10 / 26
9
二階へ続くアパートの外階段を上りながら大きく息を吸い込む。少し開いている台所の窓からカレーの匂いが漂ってきて、頬が緩んだ。
「ただいま、翔宇」
「おう、おかえり響希。ていうか早くねえ? まさかのチェンジか?」
部屋着姿の翔宇が台所で鍋をかき混ぜている。カレーのいい匂い。心の中にポッと明かりが灯ったような、優しい気持ちが広がってゆく。
「ウケ強要されたから、こっちから拒否ってきたんだ」
「うわ。それは災難だったな、お疲れさん。カレーもう少しでできるから、軽くシャワー浴びれば?」
「そうする」
熱心に鍋をかき混ぜる翔宇の背中を見つめながら、俺は服を脱いで浴室に向かった。
落ち着く――。翔宇が部屋にいてくれるだけで、本当に心が休まる。例え翔宇の気持ちが零に向いていても構わない。ずっとこの部屋で、翔宇と一緒に暮らせるなら。
念入りにシャワーを浴びて汗を流し、口の中を濯ぎまくった。あの客の体液がほんの少しでも残ってる中で翔宇のカレーを食うなんて、絶対に嫌だった。
歯を磨いてから服を着てリビングに戻ると、テーブルの上にカレーが二つ並べられていた。
「詩音特製のシーフードカレーなのだ。冷めないうちにどうぞ、流星様」
「うむ」
床に正座して仰々しくスプーンを差し出してくる翔宇に、俺も笑って応える。
「いただきます」
相変わらず翔宇の作る料理は美味い。
カレーを頬張りながら、俺はついさっきの出来事について愚痴をこぼした。
「客に言われたんだ。タチもウケもできるようになれば、もっと仕事が増えるって。だから手伝ってやるって。大きなお世話だろ」
「なるほどな。まぁ確かに一理あるわ。両方できれば仕事の幅も広がるし、もっと稼げるようになるし。実際零なんかはタチウケ両方やってるから、あれだけいい部屋に住めてる訳だし」
翔宇が苦笑しながら言った。俺だってそうは思うけど、無理なものは無理なんだから仕方ない。金はないよりあった方がいいに決まってるが、俺は別に、今の生活に満足している。
何よりも、金のためにプライドまで捨てたくはない。それは翔宇だって同じのはずだ。
「特に響希って、パッと見はウケ顔だもんな。俺でさえたまにムラっとくるもん」
「ウケ顔ってなんだよ、意味分からん」
「ほら、なんか若いアイドルグループみたいなやつ。歌って踊るようなのいるじゃん」
「アイドルって柄じゃないだろ」
「とにかくそんな感じでさ、響希は見た目ウケできそうだもん。第一印象で勘違いする客もいるだろうよ」
「人を見た目で判断するのは良くないって、ガキの頃母ちゃんが言ってた」
ふて腐れたように呟いてカレーを頬張ると、翔宇がスプーンの先を俺に向けて言った。
「響希の母ちゃん、教育熱心だったもんなぁ。日曜とか遊びに行くのも一苦労だったよな」
「ん。塾と書道と空手と英会話と……あと何やらされてたっけな」
「でもさ、そんだけ金かけて習い事させて、今は売り専やってるなんて母ちゃんにバレたら殺されんじゃねえの? 雑誌とかネットに顔出してて大丈夫なのか?」
「ウチの家族は死んでもそんなの見ねえよ。それに、地元出てもう四年も経つんだぜ。さすがに俺のことは諦めてるだろ」
「そうかねぇ。響希の母ちゃん、響希のこと溺愛してたもんな……」
四年前、逃げるようにして翔宇と始発電車に飛び乗った日のことを思い出した。
大学の推薦を全て蹴った時も大激怒されたが、卒業後に東京へ行くと言った時の母親の怒り方はそれ以上に凄まじかった。好きなようにやらせてやれと言ってくれた親父も俺と同じくらい引っ叩かれていたし、八坂家史上最大の修羅場だったと思う。
俺としてはその時ついでにゲイであることをカミングアウトするつもりでいたけど、とてもそんなことを言い出せる状況じゃなかった。
――あの朝、車内で翔宇と身を寄せ合って眠る俺の鞄の中で、鬼のようにスマホが鳴っていた。東京に来て一番最初にしたことが端末の解約だったっけ。今はその罪滅ぼしのためにも、親父の口座を通して実家に毎月仕送りしている。そろそろ弟の大学受験に役立つ頃かもしれない。
「たぶん俺、響希の母ちゃんに嫌われまくってるぞ。母ちゃんから大事な響希を奪ったようなモンだ」
「売り専あがったら一度帰ってみてもいいんだけど、今はまださすがに気まずい」
「響希。中学ん時の花火大会の日のこと、覚えてるか?」
ふいに翔宇が呟いて、俺はスプーンを握っていた手を止めた。
遠いものを見るような目で、翔宇が語り出す。
「塾行くって嘘ついて、一緒に見に行ったよな。小遣い出し合って焼きそば食ってさ。拾った百円でクジ引いて、せっかく響希にプラモデルゲットしてやったのに、母ちゃんにバレるからってつき返されたっけ」
「結局バレて、二人でビンタされたけどな」
「あれマジで痛かったぞ。でも、すげえ楽しかった」
今でもすぐに思い出せる、あの夜空。人々の熱気。翔宇の横顔。大輪が咲いたあの瞬間の音でさえ、鼓膜の奥で蘇ってくる。
「響希。今年も一緒に行こうぜ、花火大会」
何気なく呟かれた翔宇のその言葉に、俺の胸が熱くなる。それを必死に隠しながら、俺は壁のカレンダーに目を向けて言った。
「近い所だと、いつだっけ?」
「確か来月の七日だったかな。七夕の日」
七月七日――。
「ごめん……俺、七夕は誕生日って設定になってるんだ、流星の」
それを聞いた翔宇が残念そうに肩を落とし、笑った。
「そりゃ仕事優先した方がいいぜ。どうせ太客から予約入るだろ、一気に稼げるじゃん」
「……でも」
「違う日にやるやつ行こうぜ。どうせ夏の間あちこちでやるんだから、いつでも行けるさ」
小さく頷いた俺を見て翔宇も頷く。それから引き寄せたグラスに牛乳を注ぎ、俺の方へと差し出してくれた。
「零も誘ってくか。あいつガキっぽいから花火とか好きそうだもんな」
「ん。そうだな……」
きっとその時、俺の思い出が上書きされることになるんだろう。
もう、半ば諦めている。だから……
「翔宇」
「ん?」
「……俺、ウケやってみようかな」
翔宇が目を丸くさせ、俺を見た。
「どう思う?」
「どうって言われても……」
もしかしたら翔宇は止めてくれるんじゃないか――そんな期待めいた思いが頭にあった。だけど……
「響希が決めたことなら、いいと思うぞ。仕事のことに口出しはしねえって、俺らのルールだろ?」
翔宇はそういう奴だ。俺が一番よく知っている。だから期待はしてたけど、落胆はしなかった。
テーブルの一点を見つめて小さく笑い、呟く。
「じゃあその時は、練習するの……翔宇が手伝ってくれるか」
言ってしまった。
目を伏せて牛乳のグラスに手を伸ばす。沈黙が痛い。もう、翔宇の顔は見られない。
「それは……マジで俺に開発してほしいってこと?」
瞼の裏側に浮かんだ、あの光景が消えてしまわないうちに。
「初めては、翔宇がいいから」
空を指さして歓声をあげる子供達。浴衣姿の女の子やカップル。その中に紛れて、誰かが俺を見ている。
「響希?」
俺を見つめるその人物、それは――
「っ……!」
零だった。
「ち、違うっ。翔宇なら慣れてるし、信用できるからそう言っただけで……。何なら金払うし、無理なら他の奴に頼むから、別に断ってくれてもいいんだけど……」
「俺でいいなら、いいよ」
顔を上げて翔宇を見た。俺の目の前でカレーを頬張りながら、翔宇は少しだけ困ったような顔で笑っている。
「他ならぬ響希の頼みなら手伝ってやるよ。金はいらん」
「………」
「ていうかちょっと楽しみ。響希ガード固すぎだし、どうやって攻略するか毎晩息子と相談してたんよ、俺」
「馬鹿じゃねえの」
冗談ぽく言う翔宇の笑顔が胸に痛くて、俺は小さく唇を尖らせながら悪態をついた。
「……でもありがとな。助かる」
最初で最後だ。一度きり、もう二度とこんなこと言わないから。
終わったら、お前への想いはあの夜の思い出と一緒に消去するよう、できるだけの努力はするから……。
「じゃ、飯食ったら一緒に風呂入るか。詩音様のテクで響希を昇天さしてやる」
「えっ、今日やるのか?」
「善は急げだ」
いとも簡単に事が進んで、嬉しい半面少しだけ切なくなった。
翔宇は親友の俺でさえも、本気でセックスの対象として見ることができるんだ。複雑な気分だった。
ともだちにシェアしよう!