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*  空はすっかり暗くなっていた。  俺の好きな夏の夜空。だけどその下を歩く俺の足取りは、重い。  アパートに辿り着いても、ドアを開けるのが怖かった。このまま背を向けて翔宇のいない場所へ逃げてしまいたかった。  無意味だと知りながら、なるべく音を立てないようにしてドアを開ける。部屋の中は普段と同じ明るさで、テレビの音が玄関まで聞こえてきた。 「ただいま」  リビングに入ると、カウチソファに寝転がってテレビを見ていた翔宇が上半身を起こし、驚いたように目を丸くさせた。 「なんだ響希、帰ってきたのか。てっきり泊まってくるか、早くても夜中になるかと……」  俺は壁の時計に目を向けた。午後八時。 「だから夕飯用意してないぞ」 「外で食ったから大丈夫。翔宇、仕事お疲れ」 「ホント疲れたわ。どっかの誰かは一本終わったらさっさとデートしに行っちゃうしさ。あの後に響希を指名した客、俺がついてやったんだぞ」  愚痴をこぼしながらも、翔宇はいつもと同じ笑顔で笑っている。だけど俺には、その笑顔が微妙に引き攣っているように見えた。 「悪かった。でも……」 俺もソファの空いている所に座り、テレビに顔を向けた。つまらないバラエティ番組だ。翔宇はいつもこんなものばかり見ている。 「デートじゃねえ。ただ飯食っただけ」 「でも一発打ってきたんだろ?」 「ヤッてねえって。ファミレスで仕事の愚痴言ったりしてたんだ」  翔宇は寝転がったまま肩をすくめて、足の先で俺の脇腹を押した。 「正直に言えよ。俺とお前の仲だろ」 「しつこい。ていうか、お前だって俺に隠してただろ。零とヤッたって聞いたぞ」 「は? ヤッてねえよ」 「あいつがそう言ってたぞ」 「ただの勘違いだろ」 「勘違いで言えるようなことか? それともセフレが多くて覚えてないか?」  つい棘のある言い方をしてしまった。さすがの翔宇もカチンときたらしく、体を起こしてソファの上にあぐらをかき、テーブルの上の煙草に手を伸ばしながら言った。 「……なに? いちいち響希に言わなきゃいけないわけ? 俺が誰とヤろうと勝手じゃん」 「確かにそうだけど、お前今『俺とお前の仲』って言ったじゃん。俺だって、今さら翔宇にそういう隠し事されるのはいい気分しねえよ」  翔宇が面倒臭そうに黒髪をかき毟りながら、煙草の煙を床に向かって吐いた。 「あっそ。そんなら教えてやるけど、今日は三人とヤッてきたよ。昨日は四人、その前は……忘れた」 「仕事の話をしてるわけじゃねえだろ」 「響希の言ってる意味が分かんね。なんで俺お前に怒られなきゃなんねえの?」  苛立ちながら膝を揺らして煙草を吸う翔宇とは反対に、俺はできるだけ心を落ち着かせようと努力していた。翔宇の言い方は頭にくるものがあったが、先に突っ掛かった俺が悪いのは分かっている。ここで感情的になったら売り言葉に買い言葉、最悪殴り合いにまで発展してしまう可能性が高い。それだけは絶対に避けたかった。 「ごめん、言い方悪かったな」  俺は一つ深呼吸して気持ちを静め、ゆっくりと言葉を区切りながら話した。 「ただ俺は、翔宇が零とヤりたがってんの知ってたから、ヤッたならヤッたで話してもらいたかったんだ。俺ら学生の頃からそういう話して盛り上がってたじゃん。……でもまぁ、よく考えてみたら普通の大人はそういう話はしねえのかも……」  後半にかけて声が萎んでしまった。なんだか自分がものすごく馬鹿なことを言っているような気がして、途端に恥ずかしくなってきた。  翔宇が溜息に似た動作で紫煙を吐く。 「いや。俺が零とヤッたなら、間違いなく響希に言ってるってよ。ありもしねえ話を決め付けで言われると、そりゃ腹も立つってもんだろ」  そう言った翔宇の口調は普段通りの優しいものに戻っていた。片眉を吊り上げて笑いながら、俺に向かって何度も頷く。 「……じゃあ、本当に零とはヤッてないのか」 「こんなこと嘘ついたって何の意味もねえだろ」  考えてみれば確かにそうだ。 「……じゃあ、零はどうしてあんなこと言ったんだ?」 「知るかよ。響希に嫉妬させようと思って言ったんじゃねえの」 「なんで俺が……」  言いかけ、何となく理解した。あのやりとりで零は、俺が完全に翔宇に惚れていると見抜いたとか言ってたっけ。俺の気持ちを探るために、わざわざあんな嘘を……。  零に上手く誘導されたことを知り、そのせいで翔宇と不毛な言い合いをしてしまったことに腹が立った半面、零と翔宇が本当はまだ一線を越えていないと分かって少し安心した。 「しかしあの小僧、意外と小悪魔的なテク使うんだなぁ。なかなかやるな」  翔宇は、俺の「嫉妬」の相手が自分だと思い込んでいる。 「でも大丈夫、マジで俺はヤッてねえから安心しろ」 「翔宇の言う通り、誰とヤろうと別にいいんだけどさ。ていうか、俺は零に気があるわけじゃねえし」  言った瞬間、翔宇が身を乗り出してきた。 「そうなのか?」 「うん。……何だよ翔宇、俺が零のこと好きだと思ってたのか?」 「思ってた。何となく思ってた。だからやけに怒ってんのかと……」  翔宇は笑っていた。それは「自然と顔が綻んでしまう」といった種類の笑い方だった。俺が零に恋愛感情を持っていないと分かったのが、そんなに嬉しいのだろうか。 「いやぁ、響希が零を好きなら譲ろうと思ってたからよ、何かすげえ安心した。うん」 「そうか……」  やっぱり翔宇は零のことが好きなのだ。だけど、零はあのくだらない男が好きで翔宇のことはただのセフレとしか思っていない。  聞いたばかりの零の言葉が頭を過る。  ――みんなが幸せになれるといいのになぁ。  今のところ、見事に全員不幸せ。 胸が痛んだ。 「………」 「あ、そういえば今日奥田っちに聞いたんだけど、新店出すって話、響希知ってた?」  翔宇が弾む足取りで冷蔵庫に向かい、中からビールを取り出して言った。 「え? 聞いてない。どこに出すんだ」  差し出された缶ビールを受け取り、俺は首を傾げる。 「駅の反対側に系列店ができるんだってさ。そんで、俺と響希、そっちに行かされるかもしんないって」 「なんで俺達? もっと若い奴行かせた方が客も食い付くだろうが」 「知んねえけど、結構でかい店だから募集かけてもボーイが足りないらしいぞ。俺ら信用されてるし、それなりに売れてるからじゃねえの?」  同じ店舗間での異動だったら別に断る理由もないけれど、このままだとますますこの世界から抜け出せなくなるような気がして、俺は溜息をついた。 「強制じゃないなら、行かない。俺は今のとこでいいよ」 「えー。響希が行かないなら俺も行かないっ」  唇を尖らせる翔宇の顔とその言動が可愛くて、俺は笑った。 「零にその話して、移ってきてもらうってのはどうだ?」  そんな提案をすると、翔宇がビールを呷りながら眉根を寄せた。 「あいつナンバーがどうのとか言ってたじゃん。言っても来ねえだろ」 「俺らが余計なこと言ったから、スタッフの彼氏が贔屓すんの止めちゃったんだってよ。新人も増えて、客つかないって愚痴ってたぞ」 「ふぅん。じゃあ、この機会に売り専辞めればいいのに。若いんだし、あいつなら普通の仕事も余裕でできるだろ」  そうはいかないらしいことは俺しか知らない。稼いだ金を男に使っていることは、翔宇に言わない方が良いと思った。口止めされた訳ではないが、零のプライベートな問題をわざわざ俺の口から広める必要はない。 「でもまぁ、一応声かけてみっか。店長にも話聞いて、俺から零に連絡しとくよ」  何も知らないのは翔宇だけだ。零が惚れた男に貢いでいることも、俺が翔宇を好きだということも。  そしてその想いがここ最近になって、急激に膨れ上がってきていることも。

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