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運命かもしれない人 5

大学に着くと、妙にテンションが上がった。学生の活気がそこら中に溢れている気がして、意味も無く深呼吸してみたりする。 まだ社会の厳しさも大して知らず、楽しいことで溢れていた毎日を懐かしく思う。同時に、スーツを身に着けた自分には戻れない世界だと実感して、物寂しさも感じた。 構内の案内板の前で立ち止まり、郁に連絡しようとスマホを取り出す。すると、遠くから一直線に駆けてくる足音が聞こえた。 「秋人!」 「うわ、びっくりした。今連絡しようとしてたのに、よく分かったな」 振り向くと、可愛らしいカチューシャで前髪を上げた、白衣の郁が立っていた。表情は明るいけれど、薄暗い中でも分かるほどに疲れが見える。 「へへ。会いたかったから」 「これ、皆で食べて。人数が分からなかったから、足りなかったらごめん」 「え!一緒に食べてくれるんじゃないの?」 「邪魔しちゃ悪いし」 「全然問題ないよ!むしろその方がこの後も頑張れる気がする!」 「じゃあ」 こくりと頷くと、分かりやすく嬉しそうにしてくれる。うっかり何でも許してしまいそうになる笑顔だと思った。 郁に連れられて来たのは、すでに閉まった食堂の前に設けられたテラス席だった。 目の前には申し訳程度に芝生スペースが作られ、真ん中には小さな噴水も添えられている。その向こうには渡り廊下が見え、自動販売機やウォータークーラーもあったりと、雑然としている。昼間はさぞかし賑やかなんだろうと思わせる、いかにも学生のたまり場といった雰囲気だった。 どこを照らしたいのか分からない外灯がいくつも設置され、手元は適度に明るい。幻想的といえなくもない空間は、学生カップルなら盛り上がるかもしれないとちらりと思った。 「郁はここで毎日頑張ってるんだな」 「なんか不思議だよ。ここに秋人がいるなんて」 「あ、俺浮いてる?」 「浮いてるってどういうこと?宙に?」 サンドイッチが詰め込まれた箱を開けながら、郁はきょとんとした顔で訊いてくる。 「えっと、周囲に溶け込めてないってこと。ほら、俺いかにも疲れたサラリーマンって感じだから」 「それって気にする必要ある?周りと一緒じゃなきゃいけないっておれにはよく分からない」 衝撃的に思えることを淡々と言いながら、郁は箱の中身に顔を輝かせる。秋人には到底無理な生き方で、羨ましくもある。 ありきたりな否定の言葉を口にしたくなくて、秋人も箱の中身に視線を向けた。 彩り豊かでボリューム満点のサンドイッチは、容赦なく空腹を刺激する。定番の具や無難そうなものが一つも無くて、秋人は選べそうになかった。 「郁はどれが食べたい?」 「秋人と同じの」 「郁が選んで」 「んー、じゃあ、コレ」 言いながら、一番目立っていたエビカツとタマゴをメインにたっぷりの野菜を挟んだものを手に取る。 視線を探られる気配を感じたけれど、まあいいかと秋人も同じものを手に取った。 「すごいね、コンビニのサンドイッチと全然違う」 相変わらず感動しながら頬張る郁は、見ていて飽きない。本当に美味しそうに、かつ綺麗に食べてくれるので、一緒に食べればどんなものでも美味しく食べられそうな気がした。 一つをぺろりと食べ終えたところで、飲み物でも買いに行こうと立ち上がる。すると、足元に置いていた鞄を倒してしまい、中身が勢いよく飛び出した。 「うわ、やっちゃった」 慌てて拾い集めると、いくつかを拾ってくれていた郁が、興味深そうに資料を見ていた。幸い顧客に配布するもので、今週リリースした新製品のパンフレットだった。 「これ、秋人が担当してるの?」 「うん。新製品だから勉強中だったんだ。明日からまた病院回りだよ」 新機能が追加されているとはいっても、そう簡単には導入してもらえない。それでも医師や看護師や技士にさまざまな視点から質問責めにだけはあうので、信頼を損ねないようしっかり準備してから臨まなければならない。 郁は小さく「んー……」と呟いて、ぱっと秋人に向き直った。 「N大病院なら買ってくれると思う。話付けとこうか?」 「え、なんで!?」 「ちょうど予算消化したいって話聞いてたから」 「いや、そうじゃなくて……」 生まれたもやもやを言葉にするのは躊躇われ、情けない思いで口ごもる。郁はお構いなしに話を続けた。 「これが売れたら秋人の成果になるんじゃないの?」 「そうだよ。だから嫌なんだ」 「どうして?モノは良さそうだしおれは電話一本入れるだけだし、それで秋人の営業が上手くいけば問題ないよね?」 「相手が本当にこの機械を必要としてくれてるならいいかもしれない。でもそういう……俺の仕事の援助みたいなことは止めて欲しい。郁の力を使って仕事を取るのは、俺は違うと思う」 まっすぐに郁を見据えて、静かに伝える。ちっぽけなプライドではあるけれど、そこは譲れないと思った。 対等な関係じゃなくなれば、友人でもなんでもなくなってしまう。 郁は見たことのない表情をしていた。嬉しそうにも悲しそうにも見えるその顔は、どういう感情を表しているんだろう。 「やっぱり秋人は難しいよ。普通は飛びつく話だと思ってた。メリットがあれば付き合ってもらえるかもしれないと思ったおれは間違ってる?」 「郁は、何かメリットがあるから俺と付き合いたいのか?」 「!」 はっとしたように目を瞠り、郁はふるふると首を振る。 思い出したのは、告白されたときのこと。郁に必要なものを秋人が持っていると言ってくれていた。確かに郁にはどこか欠けたところがあるように思える。けれどそこに自分がぴったり嵌まるのかまでは分からなかった。 お互いに、言葉に迷って黙り込む。気まずい空気を打ち破ったのは、遠くから郁を呼ぶ焦った声だった。 白衣を着た小柄の可愛らしい女性が、必死にこちらに向かって走って来る。 「相羽さん、あの、できればすぐ来てもらいたいんですけど!教授がものすごく怒って相羽さんを呼べって。何やらかしたんですか!?」 「あー……面倒だな」 泣きそうな相手を前にして、郁は平坦な声で呟く。秋人は素早くテーブルの上を綺麗に整えて立ち上がった。 「じゃあ俺はもう帰るよ。これ、良かったら皆さんでどうぞ」 「え!?あ、す、すみませんっ」 初めて秋人の存在に気付いたように、慌てふためいた様子で謝られる。ぺこりと笑ってお辞儀を返すと、なぜか瞬きを忘れたように見開いた瞳で凝視されてしまった。 背中に郁の視線を感じながら、振り返らずに立ち去る。決して怒っていたわけでなく、流されないように一人で考えてみたくなったのだ。

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