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運命じゃない人 5
どれくらいそうしていたんだろう。
激しい雨音にはっとして、すっかり暗くなった窓の外を見る。今日は一日曇りの予報になっていたはずなのに、ひどい土砂降りだった。
素早く玄関に向かい、郁の靴がないことを確認する。目に入った傘を乱暴に持ち、着の身着のまま外に出た。いつか郁が、相合傘用だと買って来たこの傘は、一人だと大きすぎて持て余す。
きょろきょろと辺りを見回しながら、とりあえず駅の方に歩き出した。
すれ違うカップルから、「今日から梅雨入りだって~」と呑気な会話が聞こえてくる。雨のせいで肌寒く、郁がどんな格好で家を出たかすら知らない自分を悔やむ。
駅が近付き、少しずつ明るくなってきた道の先に、見慣れた人影を見つけて立ち止まった。
郁が、街灯の光を避けるようにして、ガードレールにもたれかかって俯いている。
こんなに遠くからでも、瞬時に見つけてしまうくらい好きなのだと、自覚させられる。感慨にふけりそうになってしまったけど、Tシャツ一枚でびしょ濡れになっていることに気付き、慌てて駆け寄った。
「郁!」
傘を差し出すと、郁は俯いたままぴくりと肩を揺らす。
「秋人……」
「ばか!頭冷やすにしたってこれはやり過ぎだ!早く帰るぞ」
腕を引っ張っても動こうとしない郁を、途方に暮れて見つめる。濡れて額に貼り付く前髪をかき上げ、無理やりこちらを向かせる。思いの外まっすぐ向けられた視線は、心の中まで見透かしてきそうな強さで、どくりと心臓が大きく跳ねる。
「ねえ秋人、もし雨が降ってなくても、おれを迎えに来てくれた?」
「あ、当たり前だろ!俺のせいなのに」
「そっか……」
にこりと無理に作った笑顔を見せて、郁が立ち上がる。秋人の手から傘を奪い取り、いつもより少しだけ離れた距離を保って歩き出した。どんな態度でいたらいいのか分からず、わざとらしく明るい声を出す。
「帰ったらまず風呂だな。あ、お前明日から学会だろ?風邪引いたらヤバイじゃん」
「うん。秋人が風邪引いたら大変だから、早く帰ろう」
「いや、俺は大丈夫だけど」
「心配だなあ。週末まで留守にするけど、お腹出して寝ちゃダメだよ」
「出さねーよ」
軽口に安心して、やっと少し緊張が解ける。冷静さを取り戻し、景色が見えてくると、ここはあの運命の二人が出会った場所だと思い出した。
駅から出て、俺の部屋への道を二人で歩いているときのことだった。隣の男が突然立ち止まり、一目で分かるほどに何かに心を奪われていた。視線の先を辿ると、同じように固まる男が立っていて、まるでドラマのように現実味のない空気に包まれた。
あんなものを間近で見せられてしまえば、身を引く以外にできることはない。そうしなくても、きっと何の望みも残っていなかったのだけれど。
あまりにもあっさりとした別れは、未練を残す余白すら与えてくれなかった。
といっても失恋後しばらくは荒れていて、自棄になってその手の店に向かい、相手を探そうとしていた。βの男に需要は少なく、声をかけてきたのは郁だけだ。
――そういえば、どうして俺だったんだろう。
訊いたことがないのは、逆に訊かれると困ることがあるからだ。
元彼のことを思い出したくなくて、郁にあの場所にいた経緯を話したことはない。
幸せそうな二人を見る機会があったおかげで、自分は正しいことをしたのだと思えた。それでも完全に傷が癒えることはなく、記憶をなくすまで酒におぼれることもあった。
「ねえ、秋人ってば!聞いてる?」
はっとして、慌てて笑顔を作って隣を見る。
「あ、ごめん。なんだっけ」
「帰って来たらデートしよって話!週末もどうせ雨だからいいよね?」
「あー……そうだな。どっか行くか」
運命の相手が分かってしまった今、もう雨の日にこだわる必要も無くなってしまったのだが、飛び上がりそうな勢いで喜んでくれる郁を見て、まあいいかと思う。それに、元々気休めでしかなかったことだ。
「よっしゃ!めちゃくちゃやる気出て来た!実はまだ発表用のスライド完成してないんだよね」
「はあ!?とっとと帰るぞ!」
どうせ郁はもう濡れている。秋人もどうでも良くなって、雨の中を走って帰った。
結局スライドは徹夜で仕上げたらしく、郁はヘロヘロになりながら朝早くに出掛けて行った。
『いつもの挨拶忘れた!浮気したらダメだからね!』とメッセージが来ていたので、『ばか』と返しておいた。
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