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「海問題 長女の中に刺さったトゲについて2」

「私は、私の世界を壊すものを絶対に許さない。私の世界は両親が仲良くしている世界。邪魔するものは残らず敵だ」      弘子ちゃんの言葉に迷った様子を見せながらヒナは言った。   「俺の娘がここまで言うなら仕方ない」 「おい、ヒナ」 「犯人はあってないようなものだ」    弘子ちゃんの耳を汚すのかと思えば違った。ヒナは床に転がったトンカチを蹴り上げて手でキャッチする。ジャグリングするようにトンカチを自分の周りに放り投げては受け止める。いつ弘子ちゃんに投げつけるか気が気ではない。   「これで、手が滑って俺が怪我をしたら、責任は誰だ」 「状況設定がいろいろと微妙かしら。私たちが来なかったら、私が質問しなければあなたはトンカチで遊ばなかった」 「原因は自分だと思う?」 「すべてを背負うつもりなんかないわ。あなたのコントロールの問題だし、あなたがそれをやり始めたことはあなた自身の判断だもの。自分の責任を自分で取れない大人はろくでなしよ。ヒロくんみたいになっちゃう」 「そう……、じゃあ驚かせようと声をかけた人間が居たのなら?」  ヒナが何を言わんとしているのか分かった。 「集中している中で声をかけるなんて、いやがらせ?」 「さあ、相手の気持ちは知らない」 「トンカチが床に落ちたぐらいなら、事故でいいわ。集中力が切れたお雛様の負け」 「落ちたトンカチで足の指が砕けたら?」 「それも事故かしら」 「トンカチが頭に当たったのなら?」 「相手の答えは全部『こんなことになるとは思わなかった』だというのなら、悪ね。本心なら想像力の欠如という悪。建前なら責任の放棄」 「心の中のことは分からない。どんなことになるか未知数なら」    ヒロが帰ってこなかった件についての原因が誰にあるのかヒナはあたりをつけている。相手が「あえて」その行動に出たのかどうか、ヒナは確証がないから断言できずにいる。   「声をかけるのではなく抱きついて『トンカチを投げて遊んでいたなんて気づいてなかった』って言い出したなら」 「わかりやすい女狐的行動。自分は何も悪くないという領域にいる人間特有のいやらしい攻撃。……ひーにゃんは心当たりがあるの」    俺の言葉に弘子ちゃんの目が光る。  ヒナが「ここに来てる」と口にした。そうだろうとは思っていたが改めて聞きたくない。 「瑠璃川ホントつかえねえわ」 「しかたない。お前とアレは仲のいい兄弟ということにされている」 「学校卒業してから会ってねえし」 「あっちはお前を見てる」 「ヒロ越しで?」    苦虫を噛み潰している俺の膝を蹴り飛ばす弘子ちゃん。おそろしい子だ。床に倒れた俺の背中を叩く。励ましてくれるのは分かるが、頭を撫でるぐらいにしてもらいたかった。猫耳をつけていなければそうなったのかもしれない。    気が抜けたので大きく息を吐き出した。弘子ちゃんが俺の背中に腰を下ろした。重くないのがなんだか、かわいい。   「コウちゃん、お味噌汁作ったの。私は味見をしたの。ヒロくんは飲み会で帰りが遅いからご飯はみんなで外で食べて、台所は使われないのにお風呂から出たらコウちゃんがいた。私は味見をしたの。コウちゃんは喜んでた。おいしかったもの。良いお嫁さんは美味しいお味噌汁を作れる人なんだって、がんばったって笑ってた。……起きたらコウちゃんは泣いてた。味噌汁もなくなってた。ヒロくんは帰ってなかった」    俺の背中に座ったまま床を蹴る弘子ちゃん。表情が見えないからこそ恐ろしい。   「イライラするの。私の世界を壊す人間が居るのがイライラする」    どこか共感してしまう苛立ち。弘子ちゃんの言動に親しみと既視感を覚えるのは、やはりヒロを思い出すからだろう。   「私が味見をした味噌汁をヒロくんは食べなかった。仮に私の記憶違いでヒロくんが食べてたんだとしてもイライラは残ってる。だって、コウちゃんは全部なかったことにしたんだもの。それは味噌汁だけじゃないヒロくんへの自分の気持ちも私たちのことだってなかったことにするんだ!」    康介くんは百と零なところがある。ヒロへの思いを込めて作ったものがなくなったのなら、ゆっくりと確実に他もなくなっていくだろう。問題は味噌汁なんかじゃないのだと弘子ちゃんが訴える気持ちはわかる。    同時にそういった康介くんの情緒をヒロが理解しないのも目に見えていた。幼いながらに弘子ちゃんはずっと分かっていたのだ。言葉にして表現できたのは今かもしれないが、感覚として知っていたからこその、怒り。   「そっと悪意を人に囁きそそのかす、それを証明するのは難しい」 「誰の気持ちも、正義も何も、下鴨弘子には関係ないの。私が悪だと言ったら悪なの。私は私の世界こそが大切なのだから、ヒロくんに嫌われても痛くもなんともないもの。ヒロくんの危ない遊びはもう終わり。親ならば当然でしょう」    俺の背中から立ち上がった弘子ちゃんは「記憶は風化していくけれど、感情や印象は消えない」と口にした。それはどこか康介くんを思わせた。    

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