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風呂場での一件から二週間以上が過ぎた。例年よりも早く梅雨が明け、夏の暑さがついに本気を出し始める、希望と期待で溢れ返った七月四日、火曜日。
だけど俺は、あれから未だに気持ちの整理ができていなかった。
「響希、まだウケ本番しないのかよ。せっかく俺が手伝うって言ってやったのに」
「そりゃ、心の準備もあるしさ。前回は誰かさんのせいであんな結果で終わったから、色々考えてて」
「だ、だからそれは悪かったって。でもあれからどんだけ経ってると思ってんだよ。準備するにも程があるぞ」
「そうは言ってもさ」
今日は翔宇と一緒に出勤して、二人で店の待機室を使いながら予約が入るのを待っていた。
平日でしかも真っ昼間。窮屈な簡易ベッドの上に二人であぐらをかき、ジュースと煙草で時間を潰す。二人とも最近仕事ばかりだったから、こうしてお茶挽く時間がなんだか新鮮で楽しかった。
「そういや響希、この前の二人で撮影した時の雑誌、出てたぞ。見たか?」
「いや、まだ見てない。翔宇はもう見たのか?」
「なんと丁度ここにあるんすよ。じゃん」
出勤前に寄ったコンビニの袋から翔宇が雑誌を取り出した。
「何それ。今はそんなのコンビニで売ってんのか」
「いや、店に届いた分をさっき店長から借りたんだ。響希を驚かせようと思って、ここに隠してた」
表紙の端っこに『大人気!Gラッシュ詩音&流星特集!』なんて恥ずかしいことが書いてある。付箋が貼られたそのページを開いた瞬間、俺と翔宇が抱き合ってカメラに向かって笑っている写真が目に入り、思わず赤面して雑誌を乱暴に閉じてしまった。
「閉じんなよ。俺も見たい」
翔宇が俺の手から引ったくるようにして雑誌を奪い、ベッドの上で再びそのページを開いた。
「響希笑ってる。可愛いなお前」
「……この写真、超ふざけてた時のやつじゃん。遊びで撮ってんのかと思ったのに、なんでこんな写真を使うかな」
「あ、でもキメ顔のも使われてるぞ。スーツ着ると響希ってホストみてえだな。髪も盛りすぎだろ」
「そういうふうにセットされたんだから仕方ねえじゃん……」
火照った頬を手で撫でつつ、インタビューの内容に目を通す。
中学、高校時代の二人の話なんかもちゃんと載っている。冬に二人で心霊スポットに行ったこと、虫嫌いな翔宇のために俺が水鉄砲で蝉を追っ払ってやったこと。売り専の仕事を始めようと話し合った日の会話。懐かしくて微笑ましい俺と翔宇の思い出の数々が一ページにまとまっていて、なんだか顔がニヤけてしまう。
ふと、翔宇が言った。
「ちょっと無理矢理カップリングさせてる感じするよな。このままだと零が言ってた通り、二人でAV出させられるレベルだぞ。そうなったらどうするよ、響希」
「………」
翔宇となら別にいい。
ふざけて言おうとして、だけど言えなかった。
「……あっ、見てみろ響希。零の店も載ってるじゃん。これ零だろ」
翔宇が適当に捲ったページを指さして言った。
見ると確かに、新人のボーイ達が数枚掲載されている横に、『人気ナンバーワン』のコメント付きで零も小さく紹介されている。
「へぇ、さすがに零のところは若い奴が多いな。本当か知らんけど十代ばっかりだ」
思わず感心してしまった。
どのボーイも一様に愛嬌のある顔立ちをしている。だけど、その中でもやはり零の人間離れした美しさは群を抜いていた。
「確かに。こいつら片っ端から全員揉み倒してやろうかな」
「それ相当金かかるぞ」
「じゃあ響希とする」
「一人で抜いてろ」
それから雑誌を閉じ、俺達はまた他愛のない会話で盛り上がった。
「目標額貯まったら、もっといい所に引っ越そう」とか、「どっちが早く客つくか賭けよう」とか話していると、そのうちに翔宇が、
「七夕の花火大会のことだけど」
そう切り出してきた。俺だけ行けないことを考えるとどうしても切なくなってしまうが、空気を壊すのも嫌だったからわざと身を乗り出して相槌を打つ。
「零誘ったら、仕事なければ行くって言ってた」
「良かったじゃん」
「響希とはまた別の日に予定組まないとな。調べたら八月の頭くらいにもでかいのがあるらしいから、早いうちに休み希望出しておこうぜ」
「そうだな。まぁ、七日は仮の誕生日を盛大に祝ってもらうさ。俺が高級ワイン飲みながら風呂に入ってのんびりしてる間に、翔宇は暑い中熱いモン食って汗だくになるがいい」
俺が言うと、翔宇が煙草の灰を灰皿に落としながら笑った。
「ていうか汗だくついでに、今度こそ零とヤる」
「青姦だけはやめとけよ。警察もいるだろうし」
「俺がそんなことすると思うかっ」
笑っていれば気分も紛れる。嫌なことが頭を過っても、顔に出さずにいられる。今の俺はこの場を笑顔でやり過ごすしかないのだ。そんな自分が惨めで、情けない。
その時、ノックの音がして待機室のドアが開いた。
「流星くん、詩音くんいる?」
顔を覗かせたのは奥田さんだった。手にしたメモを見ながら、明るい声で俺と翔宇に告げる。
「ええと、流星くんは出張で六十分の予約が一本。詩音くんは新規のお客さん来てるから、ついてあげれるかな」
「二人同時か。引き分けだな」
俺が呟くと、煙草を処理しながらベッドを降りた翔宇が奥田さんに質問した。
「奥田っち。俺は何百分コースたもうた?」
「詩音くんは個室で百二十分たもうたよ」
「二倍で俺の勝ち! 流星、終わったらここに戻って来いよ。次も俺が勝つから」
そう残して部屋を出て行く翔宇の背中を見つめていると、奥田さんが口元に手をあてて俺に囁いた。
「流星くん、今日は結城さんからの予約だよ。誕生日の日のこと、よろしくね」
「分かりました。じゃあ、準備します」
「車で待ってるよ」
結城佳宏。俺の上客だが、七日を目前にして予約を入れてくるなんて何かあったのだろうか。しかも普段なら半日、最低でも百二十分コースで入れてくるのに、今日は六十分とずいぶん短い。
「あ、そうか」
よく考えてみたら今日は平日だ。たまたま時間が空いたのか、それとも必死に時間を作ったのか。どちらでも構わないが、会社を経営している忙しい身で俺に会いに来てくれるなんて、可愛い人だと思った。
「まぁ、あの人なら延長もあり得るか」
一通りの商売道具を用意して待機室を出ると、ちょうどフロント付近で翔宇と客が並んでいる姿が目に入った。
相手の客は三十歳くらいだろうか。着ている服は普段着で、今日は仕事が休みらしい。しきりに翔宇の顔を見てニコニコしている。翔宇も愛嬌たっぷりに笑っていた。普段俺にはあまり見せない、媚を含んだ笑顔だった。
「………」
翔宇達がプレイ用の個室がある方へ向かってから三分ほどタイミングをずらして、俺も店の外に出た。
送迎車の後部座席に乗り込み、視線を窓の外に走らせる。平日昼間の繁華街は当前だけどネオンもなく、夜のそれとは違って健康的で、優しい光に包まれていた。俺には似つかわしくない明るさだ。
「どっちが早くお客さんつくか話してたんだ?」
エンジンをかけながら奥田さんがふいにそんな質問をしてきて、俺は窓から運転席の方へ視線を移動させた。
「平日は暇ですからね。結城さんが予約してくれたのはかなりの偶然だし、俺の負けかな」
「偶然は言い換えれば運だよ。運も実力のうち、だよ」
駅前の交差点に差し掛かった車が赤信号で停車する。俺はシートに深くもたれながら、何を考えるでもなく前を見ていた。
「流星くん、変なこと聞いていい?」
「はい?」
「詩音くんと付き合ってる?」
「いえ」
奥田さんはフロントガラスの向こうを見つめたまま、そうか、と素っ気ない返事をした。
「どうしてそんなこと聞くんですか? あ、もしかしたらあの雑誌見てそう思ったんじゃないですか?」
「それもあるかなぁ。もう仲良しを通り越してラブラブ、って感じだったからね」
「ボーイ同士で絡ませるの、流行ってるんですかね」
「でも雑誌の件がなくても、やっぱり君達って傍から見ててすごく仲良いしさ。だからちょっと気になって」
「……あいつとは幼馴染だから一緒にいると楽なだけで、そういう感情は互いに全くないですよ。俺ら、タチ同士だし」
自分で言いながら、胸の奥がチクリと痛んだ。
信号が青に変わる。
「それならそれでいいんだけど、この仕事は恋愛が絡むと大変だからね。僕は立場上ボーイの子とよく話をするけど、意外とそういう子って多いんだよ」
言い返せなかった。奥田さんの言うことはもっともだ。
「この仕事と恋愛は両立が難しいでしょ。だから今、流星くんと詩音くんに同時に仕事辞められたら困るな、なんて思ってね。二人とも人気だし、常連さんもいるから」
「詩音と俺は、何もないですよ」
「ん。……でもウチは若い子も多いし、これだけ大勢で仲良くしてたら、そりゃ中には恋愛話の一つや二つあってもおかしくないよね」
空気を変えるような明るい声で奥田さんが言った。だから俺も、それに冗談で応じる。
「だったらGラッシュ恒例のカラオケとか飲み会とか、いい加減廃止した方がいいんじゃないですか?」
「確かに。店長のあの歌声には、僕もそろそろ限界」
車内に笑い声が響いた。
「はい、着いたよ。もし延長あったら連絡してね、待ってるから」
「了解です。行ってきます」
いつものホテル。部屋は最上階、一五〇五号室。
エレベーターの中で、俺は壁にもたれて息を吐いた。さすがに奥田さんはベテランなだけあって、いつも俺の心を見透かしているように思える。
わざわざあんな話をするのだから、本当に俺と翔宇が付き合ってると思ったのだろうか。それとも、彼の目には俺が翔宇に好意を抱いてるように見えたのだろうか。
どっちにしろ、釘を刺された。
店を辞められると困るのもあるだろうが、きっと俺が傷付かないようにと、彼なりの優しさだったんだと思う。奥田さん自身も元ボーイなのだ。もしかしたら、俺と同じような恋愛に悩んだ時期があったのかもしれない。
この仕事と恋愛の両立は難しい……。言われなくても大丈夫だ。両立に悩む前に、俺は翔宇とは絶対結ばれない。
一つ溜息をついて、俺は一五〇五室のドアをノックした。
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