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第6話
二人はパブを出て、ブラックキャブを拾うために大通りへ出る。
レイは少し足元をふらつかせていた。酔っていない、と強硬に反論していたが、やはり少しアルコールが回っているのかもしれない。リチャードはレイが転びそうになったら、すぐに手助けできるように斜め後ろを歩いてやる。気付かれると絶対に嫌がられるのが分かっているので、さり気なくフォローできる距離感を保つ。
この時間はもう帰宅ラッシュも終わり、道も大分空いていた。
数分待つと、一台空車が来るのが見えたので、リチャードは手を真横に上げて「タクシー!」と呼び止める。
ロンドンで流しのタクシーはブラックキャブのみだが、呼び止める際には日本のように手を真上に上げるのではなく、地面と平行に腕を真横に上げる。その際大声で「タクシー」と呼ぶ(Hail/ヘイル)のが一般的だ。
リチャードは停車したブラックキャブの運転手席を覗き込むと「ケンジントンチャーチストリートまで頼みたいんだが」と尋ねる。運転手は「いいですよ、乗ってください」と了解した。
レイはぼんやりと、どこか焦点が合わない目をして立っている。リチャードは「レイ、キャブ来たよ」と声をかけ、手を引いてキャブのドアを開けて中に乗せる。自分も隣の席に座ると、キャブは夜のロンドンの街を走り出した。
ロンドンの街中も中心部を外れると途端に人通りがまばらになる。中心部の歓楽街は夜中まで、地元のロンドナーや各国からの観光客で賑わっているが、少し外れただけで静かな住宅街が増えるのだ。
リチャードが住んでいるのはロンドン西部の高級住宅街の一角だった。勿論、彼の持ち家ではなく借家で、それも一軒家ではなくフラットと呼ばれるタイプである。リチャードのフラットは建物の地上階全部が彼の住居スペースで、この辺りでは一般的なタイプだった。ちなみに建物は地上三階、地下一階で、地下と二階、三階は別の人間が借りて住んでいる。
リチャードは幸運な事に、知り合いからこの辺りの地価からは考えられないくらいの破格の家賃で、このフラットを借りていた。普通の警察官の給与では、この辺りにフラットを借りるのは通常不可能だ。
周囲は緑が多く、王立公園も近くにはある。大通りから一本内側に入ると、ヴィクトリア建築の堂々たる白亜の建物が立ち並び、そのどれもが億以上の値段で取引されている。ロンドンの地価は世界でも有数の高さだった。
7,8分も乗ると、リチャードのフラットの近所に出る。キャブの運転手が「この近くですか?」と尋ねてきた。
「次の信号の手前で右に曲がって……ああ、あそこに停まっている赤い車の後ろで停めてくれないか?」
リチャードが指示を出したとおり、キャブの運転手は信号の手前で右折すると、赤い車の後ろに停車してくれる。リチャードは運賃を支払うために、先にキャブを降りる。
ブラックキャブの支払いは必ず降りて、外から運転手席、または助手席の窓から運賃を手渡す。その際に10%ほどのチップを上乗せして渡すのが礼儀だ。
「ありがとう」
リチャードは礼を言いながら、チップを含めた金額の運賃を手渡した。
「どうも」
運転手は愛想良く笑顔で受け取ると走り去った。
リチャードが振り返ると、手持ち無沙汰な様子でレイがじっと見つめている。街灯の下に佇む彼の姿はまるで一枚の絵のように見えた。
「レイ……」
リチャードはポケットからフラットの鍵を取り出すと、レイを呼ぶ。彼はゆっくりと歩いてきて、ドアの鍵を開けるリチャードにそっと寄り添った。ドアが開くと、リチャードはレイの手を取る。彼は黙ったまま手を引かれて、リチャードのフラットの中に入った。
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