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ひと´

幸甫(こうすけ)って結婚とかどうなってるんだ」 「しない」 「うわ、ばっさり」  二十五歳。昔は想像さえできなかった「自分の大人姿」が、いつの間にか板についてきたと、この頃は何となく自覚できるようになってきた。  多分、俺は他人から見ればもう普通の仲間だ。嫌な取引相手を殴り飛ばしたいとか、上司を殺したいとか、そういう嫌な感情を愚痴にして、同じような思いを抱く同僚を自分で見つけて、そこで吐き出して、そばに百晴や神父がいなくても心のバランスを取ることができるようになったからだ。  飲みの三次会ともなれば、人はまばらで、体質的になかなか酔っぱらえない俺は、同じように大酒飲みの大沢崇臣(おおさわたかおみ)と居酒屋の端っこで、ほとんどさしで飲んでいた。  崇臣に「いい子いないのか?」と肩を組まれ、顔を掴まれて周りを見るよう促される。どんちゃん騒ぐ同僚と、他部署から来ている女たちを見て、単純に胸が悪くなる。 「まさにごみを見る目」 「仕事だけならまだしも、一生一緒にいたいとは思わない」 「へえ。俺的には実夕(みゆ)ちゃん辺り狙ってるんだけど」 「みう……宇佐田(うさだ)?」 「そうそう。正統派かわいい系じゃん」  三次会にはいないが、二次会までは顔を出していた気がする。女優のだれそれに似ているとよく有象無象たちが騒ぐので、名前だけは印象には残っているが、いまいちピンとこない。  多分、俺は初恋がよくなかった。  穢れのない楽園のような場所で天使に恋をした人間が、その後、俗世間に揉まれる中、所帯を持てるはずもない。 「さては、相当な美人と恋人だったんじゃないか?」 「そ、んなわけ……」  いい線を突いてきた崇臣の言葉に少しギクリとしたが、それも一瞬だ。 「学生時代のマドンナ的な? 深窓の令嬢的な? 多くの男どもが高根の花だと思い悩んでいた超絶美人を手折ることに成功したんだろ!」 「……違う」  崇臣が「嘘だあ」と酒臭い息を吹きかけてくる。俺の息も相当臭いだろうが、吹きかけ返すような子ども染みたことはしなかった。ただ、そっぽを向く。  俺の恋は、天使に恋をした人間のそれと同じだ。  決して、届かない。それ以上に、届いてはならない、の方が正しいが。 「お前、男前だからな。その気になればすぐ結婚できそうだけど。恋愛で高レベルの女を経験するとこうなっちまうのか……。下々には興味ないって感じか……。つか、お前の場合、初体験もすごそ――」 「うるさい」  初体験と聞いて、ぞわりと背筋の毛が逆立った。長い間忘れていたおぞましい記憶がよみがえりかけ、目の前のどぶろくを一気にあおった。 「おい」 「便所」  この話を続けたくない。スマホだけ持って席を離れる。戻ってきた頃には崇臣が違う話題を出してくれることを願って。  便所の洗面台の前でスマホを見た。チャットアプリの着信を知らせる表示が出ている。開くと、家にいる百晴から連絡が来ていた。  吐き気より嫌な気持ちがすっと消えていくのを感じる。  百晴は、三十二歳になる。それでも見た目は昔からほとんど変わらない。比喩ではない。本当にほとんど変わっていない。出会った頃が低学年だとすれば、やや高学年になったくらいで、どこからどう見てもまだ小学生だった。ただ、隠しようがないほどに、表情は大人で、瞳の奥にも聡明さが光る。  そのアンバランスさが神秘的であり、三十路を過ぎたおっさんを天使だなんて馬鹿らしいが、俺にとっては未だに百晴は天使だった。  五年前に神父が風邪を拗らせて肺炎で亡くなった。それからは、教会を神父が望んでいた相手に引き渡し、百晴の看病は俺がすることになった。看病と言っても、車を運転して病院に連れて行くくらいだが。 『何時に帰る?』  すでに一時を回っていた。明日が休みだからなのか、なかなか終わる雰囲気にならない。人によってはこの後、カラオケに行って朝方まで遊ぶだろう。さすがに、それからは逃げるつもりだった。  酒の味を覚えてからは、割り勘だと一人で飲むより割安になるし、家で飲むのは百晴がいるから憚れるという思いで、ついつい飲み会に行くと長引いてしまう。今日も三次会まで来てしまったが、本当はこんなに遅くなるつもりはなかった。 『ごめん。先に寝てて』  申し訳ない気持ちで返事をすると、すぐに百晴から応答があった。 『泊り?』 『泊まらない。今の店を出たら帰るよ』  平均寿命を大きく上回って、百晴は生きている。恋をしないよう、ほとんど俺の名義で借りたマンションの部屋から出ずに暮らしている。その不自由さは計り知れない。だが、百晴がその暮らしそのものに文句を言ったことはなかった。  どうせと言ったら聞こえが悪いが、離れられないのだから、どれだけ文句を言ってくれてもいいのに、百晴は俺に甘えたりはしない。 「はあ……」  十歳で失恋した。それでも、完全に気持ちを消し去るには距離が近すぎて、俺は永遠に叶いっこない恋を胸の奥に飼い続けている。 『どこの店?』  百晴からの新着。 『駅前』  短く返す。 『おいしい?』  興味があるのだろうか。病気のせいで外食など滅多にしない。 『今度、行く? 個室もあるし』  当たり前だが、なるべく他人との接触を避けなければならない。それにせっかくの外食と言っても、食べられる量はほんの少しで、糖質やたんぱく質は避けなければならない。医者に相談すれば多少無理のきいた十代とはもう違うため、かなり気をつけなければならないがそれは百晴もわかっている。 『行こうかな』  こんな風に素直に外出したがるのは珍しい。  百晴がやりたいことはできるかぎり手伝うつもりだった。足になり、盾になり、そうやって百晴の世界に少しでも自由を、生きている楽しみのようなものを与えたかった。  病院から書類を貰えば、免許を取ることもできるが、不特定多数と接するのを避けるために、百晴は免許を持っていない。彼の目隠しや、足になることくらいしか、俺の恋心を慰めてくれるものはない。  なぜ、こんなに好きなのか。考えても答えが出ずに嫌になる。俺はゲイではないらしく、男だからといって欲情しないし、百晴の見た目と同じ年ごろの子どもが好きというわけでもないから小児性愛でもない。  俺は本当にただ単に、百晴だけを大切に思っている。ただ、それだけ。  理由らしい理由なんてないその気持ちは、もう引き返せないところまで来ている。  席に戻ると、崇臣がやっと戻ってきた飲み仲間の俺に揚々と手招きする。 「そろそろ風呂に入りたいから帰りたいんだけど」  座りながら崇臣にそうこぼすと「何言ってんだ」と笑われた。 「お前は汗臭いくらいでちょうどいいんだよ」 「……意味がわからない」  百晴はもう寝室だろうか。  中身は大人なのだから、そこまで心配する必要がないのはわかっているが、時々、突飛なことをするせいで何となく不安だった。できもしない料理をしてみたり、掃除をしてみたり。部屋がしっちゃかめっちゃかになるのは構わないが、百晴が怪我をしたら大事だ。病院で診察してもらうのにも、受付だ、看護師だ、なんだかんだと他人に会うたびにかなり神経を使う。  日本酒を飲みながら、今度野球観戦に行くという崇臣の話を聞いていると、横の方でどんちゃん騒いでいた同僚がどよめいた。  そっちに目を向けて、思わず立ち上がった。  立ち上がったものの、状況が飲み込めずに頭が真っ白になる。  そんな俺を見て「兄さん」と手を振る少年――百晴が、いかにも無邪気そうな顔で、大勢の間にいた。 「な」  なんで、と問いかけるより一瞬早く、頭が働き出してさっきのやりとりを思い返すことができた。  チャットアプリで百晴に今度この店に行きたいかどうか聞いた。そしたら『行こうかな』と返ってきた。『行きたい』とか『行ってみたい』とかではなく『行こうかな』。  妙に不安だったのは、あの返事のせいに違いない。  今更気づいても遅い。だが、まさか、来るなんて思わない。  道中、誰を見たのか。誰に会ったのか。ここへきて、誰と話して、どんな人を見て……。 「幸甫くんの弟? いくつ?」 「歳離れてるんだあ。かわいー」  酔っぱらっている他部署の女たちが百晴に近づこうとする。  やめろ、やめろやめろ!  俺は自分の荷物を引っ掴んで、百晴の小さい手を引っ張って女たちから引き離す。 「なんで来たんだっ!」  百晴の肩をを掴んで怒鳴りつけると、にぎやかだった周りが静まり返った。  静寂の中で、百晴は悪びれることなく「だって、帰りが遅いんだもん」と俺を見上げる。 「何がだもんだよ……」  おっさんの癖にすっかり弟というキャラになりきっている。  こんな人が集まるような場所、一番来たらまずいのに。  だが、来てしまった以上、これ以上ここで何を言っても仕方がない。財布から多めに金を出して近くの同僚に押し付ける。 「悪い、帰るから」 「お、おお」  上着を百晴の頭からかけて前が見えないようにして抱き上げる。すぐ店を出た。  通りはすでに閑散としていたので少しほっとする。歩いて来たのだとしても、これならほとんど誰かと会うことはなかったに違いない。 「怒ったのか」  腕の中、上着の下で百晴がぼそりと問いかけてくる。弟ぶっていた時とは違う声色だった。 「悪かった。ちょっとした悪戯心というやつで」  店では反省の色なんてちらりとも見せなかったが、少しは悪く思っているらしい。 「……酔いが覚めた」 「元々、酔っぱらったりしないじゃないか」 「そういう話じゃなくて、わかるだろ。こういうことだけはしないでほしい……。本当に」  肝が冷える、なんてもんじゃない。  百晴は上着をめくり顔を出し、俺をまっすぐに真摯に見つめてくる。  少し重いが、それでも抱きかかえられるほどの子どもの背丈しかない。それでも、こうして見つめられると彼が俺より大人だということを痛感し、胸が痛くて、苦しくなる。 「もうしない。悪かった」  そう言って俺に体重を預けてくるこの人を、どうしようもなく愛している自分を馬鹿だと思う。  喉元をもたれかかった百晴の髪にくすぐられ、なんとも言えない気持ちになる。怒っていたはずなのに、風呂に入ったらしい百晴の頭からいい匂いがしてそっちの方が気になる。  店に来たあの一瞬で誰かに一目ぼれした、なんて事態にはなっていないようで百晴はいつも通りだった。怒っているのもバカバカしくなるほどに。 「仕事、楽しいかい?」  急に尋ねられて一瞬、返事に迷った。 「……それなり。一応やりがいはあるから、転職とかは考えてないけど。ヤな奴はいるよ。死なねえかなあとかは思う」  正直に答えると、百晴がふっと笑った。どんな顔をしているのか見るより先に、百晴が話を継ぐ。 「わたしのことなんて放っておいて、結婚したらいいのに」  そう、ぼそりとつぶやかれた言葉に、俺は密やかに傷つきながら何も言わなかった。  大人になってから学んだことのひとつだ。この手の話題はどれだけ話し合っても喧嘩になるだけで発展がない。黙っているに限る。幸い、百晴の中身は大人でも体は子どもだ。遅くまで起きていられるだけの体力がない。  黙って歩いていくと、少しして百晴の体がずっしりと重たくなった。眠ったらしい。  見ると、何の過不足もなく、まさに天使のような寝顔だった。  立ち止まって少しだけその顔を眺める。  時々、俺は本物の天使を見ているのではないかと思う。愛らしい丸い輪郭。整った容貌。その奥にある知性が今は閉じられている瞳に映し出される時、俺はこの人以上に美しい人を知らないと心の底から思う。  今更、百晴を置いて誰かと結婚などという、他人に認められただけの凡庸な関係になろうとは思わなかった。世間から見れば変わっていると思われるだろうし、そのうち「結婚しない男」から「結婚できなかった男」に変わる。そんな目で見られるとわかっていても、百晴のそばを離れたくなかった。

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