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運命かもしれない人 6

なんとなく帰る気にはなれず、広々とした構内をブラついてみる。緑が多く贅沢な土地の使い方をしていて、良い環境だと思った。 こんな空気に触れていると、自身の学生時代を思い出す。初めて付き合った男とは、大学で出会った。 当時すでに自身の性指向を自覚していた秋人は、恋人なんて夢のまた夢だと諦めていた。最初から行動すら起こしていなかったので、何の免疫もなかった。そんな状態だったので、いきなり一目惚れだと口説かれて、疑うことも知らずコロっと夢中になった。 浮気を繰り返されるたびに傷付き陰で泣いていたけれど、いつしか慣れて、最後には自分のところに戻って来ればいいと許すようになった。きっと自分の魅力が足りないから他にいかないと満足できないんだとも思った。 そうして、戻って来るたびにまだ自分を必要としてくれることに安堵していた。 運命の番に出会った男は、秋人の知らない顔をしていた。一瞬で、もう戻って来ることはないと悟った。同時に、二度と浮気もしないんだろうと思った。ずっと見てきたからこそ、そう確信してしまった。 二人の何かがぴたりと嵌まる瞬間を見届けて、元より自分が幸せにしてやることはできない男だったのだと言い聞かせ、するりと手を離した。 次に二人を見かけたのは、仲睦まじく賃貸物件を吟味しているところだった。男の穏やかな笑顔に安心し、あのときの選択を褒めてやりたいと自分を慰めた。 それでも、その光景はいつまでも目蓋の裏に焼き付いて消えず、限界を感じてあの店に行った日に出会ったのが郁だった。 郁が秋人を見つけてくれたのも、一つの運命といえるだろうか。 すっかり日が暮れて、星が輝き始めた空を見上げる。雲一つない夜空なんて久しぶりに見たな、と大きく息を吸った。 「あの!」 ふいに後ろから声をかけられ、びくりと飛び跳ねながら振り向く。そこには、さっき郁を呼びに来た彼女が立っていた。 「えっと、何か……?」 「秋人さんですよね?」 「はい、そうですが」 初対面のはずなのに、下の名前を呼ばれて面食らう。彼女はまだ焦っているようで、視線をあちこちに彷徨わせていた。 とりあえず落ち着いてもらおうと、立ち止まって静かに待つことにする。 「すみません、私、相羽さんと同じ研究室の者です。さっきもしかしたら邪魔しちゃったんじゃないかともう気になって気になって……あ!差し入れありがとうございました!」 「いえいえ……」 勢いよく頭を下げられて、秋人もぺこりと返す。そのとき、きらりと光るラインストーンが目に入った。彼女のしているカチューシャは、さっき郁がしていたのと同じものだ。秋人の視線に気付いたのか、彼女は慌てて頭に手を当てる。 「あ、これ、さっきまで相羽さんに貸してたものです。目が見えた方が安心するって秋人さんが相羽さんに言われたんですよね。それで、今から会うけどどうしたらいいかなって相談されて。ふざけてつけてみたら、そのまま出て行っちゃって」 「ああ、そうなんだ」 激しい身振り手振りで懸命に話していて、何か伝えたいことがあるだろうことがよく分かった。秋人は余計なことを言わないように、静かに相槌だけに止める。 「あの、余計なお世話なのは重々承知なんですが、相羽さんをよろしくお願いします!」 「え?」 「以前の相羽さんは、研究室の隅で一人で難しいことやってて誰も近付けない感じで。顔も髪で隠れてよく分からないし挨拶も返してくれないし同じ研究室の仲間の名前も覚えてないし……あ、これは今も覚えてくれてるかは微妙なとこなんですが」 「はあ」 へにゃっと眉を下げた彼女は、すぐに拳を握り締め、圧倒されそうな熱量で続けた。 「そんな相羽さんがですよ、突然向こうから皆に挨拶してくれるようになったんです!「秋人がしてくれて嬉しかったから」って。研究以外の何にも興味がなさそうだったのに、普通に髪とか服とかの相談をしてきたり。理由を訊いたら恋人に好かれたいからって!もう皆大騒ぎですよ。相羽さんも人間だったんだってびっくりしました」 「…………」 褒めているのか貶しているのかよく分からない彼女の言い分に、どう答えればいいのか分からない。それに、正確に言うと恋人ではないので、返事に困ってしまった。 「初デートの後から、犬の動画を見て勉強したり、クレープ屋さんを調べたり、本当に一生懸命でした。おかげで話しやすくなって、相羽さんの手伝いもさせてもらえるようになりました。すごくレベルの高い研究で、皆の士気が上がった感じで、部屋の雰囲気も良くなったんです」 「……そっか」 「あの、相羽さんには秋人さんじゃなきゃ駄目なんだと思います」 「どうしてそう思うの?」 「え!?」 思わず出てしまった質問に驚いたのか、彼女は素っ頓狂な声を上げてしどろもどろになっている。 「ああ、ごめんね。それは俺が自分で考えることだったね」 「いえ、調子に乗ってすみませんでした。でもどうしても言いたくて。いろいろあって、うちの研究員たちは皆やる気をなくしてたんです。本人にそのつもりは無かったと思いますが、それを救ってくれたのが相羽さんの研究なので、秋人さんにも感謝してるんです」 「……ありがとう」 「いえ、こちらこそ!長々とすみませんでした!あ、私彼氏いるんで、カチューシャのことはお気になさらず!」 「あ、はい」 最後までマイペースにハイテンションを保つ彼女に気圧されながら、小走りに戻って行く後ろ姿を見送る。郁のために動いてくれる人がいる、それが、なぜか自分のことのように嬉しかった。 理由をつけて逃げてばかりの自分と違って、郁は常にまっすぐ歩いている。素直に郁だけを見ることができれば、答えなんて簡単に出せるのかもしれない。でもそれができないのが秋人という人間で、郁を眩しく感じる理由もそこにある気がした。 月明かりが妙に明るく目の前を照らしてくれる。自ら心にかけてしまったストッパーを、一つずつゆっくりとなら、外していけるかもしれないと思った。

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