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番外:下鴨家の人々プラス「海問題37」

ヒナ視点。  世界が嫌いだった。    人間とか環境とか常識とか社会とかそういった世界を構成する要素が全部嫌いだった。  理由のない嫌悪だと思っていた気持ちは、たったの一人に打ち砕かれる。    彼はただの肉だった。  太っているとか肌色の印象が強いというわけではない。  うつくしく着飾り、幼くとも礼儀正しく優等生。  けれど、彼は肉だった。    そこにいたのは人格の宿らない肉の塊だった。  肉が人型になっているだけ。  自分の両親が彼に質問を平気な顔でしているのが信じられない。  大人の好みそうな切り返しをしながら必要であるなら微笑みすら浮かべる相手を人間と認めるのは難しかった。    彼を見て自分を振り返って自分への誤解を知る。自分が見えていなかったものが見えた。    世界を嫌い苛立ちを溜めこむのは、世界を愛したい反動のようなものだった。自分は混ざる気でいるのに阻害され追い出されている。その感覚に憎しみが募る。    物心ついたころから手に入れていた嫌いだという気持ちは世界への愛しさの類似系。彼を一目見て、彼と対面して一緒に食事をしながら自分の生きる意味を察してしまった。    大人たちの皿の上のステーキと自分と彼の皿の上のハンバーグを見比べる。彼は料理の感想を微笑みを交えて語るもののおいしそうではない。皿に置かれたものが革靴であっても口にして同じ会話をしただろう。そのぐらいに彼は料理に無関心だった。    彼は料理だけではなく俺にも世界にも、きっと自分の未来についても無関心だった。  家畜すら自分の死にぎわに泣くが彼はすでに精肉だ。殺されて肉になっている。その後にどんな料理に変わっていくのか、肉は興味などない。肉は肉でしかなく思考などしない。腐って食べられなくなって捨てられても肉は文句など口にしない。    世界が嫌いで、狂っていると嘆けるのは世界に受け入れたがっているからに他ならない。自分の居場所が欲しいという慟哭が、さみしさが、自分が世界を嫌っているのだと思い込ませる。真実が逆であることを気づきたくなかった。世界に嫌われているのだと自分の立場を知りたくなかった。    ある意味で現実逃避である「嫌う」という行為。  嫌ってしまえば、それで終わり。思考停止だ。世界が嫌い、嫌われる世界が悪い。相手が悪いなら自分は何をしてもいい。世界が嫌いな自分は何を壊してもどう立ち振る舞ってもいい。    母方の親族でもっと酷くこじれている人間がいるからと自分の暴力的な衝動を抑制しない。嫌いだからどれだけ壊してもいいと思っていた。    思考することのない肉である彼に感情はない。微笑みは親の模倣。話術もまた親や周囲からのコピーであり彼のものではない。肉である彼の中から出てきたものは何もない。    彼を手に入れておいしい料理に昇華させることができるのか、決められず、選択は保留にした。  世界を嫌い続けていたと誤解していたような自分の視野の狭さと逃げに気づいたせいで情けなかった。覚悟がなかった。彼が今後自分のそばにいても、それは彼にとって幸せではない。肉にとって幸せなどそもそもないのかもしれない。そう思うと彼を欲しがる気持ちに傲慢さを覚える。    自分はまだ第二次性徴、真っ只中の子供だったと言い訳して問題を先送りにした。    これが人生で最大の後悔であると同時にヒナと呼ばれ続ける俺にとって最高の正解だった。  彼を手に入れる可能性が自分にあったというだけで生きていける。  悔やむことができるのは幸せだ。苦しいと感じても彼に由来する痛みは甘ったるい。      

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