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番外:下鴨家の人々「下鴨弘文と鯉のぼりという名の何か1」
下鴨弘文視点。
弘子、四歳になるかならないか。(深弘はまだ産まれていない時期)
※番外編は時系列順に並んでいない可能性があります。
家に帰ると玄関先で康介が鯉のぼりの中に入り込んで眠っていた。
靴を脱いで、しばらくそのまま玄関で待っていると「ヒロくんおかえり~」といつものように弘子がやってきて俺に飛びつく。
抱き上げてリビングまでそのまま進んだ。そろそろ四歳になる弘子は活発さが以前よりも落ち着いてきた。「私はおねえさんなのですよ」と年長組を見据えた発言も増えだした。子供の成長は早い。ひとしきりお疲れさまコールを聞いた後に洗面台で手洗いうがいをして、もう一度玄関に行く。
床の上で、微動だにしていない康介がいた。
弘子の反応のなさから考えると俺がまぼろしを見ている疑惑がある。
疲れているのかもしれない。普通、人は玄関先の床に寝転がったりしない。康介は普通ではないのでありえるかもしれないと顔を寄せて呼吸を確認する。正式にはティッシュを顔に乗せるのかもしれないが、康介にはこれが一番だ。
スッとした寝姿が俺の顔が近づいたことを察知して、わずかに乱れる。全身に力が入り、まぶたが痙攣する。
目を開きたいが開けない。そんな葛藤が康介の顔面から伝わってくる。くちびるに触れるとすこし開いた。形のいい歯に指先が当たる。力を入れるとバレると思ったのか、無意識に誘っているのか。簡単に俺の指をくわえこむ康介にすこしだけ苛立ちを覚える。
玄関を開けるのが俺だと分かっていたとしても、こんな場所で無防備さを出すのはどうかしている。
危機感が足りないというタイプの注意は康介からすると「自分に言え」と返したくなるようで、話し合いは平行線になりがちだ。自分が魅力的だとナルシスト発言を繰り返しながら、どこか康介は抜けている。自分の思い通りに他人が動くと思っている。玄関先で見知らぬ他人に襲われる危険性をありえないものとして考えない。
セキュリティはもちろんしっかりとしているが、完璧なんてこの世のどこにも存在しない。
わざわざ玄関で寝転がる必要はない。たとえ康介として意味がある行動だとしても、自分の身を危険にさらしてまでする必要があるわけがない。異常なほどに自分に対して降りかかる火の粉に無頓着だ。
声をかけて揺り動かそうとする前に視線を感じて、それとなく後ろを振り返る。
弘子が体半分を壁から覗かせながらこちらをうかがっていた。親子仲がいいことを称賛すべきか、床に寝るならバスタオルを敷けと説教をするべきか悩む。
とりあえず、ちょっとした悪戯を仕掛けることにした。
康介の上半身を持ち上げて俺は顔を近づける。
弘子からはキスをしているように見えるだろう。
しばらくすると転びそうになりながら弘子が駆けつけてきた。
「すごくいいものが撮れました!!」
そう言って渡されたのは写真だ。
シャッターを押してその場で写真が出来上がるポラロイドカメラは康介と弘子の今、一番のオモチャだ。
興奮気味に自分の成果を見せて来ようとする弘子と動かない康介。キスはあくまで振りだから、死んだままということなのか。
「宇宙人にイタズラされてるっ」
光がふわふわと浮いていて、悪い酔いしそうな写真になっていた。ハッキリ言って盛大な手ブレが起きていた。
弘子の手にはまだカメラが大きいのかもしれない。いつもは手ブレなどしないようにテーブルに置いたり、固定してシャッターを押すように伝えている。今は角度からして脚立などもないから上手く撮れないのも無理はない。
誰がお前の思い通りになるかよという、どこか挑戦的な気持ちは弘子がしょんぼりと肩を落とした姿で消える。どうでもいいプライドに固執して娘の表情を曇らせている方が、有り得ないことだろう。
弘子に見える位置で康介の唇に触れる。
くちづけの持ち合わせる意味はお姫様を目覚めさせる小道具ぐらいにしか思っていないだろう弘子は「シャッターチャンス」と楽しげに俺たちにカメラを向けた。康介の指先がピクピク動いているので、気道が確保しにくいという無言の訴えだろう。弘子の身長やカメラの角度を考えると康介には頑張ってもらいたい。
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