女で、俺はいらいらしてそばへ行かなかった。百晴は優しいから、きっと俺にしたようにその子にも優しくするのだろうと、どこか暗い気持ちでいたが、意外にも、その子には近づかなかった。どんな子だったのか、神父しかしらない。彼だけがいつも寄り添って、何か話して聞かせていたからだ。  彼女の慎ましやかな葬儀を終えた日の夜、百晴は俺の寝室に来た。それ自体はほとんど毎日のことで気にならなかったが、その晩の百晴は表情に陰りがあった。  俺は、死んだ彼女のことを思い出した。百晴は彼女の死を悲しんでいるのだろうと勝手に思って、何となく同じ気持ちになれない自分にモヤモヤしていたが、百晴の陰りの理由は、俺が思っていたものとは少しだけ違っていた。 「彼女は、僕と同じ病気だった」  ベッドで百晴が独り言をつぶやくように教えてくれた。  俺がこの優しく、美しい少年がなぜこの教会にいるのか、その病気がどんなものなのか知ったのは、その時だった。  先天性脳下垂体奇形腫瘍――。 「俗に、恋の病とも呼ばれるんだよ。そんな、素敵なものじゃないけど」  平均的な寿命は、二十歳前後。恋愛によって分泌されるホルモンで腫瘍が肥大し、徐々に体の機能が失われ、最後は死に至る。恋愛感情を抑え込むために、成長を止めるような薬と、徹底的に管理された食事で、大人にならないようにしなければならない。  死んだ彼女も初恋によるホルモンの分泌により、年齢にそぐわない体の急成長と、それに伴う腫瘍の肥大により、あれだけぎゃあぎゃあ泣いていたのが嘘のように、最後の数日は眠り続け、そして静かにこの世を去った。  すらりとした手足にくびれた腹。大人同様の、ふっくらと張りのある胸。  あれでいて、あの子はまだ十三歳だった。 「……百晴は?」 「ん?」  俺は、十歳だった俺は、尋ねずにはいられなかった。  彼女と同じように、恋をしたら死んでしまう彼に。  成長を止める薬を飲む彼に。 「百晴は、何歳なの……」  その質問は、そのまま彼の余命を聞くのも同じ残酷で、無慈悲で、純粋な問いだった。  天使が目を伏せた。まつ毛のアーチの美しさはどの絵画にも負けないだろう。  百晴は酷い問いかけにも関わらず、少し微笑んで「次の誕生日で、十七歳だよ」と言った。声変わりもしていない、それどころかまだ小学校の低学年ほどの見た目で、残酷なまでに落ち着いたまなざしを俺に向け、そう教えてくれた。

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