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運命のα ~Side:郁~ 3
懐かしいはずの実家に、郁の部屋も居場所もどこにもなかった。郁の部屋は子供部屋にリフォームされ、弟の部屋になっていた。ほとんど家で姿を見ることのなかった父が、リビングで弟と遊んでいる。
長居するつもりもなかったので、客間に両親を呼んだ。
「突然どうしたの?」
困惑気味の母親が、取り繕ったように優しい声を出す。郁は表情を変えることなく伝えた。
「先週進路調査があったから。おれ、大学に行って研究者になるよ」
「あらそう。頑張って」
「知ってると思うけど、αなら潤沢な研究資金が援助される」
ぴくりと肩を揺らしたのは、ふたり同時だった。やはり父も知っていたのだと虚しさが全身を包む。恐る恐るといった調子で、母が口を開く。
「だから……?」
「おれはαだよね。どうして嘘を吐き続けたの?」
「嘘じゃないわ。パパとママの子供なんだから、βに決まってるじゃない!何を言ってるのよ。それとも何?ママが浮気でもしたっていうの!?どうしてそんな酷いこと……!」
取り乱した母は早口でまくしたて、理由を分かりやすく語ってくれた。
「父さんに浮気を疑われるのが怖くて、会わせないようにおれを閉じ込めてたんだね。父さんは知ってたみたいだけど」
父に目を向けると、目をそらして大きなため息を吐かれた。完全にうんざりしている顔だ。
「こっちの立場も考えてくれ。お義父さんに知られたら何て言われるか。俺を社長にしたのだって渋々だったんだ。何かあればすぐにでも替えるだろうさ、あの独裁者が。そしたらお前のせいで一家は破滅だ」
父が渇いた笑い声を放つと、母は妖しく笑った。
「あなたはβよ。だってΩに反応したことなんてないでしょう?ああ、一度だけあったんだったかしら?でももうないでしょ?きっと検査したところで――」
「ヤブ医者が持ってきた薬は飲んでないよ」
「!」
一瞬で場の空気が凍る。母は青ざめ父は目を眇めて郁を見ていた。詳しいことは知らなくても、母がなんらかの措置を講じていたことを、父は黙認していたと分かる。
誰も口を開かない重い空気を打ち破るように、場違いなチャイムが響く。しばらく頭が働かず、何の音かと思っていると、玄関に出て行った弟が件の医師を伴って入って来た。
弟は、ドアを開けた瞬間に敏感に空気を察し、パタパタとリビングに戻って行く。対して医師は嬉しそうに郁を見た。皮肉にも、この家に来て初めての歓迎だった。
「やあ!久しぶり!元気だったかい?報告を待ってたよ……あれ?」
医師はやっと両親がその場に揃っていることに気付いたようで、父の顔を見て気まずそうにした。母はすでにどうでもいいといった様子で、何も見てはいなかった。
郁は医師に目を向けて、作り笑いを披露する。
「ちょうど良かった。あなたにお返ししたいものがあったんです」
「へ?」
「どうぞ」
持って来ていた鞄から、バラバラと大量の薬をばら撒く。しばらく呆然と立ち尽くしていた医師は、急にスイッチでも入ったかのように、這いつくばって薬を拾い集め始めた。一錠でも外に漏れるとマズイもののはずだから、笑えるほどに必死だ。
「今までの報告は何の意味もありません。これを見れば分かりますよね」
「どうして……」
「どうしてって、当たり前でしょう。得体の知れないものは飲めません。詳しく分析することはできませんでしたが、αホルモンを抑制する作用でもあるんでしょう?ついでに言うと、昔打たれた注射は体内にΩフェロモンの抗体を作るものですかね」
「なぜそれを!」
「ただの推測です。αの体内にあるホルモンの影響が完全解明されれば、次はβにαホルモンの投与実験ってところですか。もしβからαへの性転換が容易になれば、裏でかなりのお金が動くでしょうね」
最終的な目的は、どうせそんなところだろうと思った。
αからβへの転換を希望する者がそうそういるとは思えないので、郁は貴重な実験体だったはずだ。それだけに、生まれた時から10年以上も飲み続けてしまった薬の影響がどの程度体に残っているかは、きっと誰にも予測できない。
もしかしたら、すでにαでもβでもない何かになっている可能性もあるのだ。
「は……」
医師は気の抜けた声をあげる。
「いくつかいただいた薬のサンプルはしかるべきところへ送っておきました。そのうち調査が入るんじゃないですか。まさかあんな大手の製薬会社がバックについているとは思いませんでしたが、簡単に切られるでしょうね」
がっくりと項垂れる医師にも、きっと同じ未来が見えている。
製薬会社が具体的にどういう関わり方をしていたかまでは調べられなかったが、いつでも切れる状態にしてあることは確かだろう。調査が入ったところで知らぬ存ぜぬで押し通し、上手く収めることが目に見えている。いわゆるトカゲのしっぽ切りだ。
皆、自身の保身が第一だから。
母は父に浮気を疑われることを恐れて医師にαでない郁を要求し、医師はモルモット欲しさに依頼を受けた。父は会社での立ち位置を守るためにαの郁を黙殺した。
クラスメイトたちも同じだ。自分がいじめの標的にならないよう郁をスケープゴートにし、甘い蜜を吸いたくなれば手のひらを返した。
みんなみんな、自分のことばかりだ。子供のようにヤケクソに叫びたくなって、そろそろ潮時だと思った。
「この家の子供であるのがまずいなら、籍を抜いてもらって構いません。おれは一人で研究者として生きていきます」
「それはダメだ、体裁が悪い。海外の大学なんてどうだ。仕送りはしてやる」
父はこの期に及んで何を言っているんだろう。父が郁と血のつながりを感じてくれているのか、本当はずっと気になっていたけれど、そんなことはどちらでもいいのだと感じた。
すると、医師が死んだような目をして口を開く。
「研究者なんてαじゃなきゃただの奴隷だ。でも郁君はバース性検査を受けるのは止めた方がいい。抗体の数値が異常だといろんな研究機関が声を掛けてくるだろう。一生モルモットだよ」
そんなことは言われなくても分かっている。それでも、目を背けたい事実だったのだ。表面を取り繕うのも限界で、早口で父に向かって言い捨てる。
「分かった、籍は抜かない。ここにはもう来ない。仕送りもいらない」
軽くなった鞄を持って、しっかりと床を踏みしめながら、玄関に向かう。
そういえば中学生になって寮に入る日も、見送りは無かったなあと思い出しながら、背後で閉まるドアの音を聞いていた。
結局郁はβとして大学に入り、その後研究員として、バース性の研究室に所属することになった。
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