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ふた´

 目を覚ますと、百晴がそばにいた。  心臓がバクバクしている。背中が汗でぐっしょり濡れていて、体が熱い。 「大丈夫?」  廊下に続く扉が開いていて、明かりが漏れている。  扉の近くにあるかけ時計を見ると、深夜三時。隣の部屋で寝ているはずの百晴がここにいるということは、相当うなされていたのだろう。  起こしてしまったことを申し訳なく思ったが「平気」と素っ気なく返した。  早く部屋を出て行ってほしかった。正直、まだ手が震えていて、目を閉じると赤く滲んだ世界の中で唾をまき散らせながら怒鳴りまくる男の鬼のような顔がそばにあるような気がして怖かった。  もう二十年近く昔のことなのに、未だに怖くて仕方がない。  情けない姿を見せたくないのに百晴は廊下の明かりを消しただけで、扉を閉めるとそっと俺の布団に潜り込んできた。  いつものことだった。  百晴は教会にいた時と同じように、俺がうなされると同じ布団で寝てくれる。  彼の体温を感じた途端、悪夢の恐怖が好きな人と同じ布団にいる幸福で上書きされる。単純で、どうしようもない俺の体。むず痒いような気恥ずかしさで背を向けると、小さい手が背を撫でてくる。 「大人の背中だね」 「……そりゃ、大人だから」 「七つも年下の癖に」  まだ体格が同じくらいだった頃はぺったりくっついて眠った。百晴に出会うまで、抱きしめられるのは吐くほど嫌だったのに不思議だった。今も、あまり誰かと触れ合うようなことは避けていた。崇臣みたいに他意のない相手ならまだ、あえて改めて触れられていることを深く考えるようなことをしなければ苦痛には思わない。  ただ、好意を感じると男も女も関係なく気持ちが悪いし、好意のあるなし関係なく特に、唾を飛ばしながら話す人は本当にだめで、会社で一度そういう相手を応対したが、五分もしないうちにトイレに駆け込んでげえげえ吐くことになった。  吐いてる最中、頭に浮かんだのは百晴のことだ。百晴に会いたいと、それだけ。 「わたしが本当に三十二歳だったら、どんな姿かな」  俺の夢の内容を百晴は知っている。そこから意識をそらさせようとしているのだろう。突飛な質問だった。  俺も夢から離れたくて真面目に少し考えてみたが、想像したら考え出した始めに思ったより面白くて笑えてきた。 「え、なんで笑うの」 「引きこもりなんだから、やせっぽちで、もやしみたいなおっさんじゃん?」 「ゆ、夢がない……。それはあんまりじゃない?」  大人の百晴。それは何度も想像した。今みたいに同じベッドで寝て、体をこすり合わせて、いやらしい妄想のネタにすることも少なくなかった。だが、そのたびに想像してはあり得ないと、あり得てはならないと自分を責めた。  今の百晴の体が今の年齢に追いつく時、それは百晴が誰かに恋をして、死ぬ時だ。 「……ずっと子どもでいいだろ」  ずっと俺だけの天使でいてほしい。 「俺もずっと子どもでいたかった」  精通した日。俺は百晴とセックスする妄想をした。大人の百晴に抱かれることを夢想して、臭くて熱い精子を手に吐き出して、申し訳なさで死にたくなった。  大人になりたくなかった。百晴と一緒にずっと子どものままでいたかった。  百晴は背に額を押し付けてきた。  触れられた背中が熱い。服を一枚隔てた向こうに吐息の熱を感じる。  ただそばにいるだけで、これ以上を望むことなく、心から満足できたあの頃に戻りたい。肉欲を知らずに、楽園で純粋でいられたあの頃に。  ふいにずきっと背中に痛みが走った。百晴に噛まれた。  驚いて振り向くと、布団の陰できれいな顔が恨めし気に俺を見ている。 「わたしは大人になりたかったよ」  百晴に服を引っ張られた。  その手に込められた力はきっと百晴の全力なのだろう。だが、俺を引き寄せるだけの力はない。 「大人になりたかったんだ……」  その目が本気だと告げている。  大人になりたかった。それは紛れもない本心だろう。当たり前だ。年下に面倒を見てもらうような生活ではなく、自分で働き、人と触れ合い、恋をしたかったに違いない。それが、普通だ。そう思って当然だ。  おかしいのは俺だ。 「ごめん」  反射的に謝ると「何もわからないくせに」といつになく責めるようなことを言う。  その通りだから、何も言えなかった。百晴がどんな思いを抱えているか、俺には想像しかできない。言葉で説明されても、本当のところも、深いところもわからない。いつかのあの最期の時まで泣きわめき続けた彼女もそうだったように、百晴の病気は百晴のものだ。  百晴はぎゅっと目を閉じて黙って俺の服を握っていた。  しばらくして手の力が緩む。眠ったのかと思ったら「ごめん」と謝ってきた。 「慰めに来たのに、怒ったりして」 「いいよ」 「……いいの?」  意外そうに百晴が言う。  だって、喧嘩なんかしたくないのだから、仕方がない。  布団にもぐり、百晴と向かい合う。  好きな人と仲良くしていたいと思うのは、普通のことだろう。それに俺にはどれくらいそういう幸福な時間が許されているかわからない。  平均寿命はとっくの昔に過ぎている。いつ百晴の病状が悪化してもおかしくない。恋なんかしなくても、無理やり成長を抑えつけるなんて、いつか体に無理が来るに決まっている。 「……百晴」 「ん?」  幼い手が優しく俺の髪を撫でる。その心地よさに目を閉じる。  暴力と性虐しか知らず、他人に触れられることが心の底から嫌だった俺に、優しく触れられることの幸せを教えてくれたのは百晴だった。  この温かい手がいつか、誰かのものになるなんて嫌だ。  そしてその誰かのせいで百晴が死ぬなんて、許せない。誰かを好きになるのなら、その誰かは俺にしてほしい。どうせいつか、誰かに恋をして死ぬなら、俺を好きになってほしかった。死んでしまう前に恋をするなら、俺にしてほしい。  そしたら、俺は死ぬから。百晴と一緒にちゃんと死んでみせるから。  百晴が死んだら、俺も死んでいい?  そう心の中で問いかけて、百晴の顔を見た。百晴は静かな目をしていた。俺を見つめる目は、小学生のそれではなく、やはりこの人が三十を過ぎた大人なのだと感じさせる。 「……幸甫が許してくれたから、寝ようかな」 「本当にここで寝るのかよ」  百晴は「うん」と子どものように顎を引き、目を閉じた。  真似をするように目を閉じると、夢を見た。教会のミサを抜け出し、百晴と遊ぶ夢だった。

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