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 スタッフルームの隣にある店の入り口から中へ入る。フロントに何人かいたスタッフやボーイに挨拶をして、俺はいつも翔宇と使っている待機室に向かった。  ベッドの上に転がり、無機質な天井を見つめる。  翔宇に感謝されることなんて一つもしていない。客がごねれば一時間遅らせることだって不可能になるかもしれないし、零だって当日来るかどうか分からないのだ。期待させて、もし翔宇の望みが叶わないなんてことになったら俺はどうすればいいんだろう。 「ていうか、俺ってただの嫌な男じゃん……」 本当は翔宇に仕事が入ったことを喜んでいたんだろう? 自分が行けないから。 それに加えて、零が来なかったなら? 心の中で邪悪な声がこだました。こんな自分が醜く思えて、心の底から消えてしまいたくなる。 「響希っ!」  勢いよく開いたドアから翔宇が飛び込んで来た。 「ありがとう、マジで! 中川さん、九時からでもオッケーだって言ってくれたぜっ!」 「お、そうなんだ。良かったな……」  ベッドの上に仰向けになっていた俺の上に、飛び込んで来たままの勢いで翔宇の体が乗っかった。 「うっ!」 「響希が言ってくれたおかげ! マジでマジでサンキューだぞ!」  体を丸め、両手両足で俺を強く抱きしめる翔宇。いや、抱きしめるなんて生易しいものじゃない。今にも口から内臓が飛び出そうだ。 「わ、分かったからどけ! 苦し……重いんだよお前はっ!」 「響希、大好き! 愛してる! チューしてやろうか!」 「うるせえっ。いいから、取り敢えずどいてくれ!」  ようやく俺の上から体を起こした翔宇の頬は紅潮していて、本当に嬉しそうで可愛かった。 「俺さ、絶対に七夕の花火は行きたかったんだよ」 「へえ……」  どうして? 俺は行けないのに? 零と一緒に行けるから?  数々の疑問が浮かび上がるが、翔宇の輝いた瞳を目にしたら何も訊けなかった。 「……まぁ、何にしろ良かったな。楽しんでこいよ」 「任せろ!」  俺の隣に座り、自分の胸を叩いて翔宇が笑う。俺も一緒に笑ったが、その顔はすぐに曇ってしまった。 「そういえば響希の方は、偽誕生日にどこ連れてってもらうんだ?」 「まだ分かんないけど……」 「どこだと思う?」  少しだけ悔しくて、俺は翔宇に向かって顎を突き出した。 「何でもしてくれるって言ってたからな。色んな物買ってもらって、超高級ホテルでパーティーして、ロマネコンティの風呂に入ってやるよ」 「げ、逆に気持ち悪くなりそうだ。でもいいな、俺も誕生日にそういうのやってもらいたい。最高に愛されてるって感じするじゃん」  やっぱり、翔宇は分かってない。例えそんな夢のような時を過ごせたとしても、隣にいるのが好きな奴じゃなければそこに愛なんて存在しないのに。 「でもさぁ、金持ちの常連客って、ふとした時に空しくならねえのかな」  翔宇が足を伸ばし、壁に寄りかかりながら言った。 「だって俺らみたいな売り専に貢ぐのって、意味ねえじゃん。ホストとかキャバ嬢だったらまだ分かるけどさ。俺らは着飾る必要もないし、張り合うこともしないし、体売ってる以外はどこにでもいる普通の男じゃん」 「その客のお陰で俺ら飯食えてんだろ。意味ねえとか言うなって」 「そうだけどよ……」  翔宇が天井を仰ぎ見る。その横顔がどこか不安そうで、俺は堪らず問いかけた。 「……翔宇、何かあったの? 客に何か言われた?」 「いや……たださ、俺らもあと二、三年したらこの業界でチヤホヤされることもなくなるんだろうなぁって思うと、ちょっと怖いよな」  無理に笑う翔宇に、俺は言葉を詰まらせた。 「そこまで稼げる仕事ってわけじゃないから、引退した後に一生遊んで暮らせるような額にはなんねえだろ? とすると、やっぱまともな職に就かなきゃなんねえだろ。じゃあ、その時の俺にできることって何だろうなぁって考えると、これが何もないんだな」 「………」  翔宇が続けた。 「ガキの頃は大人になったら普通のサラリーマンになると思ってた。でも今、大人の代表みたいな会社員とかって、俺には無理なんだなって思ったらすげえ怖くなってさ。響希はそういうの考えたことない?」 「俺は別に、仕事なんて何だっていいと思ってるから」 「でも一度風俗とか経験すると、固定給なんて馬鹿らしくなってこないか? まぁ、俺らは結婚がないだけ他の男より楽かもしんねえけど」 「最終的に、幸せになればいいんだよ」 俺に幸せになってもらいたいんだと言っていた結城さんの言葉が頭に浮かんだ。 「どんな仕事してたって、自分が幸せだったら別にいいんじゃねえの? 例え安月給だって、家があって飯が食えてたまに友達と遊んだりできれば、それで充分なんじゃねえの」 「そっか……確かに、その時その時が幸せなら何でも良い気もする」  翔宇の表情が僅かに緩んだ。 「響希は、今幸せ?」 「え?」 「俺はすっげえ幸せ」 「………」 「仕事も順調で、友達もいる。そっか、オッサンになってもジジイになっても、この幸せ感を継続させればいいんだ。なんだ簡単じゃん、安月給たもうてバリバリ遊んでやる」  俺には分かる。翔宇が強がっていること。  何よりも「今」を愛している翔宇が、リアルな未来のことなんて考えられるはずがない。ましてや、その時に「今」と同じ幸せな気持ちでいられるという保障がないことなんて、翔宇自身が一番理解しているはずだ。  翔宇の心の不安が伝わってきて、俺はやり切れなくなった。 「翔宇」  俺はあぐらをかいていた体を移動させて翔宇の隣に座った。壁に寄りかかり、翔宇と肩をくっつけ合う。 「俺は、翔宇と一緒にいられたら満足だ」  翔宇の顔は見ないで言った。 「学生の時みたいに馬鹿なことやって笑ってられれば、それで幸せだ。だから今よりずっと歳取って、死ぬ寸前になっても、翔宇と暮らせてたらって思うよ」 「俺が響希を看取るの? 想像したらすげえ切ないんだけど」 「だからさ、俺とずっと一緒にいろよ」 「どうするかなぁ」  ふざけながら言う翔宇の手が、俺の手の上に乗せられた。 「俺が翔宇を幸せにする。好きな奴できたら、その都度相談にも乗ってやるから」  一応保険をかけておいた。だってそうしないと、まるで愛の告白をしてるみたいで。  手が強く握られる。 「響希、こっち向いて……」 見つめ合った目と目は互いに少しだけ濡れていた。 ここまでくればもう、この先の展開が安易に想像できる。俺の心臓はかつてない程に高鳴り、翔宇に握られている右手は尋常でない量の汗をかいていた。 「………」  鼻先五センチのところにあった翔宇の顔が、そのままゆっくりと、距離を縮めてくる。 「翔宇……」  静かに押し付けられた翔宇の唇は想像以上に柔らかくて、乾いているのに温かかった。  嫌な訳じゃない。むしろ、翔宇との初めてのキスに体中の細胞がざわめき立つような感動さえ覚えた。だけど…… 「ん、……」 本当に余裕がなくて、少しでも気を緩めたら泣いてしまいそうで。俺は翔宇の肩を軽く押して、顔を背けた。

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