2 / 7
1.神野家パニック
まさかそんな事が――
言葉を無くす徹に、鎌首を上げた白蛇は、真っ赤な舌をチロチロと出し入れし、あからさまにため息を吐いた。
『まったく、来るなと言ったのに……』
「蛇が……世流の声で、しゃべってる……?」
思考が追い付かない徹に、蛇はまたため息を吐く。
『信じられないだろうけど、なぜか今、俺は蛇の姿になっている。――俺が俺の声で話すのは、当たり前だろ?』
蛇の言う事が正しいなら、確かに世流が世流の声で話していても、まったくおかしくは無い。
ちょいちょいと毒が混ざる口調も、世流その者だ。
「じゃあ……志郎は?」
『俺はこっちだよ。イテテテ、テェ……』
扉の側でブルルッと体を振るわす犬が、ゆっくりと剣治に歩み寄る。
いや、その尖った耳と鋭い目、精悍(セイカン)な顔付きは狼のものだ。
「しっ、志郎!」
声を上げた剣治が、慌てて狼に駆け寄る。
「ごめん、大丈夫だったかい?」
『ん、どっかの馬鹿力のせいで、背中が痛(イテ)ェ』
膝をつく剣治の太股に、狼が顎を乗せ、剣治は優しく背中を撫でてやった。
徹よりも、順応が早いらしい。
『……徹、腕を出せ』
「は? 何で?」
『良いから出せ!』
少し尻込みする徹に、蛇の世流がシャーッと威嚇(イカク)する。
「わ、わあったよ……」
徹が渋々世流の前に腕を出すと、世流は蛇の俊敏さを発揮して、素早く徹の腕に巻き付いた。
「うぎゃっ!」
『変な声を出すな、この馬鹿!』
悲鳴を上げる徹に、世流が嘆かわしいと言わんばかりに、シャーッと唸る。
「し、仕方ねぇだろ……? 前世のお前は、もっとデカかったし……そうそう腕に蛇が巻き付く事なんか、ねぇんだからよ」
しどろもどろに弁解する徹に、世流はフンと鼻で息を吐き、徹の腕に三角の頭を擦り付けた。
剣治と志郎が羨ましかったのか、なんだかんだ憎まれ口を叩きながら、実は徹に甘えたかったらしい。
徹はおそるおそる手を伸ばし、細かい鱗に覆われた世流の小さい頭を、指先で優しく撫でた。
世流が満足そうに目を細め、赤い舌をチロチロと出し入れする。
そうしていると、外見は蛇だが、意外に可愛い。
徹はくすぐったそうに笑った。
今日一日、世流が心配で仕方なかったが、蛇に変身しているだけで、特に問題は無いらしい。
いや、姿が蛇になってしまっている事が、充分に問題だが――
取り敢えずは元気そうで、徹はやっと安心した。
そして何気無く剣治の方を見て――開いた口が塞がらない。
「剣治さんって……すんげぇ大物……」
『ムッ、何が――!?』
感嘆の声を漏らす徹に、ビクリと反応した世流が、腹立たしげに牙を剥く。
「うわっ! そう怒るなって……」
何かに嫉妬する世流を「どうどう……」と宥め、徹は苦笑した。
「だってよぉ……アレ、見ろよ」
徹に促され、世流が剣治達の方を向く。
そこでは、いつの間にか仰向けになった志郎(狼)が、剣治に腹を撫でられて、気持ち良さそうにハフハフしている。
嬉しそうにパタパタと尻尾を振っている様子は、まるで……
「あの志郎が、まるで犬みてぇなんだぜ?」
『………確かに』
反論できなかったらしく、かなりの間を開けて、世流も肯定する。
それにハッとした志郎は、お座りの状態に座り直して、バツが悪そうにフンッと鼻を鳴らす。
一人だけ状況が分からず、キョトンとして首を傾げる剣治に、徹はあえて苦笑にとどめた。
ところで、誰か忘れているような……
「そう言えば、優人はどうしたんだ?」
何気なく言った徹に、世流と志郎がビクリと反応し、顔を見合せる。
「世流……?」
『……ある意味、父さんが一番大変な事になっているな……』
世流が悩ましげに唸り、志郎もコクコクと頷く。
その時、風呂場の方でパシャンと水音がした。
「は? 大変な事になってるとか言って、風呂に入ってんのか?」
『風呂に入ってる、っツぅよりも……出られねぇんだよな』
呆れた声を出す徹に、志郎が困ったように後ろ足で、首の後ろをカッカッカッと掻く。
その仕草は――まるで犬と同じだ。
「出られない……?」
『まぁ、見れば分かるだろ……徹、桜エビを持って、風呂場に行くぞ』
「行くぞって……お前、俺の腕に巻き付いて、連れてってもらうんだろ?」
徹は苦笑する。
『ムッ……噛むぞ?』
「うわっ、待て待て! やめろよ! お前、猛毒だろうが!」
ワアワア騒ぎながら、徹は腕に蛇の世流を巻き付けたまま、桜エビを風呂場に持って行く。
その二人の様子に、剣治はクスクスと笑った。
『俺らも行くか?』
「そうだね、志郎」
剣治が指先で志郎の耳の後ろを掻き、一緒に風呂場へ向かう。
問題の風呂場では――
『やぁ、徹。剣治君も、良く来たね』
浴槽に張られた冷たい水の中から、体調五十センチの鮭が顔を出し、息継ぎする金魚のように口をパクパクさせた。
もしかしなくても、この鮭が優人で――
「ギャッハハハハ!!」
徹は腹を抱えて盛大に笑った。
「なんだよ、優人。その格好……アッハハハハ!」
笑い過ぎて涙まで出てきた徹に、優人がムッとしない訳が無い。
器用に体をくねらせた優人は、パシャンと尻尾で水を跳ね飛ばし、徹の顔に命中させる。
「ギャッ! 冷て!」
『父さん! 俺にもかかったじゃないですか!』
『ウルサイよ!』
騒ぐ徹と怒鳴る世流に負けず、優人が苛立たしげに水面を波打たせ、大声で叫んだ。
『僕だって、好きでこんな姿になった訳じゃない! それでもまだ笑うなら、後で覚えておくんだね!』
顔は魚だから、表情は分からないものの、どうやら相当怒っているらしい。
「悪い、悪い。それはそうと、少し懐かしいなぁ」
『何が?』
優人が怪訝のにじむ声で問い返し、苦笑した徹は鮭の尻尾に軽く触れた。
「俺が最後にお前と……ロキと話した時も、お前は鮭の姿だったな」
『そう言えば、そうだねぇ……』
その当時の事を思い出したのか、優人も感慨深げに頷く(ただし、顔は魚)。
『君があんまり強く握るもんだから、鮭の尻尾が細くなってしまった』
「はぁ? なんだよ、それ……?」
「北欧神話に実際にある話ですよ」
急に光が隣から顔を出し、驚いた徹はその場で飛び上がった。
「お、おどかさないでくれよ、光先生……!」
『お帰り、光。遅かったんだね?』
「ただいま、優人。急な会議が入ってしまって、ごめんなさい」
にっこりと微笑んだ光が、優人の(魚)頭に優しく触れる。
誰も驚いていない所を見ると、光が入って来た事に気付いていなかったのは、徹だけだったらしい。
「それで? 光先生。それってなんの話?」
「私が――バルドルが死んだ後の話です。神々がロキを捕まえようとした際、鮭に変身して逃げようとしたロキの尻尾を、トール神が捕まえました。その時、トール神が強く握ったため、鮭の尻尾は細く括れたそうですよ」
風呂に入った鮭が、水の中でウンウンと頷く。
『まったく君ときたら馬鹿力で、力の加減を知らなくて……』
「うっ――!」
逃げなければいけなかった理由も、今なら分かるが、当時としては仕方がないはずだ。
「あれは、ロキが逃げるからだろ!」
バツが悪くて喚く徹を、光も優人も、世流までもみんなで笑う。
ロキとバルドルの秘密の関係を知ったみんなが、今では過去の事と笑える。
幸せな事だ。
ちなみに――
「私と優人の前世の秘密は別作『憎らしいほどに、愛惜しい……』を読んでくださいね」
「光先生まで……みんな、どさくさに紛れて番宣するなよなっ!」
まだ一度も番宣できていない徹が、悔しげに地団駄を踏む。
風呂場には、さらに笑いが溢れた。
『――盛り上がってる所悪いんだけど、ねぇ。誰か、早く僕に桜エビをくれないかい?』
少しイラ立った優人の言葉に、志郎と世流、そして光がハッとする。
『光まで――』
悲しげに呟いた優人が、鮭の口であからさまに『はぁ……』と言う。
おそらくため息の積もりだろう。
『まったく……この姿のせいで、僕は朝から、ほとんど食べてないんだよ?』
確かに、ピラニアとかならまだしも、魚の口では普通の食事は食べられない。
徹は桜エビのパックを開けると、一掴み取って浴槽に入れた。
鮭の優人が水中を泳ぎ回り、パクパクと桜エビを飲み込んでいく。
「もっと食う?」
『もちろん』
その後、もう二掴み桜エビを取った徹が、浴槽にばらまく。
『あのね、徹……魚の餌やりじゃないんだから、そんなに広げる事はないよ。食べ難いじゃないか』
「あ、悪い……だって、今の優人、まるっきり魚だからさ」
また優人はムカッときたようだが、桜エビが吹っ飛んでしまうから、水をかける事はできなかった。
『元の姿に戻ったら、覚えているんだね……』
「……ごめんなさい」
優人が昼夜兼用の餌を食べている間。
徹と剣治はリビングに置いたプラスチックの池に、せっせと水を運んだ。
みんなで話しをする時、優人だけが風呂場にいるのも、いろいろな意味で話し難い。
当然、温かい風呂にも入れない。
一応リビングの床には、濡れても良いように、ビニールシートを敷いてある。
ついでに光が夕食を作り、志郎と世流はソファーの上に避難中である。
「志郎さん、お肉の焼き加減はミディアムとレアどっちにしますか?」
『レア~』
そして優人を池に移し、夕食を食べながら事件の始まりを聞く。
「もう、朝は驚きましたよ……優人が隣で騒いでいるので、なんだろうと思ったら――大きな鮭がベッドの上で、ビチビチと跳ねていたんですよ?」
『朝、気付いたらこの姿になっていて、苦しくて仕方なかったんだよ。魚はエラ呼吸だからね』
とっさに開いた口が塞がらなかった光に、優人は文字通り必死になって、水に入れてくれと頼んだ。
『その後、少しだけ怖かったよ……なんせ風呂の水は抜いてあるから、溜めている間、どこに置いて行かれたと思う? まな板の上だよ?!』
しかも、まな板のすぐ近くに包丁が置いてあって、優人は生きた心地がしなかったらしい。
光はしおらしくシュンとうつむいた。
「ごめんなさい、優人」
『もう良いよ、光。悪気が無かった事は、ちゃんと分かっているから』
反省の表れか、今日の夕食はホウレン草のおひたしとカボチャコロッケ、そしてご飯と豆腐の味噌汁だ。
肉は志郎が喰うから良いとして、刺身や焼き魚なんか出したら、優人に一生恨まれるだろう。
ちなみに世流は、椅子の上から鎌首を伸ばして、ゆで卵を丸飲みしている。
喉(?)に卵が入って行く時、頭との付け根が大きく膨らみ、ゆっくりと下に下がって行く。
体が細い分、身体の一部が卵の形にぽっこりと膨らんでいるのが、なんだか面白い。
「にしても、何で動物の姿になっちまったんだ?」
『うむ。それは僕も、ずっと考えていたんだけどね。おそらく、月の魔力が関係してるんだろう』
首を傾げる徹に、水面から顔を出した優人が、パクパクと鮭の口を動かす。
「月の魔力……?」
さらに首を傾げる徹に、優人がわざわざ『コホン』とインテリな咳をする。
これから鮭先生の講義が始まるらしい。
『まずは問題。明日は何の日か知っているかい?』
「明日?」
分からないと首を捻る徹の向かいで、剣治も同じように首を傾げる。
「明日って、10月31日だよなぁ? 何か行事とかあったっけ?」
「10月31日……もしかしてハロウィン?」
『剣治君、正解』
拍手の積もりか、優人は飛沫が飛ばないように軽く、尻尾で水をパシャパシャと叩いた。
『古代、ケルト人は冬の始まりである11月 1日から、新しい年が始まると考えていた。そのため、1年の終わりでる10月31日は、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられてきたんだ』
「死者の霊? 魔女とか、吸血鬼じゃねぇの?」
徹が首を傾げる。
『吸血鬼は小説の中だけの作り物だよ、徹。――この10月31日は、死者の霊と一緒に、邪悪な精霊や魔女が現れると思われていた。それらの邪悪なモノから身を守るため、仮面で顔を隠し、魔除けのかがり火を炊いた。これがハロウィン、もしくはハロウィーンと呼ばれる祭りの起源だよ』
教師らしくスラスラと解説する優人に、徹が「お~」と感嘆の声を上げる。
「さすが社会科教師」
上を向いた優人が、自慢気に『フフン』と(鼻が無いので)口で言う。
ところで――この科目設定を覚えている読者は、何人いるだろうか?
『コホン』
苛立ちを抑えた優人が、低く咳払いする。
『このハロウィンの日は、月の魔力が強まるとも言われている。恐らくその魔力が、僕達の神力に影響したんだろう』
「ちょっと良いですか、優人さん?」
剣治が軽く右手を上げ、発言を求めた。
『はい、剣治君』
「月の魔力が影響して――と言っていましたが、魔力と神力は違う物なのではないですか?」
『うん、良い質問だね。ちなみに剣治君は、魔力と神力、何が違うと思う?』
魔力と神力の違い?
「字面から言えば、魔力が悪魔の力で、神力は神様の力ですよね?」
『まぁ、その答えが一般的だね』
剣治の答えを肯定するように、優人が頷き、水がパシャパシャと揺れる。
『そもそも『力』とは、何らかに働きかけ、影響を与えるエネルギーの事なんだよ。それを悪魔が使うか、神が使うかによって、魔力と神力に分けられる』
『魔力も神力も、根元は同じと言う事ですか?』
世流が首を傾げるように、体を斜めに傾けた。
全身で首を傾げる蛇って、意外に可愛い……
なんとなく世流を眺めていた徹が、少しだけ頬を染める。
『その通り。さすが僕の息子だね、世流』
『……ありがとう、ございます』
優人から本当に誇らしそうに誉められ、世流が恥ずかしそうに、小さく体を震わせた。
細かい鱗に覆われた蛇の白い顔が、ほんのり赤くなっているような気もする。
世流が照れているなんて、珍しい……
「ですが……どうして優人達だけ、変身してしまったんでしょう?」
小首を傾げる光に答えたのは、狼の志郎だった。
『そんなの、俺達が魔物だったからだろ。父上は変身が得意だったしな』
世流も鎌首を軽く下げ、肯定の意を示す。
『とにかく、元の姿に戻る方法が分かるまでは、このまま様子見だね』
優人は疲れたように、息を吐くマネをした。
水から顔を出して話さなければならないし、何より魚の口で人間の言葉を使うのは難しいのだろう。
そもそも、どうやってしゃべっているのか、一番の謎である。
『僕は、もう疲れたから休むよ……徹と剣治君はどうする? 今日も泊まって行くかい?』
「当たり前だろ! 世流が心配なんだから」
「僕も、できるだけ志郎の側にいたい……」
徹と剣治は頷く。
意気込む徹の腕に世流が巻き付き、剣治の足に志郎が頭を擦り付けた。
『そう言うと思ったよ』
「あぁ、良かった。徹君、後で優人の水槽を、寝室に運んでくださいね?」
「オッケー」
その後は特に何の問題も無く、和気あいあいとした時間を過ごし、いつも以上にベッタリと寄り添い合っていた。
……優人以外は。
『どうせ、僕は魚だよ……水槽からも出られないよ……』
鮭が水槽の隅でいじけている――
「人の姿に戻ったら、たくさん甘えさせてあげますから……それまでの辛抱ですよ、優人」
そう言い聞かせながら、光は優人に触らない。
あんまり触ったら、弱ってしまうからね。
それを見兼ねた徹は、寝室に水槽を運んだ時、できるだけベッドの枕側に寄せて水槽を置いた。
光が眠る間際まで、心置き無く話せるように。
そして、1日目の夜は過ぎて行く。
☆
★
☆
ともだちにシェアしよう!