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三十六
弘子の四歳の誕生日の近くに弘文が帰ってこなかったことがある。
メールには写真が載っていて十人ぐらいが眠っている弘文に密着している胸糞の悪い画像だった。
弘文のアドレスからだったので見てしまったがブラクラというやつだ。
オレの精神を汚染しようとしている、
メールを削除しようとしたらみそ汁の鍋にスマホが落ちた。
どうでもよかったのでみそ汁ごとスマホは捨てることにした。
はじめて離乳食以外も作れた気がしたけれど、どうでもいいことだ。オレに価値がないようにみそ汁にも価値はない。どうせ腐るだけだ。
一番近い距離で密着していた相手があの転校生であるように見えたのは気のせいだ。そう思い込むことはできなくても信じ込まなければ生きていけない気がした。
結局、オレは弘文にとって木鳴の家に跡取りを作りだすための存在でしかない。
オレだって弘文を下鴨の跡取りを作るために利用しているのだから同じなのかもしれない。けれど泣きたくて悲しくて淋しくて痛かった。
翌日に起きるとすでに昼過ぎだった。
玄関で弘文が正座しており弘子がスリッパを両手に持ち打ち鳴らしていた。
なにかの遊びかと思ったら弘子は弘文の頭をスリッパで叩く。
止めようかと近づいたら長男にがオレの手を引っ張った。オレに用があるらしい。
常識人である長男が放っておいていいと判断したなら玄関で繰り広げられる光景は見なかったことにしていいのかもしれない。
そのときに娘と話していれば何かが変わったのかもしれない。
あとになってから分かることだ。
弘文はあまり気に留めていないがオレからすると弘子は劇的に変わった。
誰にどう相談すればいいのかもわからない変化。
弘子は弘文が誰かに目を向けると怒る。
それがたとえテレビに映る女優でもマジギレだ。
テーブルのリモコンを壁に向かって投げつけて「なんで、ほめたっ」と弘文を責める。
座る席もオレと弘文が隣り合わないと地団太を踏んで「おかしかろう、ダメであろう」と暴れる。
弘文にかまってもらいたがるというよりもオレと弘文を離れさせないようにすることを至上命題に掲げた。
オレと弘文が話しているのを満足げに見る弘子に弘文も当然違和感を覚えたようだが弘子の態度を変えさせるのではなく望みをかなえるほうにシフトした。
くっついてくる弘文にうれしさと苦しさで落ち着かない。
そのうちにオレは弘子の行動が昔の自分に似ているのだと気がついた。
弘文の隣に座るために先にいた周りを追い払うなんて日常的にしていた。
悪いことだなんて思わなかった。
弘文の隣はオレの定位置だ。
同じようなことを弘子も口にしていた。
オレは無意識に昔の充実していた勘違いの時期のことを娘に吹き込んで育ててしまったのだ。
そのせいで娘は癇癪持ちの面倒な子に育った。
オレの妄想に取りつかれ、オレの理想通りの現実にしようと頑張っている。とはいえ、全部間違っている。間違っていた。
弘文を操るために娘を使う最低の親になってしまった。取り返しがつかない。
そんなつもりなかったとしても今のオレは親失格だ。
娘を利用しているような状況だと気がついてもやっぱり弘文の隣にいられることが嬉しかった。
でも、妄想の中でばかり生きていけない。
「そんなの偽装結婚じゃん。さいていっ」
終わりにするための言葉を吐き出すまで時間がかかりすぎた。
役目が終わったと思った瞬間に弘文を解放するべきだった。
次男を産んで用済みになったオレは消えてなくなるべきだった。
そうしたら弘子にも会えなくて、今、お腹の中にいる次女にも会えない。
でも、耐えられないほどに苦しくて惨めでさみしい。
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