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運命のΩ ~Side:ルキ~ 7

就職したのは医療機器メーカーだった。取引先は主に病院で、患者にはΩも多く見慣れた存在ではあったから、初のΩ社員にも抵抗は少なかったのかもしれない。 そうはいっても、やっぱりこの杉浦秋人という人は特殊な部類だとルキは思う。 「優しい先生のところから回ろうと思うけど、どうする?一応名刺交換の練習とかしとく?」 「はい、ぜひ!」 元気よく返事をすると、へらりと嬉しそうに笑ってくれる。ただ純粋に後輩ができたことを喜んでいるようで、ルキも自然と笑顔になれた。 「じゃあ俺が先生役な」 向かい合って立ってくれたので、慌てて名刺入れを取り出す。スムーズとはいえないものの、どうにか習った通りに名前までを言い終えた。そうして、いざ交換という時機になり、変な具合になった。 相手より低い位置で差し出そうとすると、秋人の位置が下がって上手くいかなかったのだ。 「あの、先輩……僕の方が下から渡さないといけないんですよね?」 「ああ!そうか、俺が先生役だった!つい癖で。はは、ごめんな~」 照れたように笑いながら謝る秋人に、ルキは目を丸くして驚いた。αは言わずもがなだがβにも謝られたのは生まれて初めてだった。相手が間違っていても逆ギレされるのが普通だったので、秋人の対応に返す言葉を知らなかった。 ぱくぱくとばかみたいに口を動かしながら戸惑っていると、秋人は何かを思い付いたように「あ」と言った。 「そっか、新人研修受けたばっかりだもんな。ビジネスマナーとかもうばっちり?」 「え。た、たぶん」 「じゃあさ、ちょっとこっち来て」 言われるままついて行くと、秋人の席に置かれたパソコンのモニタを指差して、手を合わせて言われた。 「俺の送信メールチェックしてみてくれない?営業ってめちゃくちゃメールでやりとりしないといけないのに、いまだに苦手なんだよね。変な言葉遣いになってない?」 内容は、新製品の説明会の案内メールだった。例文にあるようなものとは違って、相手先との親密度が伝わって来る雑談が付け足されている。そこは問題ないはずだが、一点だけ気になることがあった。 「あの」 「あ!やっぱおかしかった?どこどこ」 「いえ、ただ……漢字が……間違ってるとこが」 画面を指差して伝えると、秋人は「まじか!」と声を上げて慌てて修正しようとし、「あ、もう送った後だったわ」とがっくり落ち込む。すぐにくるりと振り向いて、「今度は送る前にチェック頼むな」と笑った。 そのときルキは、たぶん嬉しかったのだと思う。けれどいろんな感情がカンスト状態で、心の処理が追いつかなくなっていた。 Ωの言うことなんて信じていいんですか。Ωの指摘を受け入れるなんて苦痛じゃないんですか。そんな疑問ばかりが渦巻いていたけれど、口にすることは秋人に失礼な気がして踏みとどまった。 自分を卑下することが、秋人の前では恥ずかしいことのように思えた。この人が信じてくれたルキを貶すのは、たとえルキ自身であってもダメなことに思えた。 軽く震えながら立ち尽くしていると、秋人はルキの頭をわしゃわしゃと撫で、「じゃあ行くか!」と歩き出す。この慣れた仕草はどうやら無意識にやっているようで、犬でも飼っているのかと気になった。 この人に関することは何でも知りたいと、初めての欲求に捕らわれた。 挨拶回りは、いつも通りの冷たい視線にさらされた。けれどもそれもすぐに消え去り、ルキは逆に戸惑う。 秋人が分からないフリでルキを頼る視線をくれるので、精一杯期待に応えるべくありとあらゆる知識を引っ張り出して話した。もちろん自社製品については全て予習済みだ。足りないところは秋人がフォローを入れてくれたので、相手も安心した様子で聞いてくれた。 緊張で心の中ではぐったりしていた帰り際、医師が思い出したように秋人に言った。 「そういえばこの前、相羽君に会ったよ」 「えっ。先生、郁と……相羽とお知り合いだったんですか?」 「学会で毎回顔を合わせるからね。急に小奇麗になってて問い詰めたら、君と一緒に住んでるっていうから驚いたよ」 「まあ、ちょっと縁がありまして」 「彼みたいな研究者は衣食住が疎かになりがちだし大変だよね。実家からの支援も無いっていうし、ルームシェアって聞いてちょっと安心したよ。いつか絶対すごい結果を出すと思うから、見捨てないであげてね」 秋人はにこりと笑って応え、「失礼します」と丁寧に頭を下げて診察室を出た。ルキの耳に小さく聞こえてきたのは、「むしろ俺の方が――」という弱々しい声だった。 外に出た秋人は、立ち止まって上を見て、ここにはない何かに心を奪われていた。ともすれば見逃してしまいそうな一瞬だったけど、ルキの視線は釘付けになった。手を伸ばすと消えてしまいそうに儚くて、何かに苦しみもがいているような……。 「いや~飛ばしまくりでごめんな~疲れただろ?でも明日もこのペースで行くからな!」 ぱっと切り替えた秋人は、ははっと作り物でない笑顔を向けてくれる。こんな風に笑えるこの人も、何かを諦めなければならないことがあるんだろうか。 気になって仕方がなくて、昂る気持ちを抑えるために勉強し、褒められては有頂天になりを繰り返し、秋人の力になれているかを気にした。 ――もしも自分がそばにいさせてもらえたら、絶対にあんな不安そうな顔なんてさせないのに。 燃える心ともどかしさに振り回されて、いつしかルキは恋に落ちていることを自覚した。人生初めての恋だった。

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