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番外:下鴨家の人々「社内の噂話:マッサージ2」

 女性は噂が好きというよりもお喋りなのかもしれない。  深弘は喋らないことが多いが、弘子は家の中で一番言葉を発する。  女性は思いついたことを言葉として放出しないといけない脳の構造なのだとテレビで言っていたような、気のせいなような。女性の脳の構造の話よりも料理の音と匂いで弘文が何を作っているのか弘子と話していたことの方が鮮明に思い出せる。    人は興味がないことに対してボカしが入ってしまう。  仕方がない。目から入ってきた情報を全部、頭の中に保存をしていたら脳の容量の使いすぎだ。オレはそんな要領が悪くない。不要な記憶は自動的に削除していく。    削除されずに残るということは不要じゃなかったということになる。   「女性社員が弘文が誰かを喘がしてるって噂してたんだけど」  またもやオレの耳に飛び込んできた話題。  弘文のやらかし。  社内は浮気の温床だ。    社長室というオレのテリトリーのはずの場所で弘文は焦ることもない。  ソファに座ったまま「ふうん」とオレの言葉を聞き流しているのか考えているのか分からない顔をする弘文。  真面目に取り合う気があるなら、立ち上がって近くに来ればいいのにと微妙にイラっとしてデスクを指で叩く。 「それ、前にも聞いたな」 「噂が続いてるってことは事実だからだってオレは思うんだけど」  思い返してオレに反省するべき点があるなら、不用意なこの発言かもしれない。  オレとしてはこれ以上になく的を射た、鋭い指摘のつもりだったが、弘文のスイッチを押していた。  弘文の雰囲気が冷やかさの混じったものに変わった。  深弘が眠っていたからかもしれない。目を閉じてまどろんでいるのではなく、お昼寝タイム。    オレは話を切り出すタイミングが悪かった。  あるいは正しかった。 「ちょっと来い」 「なに」 「なに警戒してんだ。来い」  声の温度が、普通とは違う。  昼間だというのにどこか、寝る前の寝室のベッドの中を思わせる。  遠くにいるのに囁くような声に聞こえるのはオレが無意識に耳を澄ませているからだろう。  弘文の声を聞き逃さないようにしている。    けれど、体は立ち上がって弘文のところに行こうとしない。 「いやだって、弘文……」 「いやなのか?」 「いやじゃないけど、でも、なんか」 「なに」  この言い合いすらオレの心拍数を上げていく。  弘文の表情がとてもセクシーに見えたからだ。  これはこれでセクハラだ。  直接的な言葉もなく夜を連想させてオレを落ち着かなくさせる。  罠を仕掛けられている。 「弘文の目つきがエロい」 「ふーん?」  何バカなこと言ってんだと笑ってくれたら、室内の空気はきっと普通のものに戻っただろう。  どこか緊迫した張りつめてビリビリと幻聴がしそうな空間が理解できない。  オレは急にどこに連れ去られたんだろう。 「否定しない!?」  弘文が立ち上がった。  オレも思わず立ち上がって距離をとろうと後退する。  気づいた時には弘文に壁際に追いやられていた。 「足払いかけられるのと手を引っ張られるのと自分からソファに寝転がるのはどれがいい」 「全部、同じ展開?」  どう考えてもこの時間にすることじゃない。  そう思いながらオレはどこかで期待しているのか、心臓がとんでもなくドキドキしていた。 「床に転がったら踏む。抱きしめたらまあまあソフト、押し倒すならそれなりにハード」 「実質選択肢は一つか……」 「どこがだ」  普通に考えて踏まれたくないし、ハードなのは社内であることを考えるとよくない気がする。  まあまあソフトなのが、どこまでかはともかくオレが選ぶものは一つだ。 「はい、抱きつきました!」  自分からオレは弘文の胸に飛び込んだ。  弘文は大喜びかと思いきや不満そうな顔をしていた。わがままだ。 「手を引っ張られるのが、いやだったのか?」 「オレが積極的に動いたことを喜んでっ」  背伸びしてオレは自分の行動の偉大さを弘文にアピールしようとしたが返ってきたのは「はあ」という溜め息。   「やる気のないっ! んっ、ちょ、っと、うっ」 「座ってばっかだと尻が凝るな」  思いっきり両手でおしりをつかんで揉まれた。  弘文の手が大きいのかオレのおしりが小さいのか完全に押さえこまれた。 「……セクハラっ!!」 「そうだな」  飄々と返されるとムッとしてしまう。  もっとお前だけだよアピールが弘文には必要だ。  オレを喜ばせるポイントも小技も誰より多く知っているはずなのに弘文は活用しない。 「手馴れてる!! 他の社員にもやっているのか! そういう疑惑が色濃くなるっ」  思わず叫ぶと「疑惑はないだろ」とあっさりとした返事。  もっとオレのありがたみを噛みしめるべきだ。  どうして弘文はこうもオレに対するリアクションが雑なのか。それが愛だとしても、もっとオレが飛び跳ねて喜ぶような展開にしてもらいたい。 「噂があるんだ! 釈明して!! しっかりと分かりやすくっ!」 「今してるだろ」  オレの怒りをなんだと思っているのか弘文はしきりのオレのおしりを揉む。揉みまくる。えっちだ。 「あっ、あぁ、オレのお尻を揉んだりするのが、どこが、ひゃくめいに、しゃく、ひゃく」 「しゃっくり?」  ぶっちゃけて気持ちよくなってしまっているオレは滑舌が死んだ。  体の感覚がふわふわとしはじめた。 「あん、ひっ、……弘文のばかっ」 「俺が誰かを喘がしてるって女性社員たちが噂してんだろ?」  耳元で囁いてくる弘文は完全に夜のそれだ。  室内にオレの喘ぎ声が響いている気がして、慌ててしまう。  深弘が目覚めて微妙な気持ちになるということはない。眠りが深いので身体に触れない限りは目覚めない。  そこは気にならないが、家ではない場所で自分がぐずぐずになっているのが恥ずかしい。オレが弘文に抱きつくのは健全だけれど、弘文がオレに触れる場合は今日みたいに不健全全開になる。えっちだ。いやらしい。オレはもう立っていられない。 「なあ? 俺が誰かを喘がしてるって、噂があるんだろ」  弘文の手がオレの首や耳の裏を撫でる。声を抑えるのは難しい。 「……んんっ、だか、ら、真相を問いただして」 「で、わかったな?」  急に手をパッと離して弘文はオレと距離を取ろうと後ろに一歩下がった。  意味が分からない。  思わず弘文を追って一歩前進すると足がもつれた。  床に叩きつけられることもなく当たり前のように弘文に抱きしめられた。 「わかんない」 「馬鹿だな」 「バカじゃないだろ! 弘文はいつもそうやってはぐらかして、……んっ」  弘文の馬鹿だなという声が優しすぎて逆にすねたような気持ちが加速する。  だというのに軽く触れるだけのキスで何も言えなくなる。    背中をとんとんと軽く叩かれて頭の中にあるのは誤魔化された悔しさじゃなく、もっと濃厚な口づけがいいという欲望だ。オレはべつにエッチな人間じゃない。どこでも弘文に抱きついていたいと思うが、性感を刺激してエロエロになりたいなんて思ってない。    それなのに弘文ときたら「わかっただろ」と視線で言う。  何もわからないのに思わずうなずく。分からないと答えたらそれはオレから今すぐ犯してくださいと頼みこんでいることになってしまう。なんだかおかしい。おかしいのにこれ以上おかしいと主張を続けられない。    弘文の瞳が熱っぽくてギラギラしているせいだ。

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