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僕が見つけた黒豹
人間には男女二つの性しかない。しかし、獣人にはα、β、Ωという三つの性――バース性というものが存在する。それは群れを形成していた名残だと言われ、群れの指導者の血を色濃く継ぐ者にα性が顕れる。
奴隷商によると獣人のほとんどはβ性であり、数が少なく見目の美しいΩ性の獣人は性奴隷として高値で取引される傾向があるらしい。しかし、そのことに僕は何の魅力も感じなかった。
そんな中、僕はイェレを見つけた。黒く美しい豹を。
αが奴隷に堕ちることはなく、かなりの希少価値があると言われ、高値をふっかけられたが、僕はその黒豹以外を買うつもりはなかった。
渋々と言った感じだったが、どこぞの国の王家の血を引いているかもしれない、と聞いた父は手のひらを返したように快諾した。そして、会う人会う人に自慢してまわり、自己顕示欲を満たしていた。
僕が数ある奴隷の中から掘り出した際には、獣人と言うだけで顔を顰めていたというのに。
奴隷商から連れ帰り、傷の状態を確認すれば酷いものだった。脚と腕は片方ずつ折れ、体中に縦横無尽に走る鞭の痕は膿んで発熱を伴っていた。
そのような状態だというのに、イェレは悠然たる面持ちでそこに存在していたのだ。今でも鮮明に脳裏に浮かべることができるほどに、それはそれは美しい勇姿だった。
「おまえ、名はあるのか」
「はい、イェレと申します」
呼び付けた医者に診せた後、僕が問えば流暢に答えた。人間の言葉を話せる獣人は稀少だと聞いたことがあったため、すぐに返ってきたことに僕は目を瞠った。
「人間の言葉が分かるんだな」
「はい。学ぶ機会がありましたので。ヨアン様のご希望に十分に沿えるかと」
体が辛いと僕でさえわかるというのに、姿勢を崩さず僕を揺るぐことなく見つめた。
獣人はプライドが高く、奴隷となったとしても人間の命令に背くことがあると聞いていたが、イェレにその気配はなかった。
「奴隷になったとしても、プライドが高く扱いにくいと聞いたが、おまえは違うのか?」
「……ヨアン様は面白いことを聞かれるのですね。少なくとも私は逆らおうなどと思っておりません」
笑みを湛える獣人からは、本当に敵意や奴隷にされた怒りなど感じなかった。ただ、それが本当かどうかなど、十四を迎えたばかりの僕に分かるわけもない。相手は種族の違う獣人なのだから。
屈強でありながら全く獰猛さの欠片もない奴隷は僕の側に佇み、指示をしなくても僕を起こし、着替えを手伝う。まるで従者のような働きをするようになった。義務感はなく、とても自然に行われた。
僕もまたイェレの傷が癒えるまで僕自身が介抱した。自分の所有物なら自分で管理するのが当たり前だと。そんな思いで拙いながらも包帯を取り、湯で体を清め、薬を塗った。
イェレは僕への礼を欠かさず、包帯を巻きなおす度に異国の知識を少しずつ分け与えてくれた。宝石を生み出す植物。僕の屋敷ほどの大きさがある鳥。青く輝く洞窟。僕が目にも耳にもしたことのない話を冒険譚のように穏やかに語った。
奴隷に執着が生まれるとは思っていなかったが、博識で気高いイェレは僕を惹きつけて止まなかった。
ほとんどの時間を一人で過ごしていた僕にとって、反応の返って来る誰かが側にいるというだけで特別だったのだ。
「いつも食事は一人で取られているのですか?」
「父上はお忙しい身。母上は弟と離れに住んでいるから」
僕を産んですぐに生みの母は亡くなり、その後すぐに後妻に入ったのが今の母。弟とは半分しか血が繋がっていない。
父は嫡子の僕を跡継ぎにと考えているが、才のある弟をと継母は主張しているため諍いが絶えず、今は別居状態だった。
「そうだったのですね。ならば食事の時は私が側にいても?」
「好きにすればいい」
そう答えると、イェレは目を細めて頷き、「かしこまりました」と返事をした。
朝から晩まで二人で過ごし、離れるのは学園に行く数刻のみ。そんな中でイェレが唯一信頼できる存在となるのに時間は要しなかった。そして、虚勢を張らなくていい相手だと気付くのもまた、すぐのことだった。
「イェレ、ここに」
僕の横に寝る様に言いつけると初めは困惑していたが、次第に慣れ、それが当たり前のようになっていった。
短く柔らかな獣毛から与えられる温かさの中で眠りにつく。僕のなによりも心安らぐ時間だった。時折、僕の頭を撫でるイェレの手がとても心地よかった。
「ヨアン様の髪はとてもきれいな色ですね」
イェレの口から紡がれる穏やかな低音が耳を擽る。微睡の中でそれを聞くのが幸せだった。
「そうかな? 母上に似ただけだよ」
「私の故郷には金嶺花(きんりょうか)という金の光沢を持つ花があります。険しい岩山に咲く生命力に溢れた花……その花弁のように美しい」
イェレは追憶に浸りながら、僕の髪に小さな肉球が納まる指を絡ませる。しかし、イェレの瞳は僕を映してはいなかった。それが酷く苛立たしかった。
「イェレ、痛む?」
「いえ、もう痛みはありません。ありがとうございます、ヨアン様」
毎日化膿止めの薬瓶三つを費やして厚く塗った甲斐はあった。その広い背中には深く痕が刻まれ、獣毛が剥げてしまっている個所もある。それでも命を救えたのだと、僕は妙な達成感を得ていた。そして、この獣人の男が僕の所有物になったことを無邪気に喜んだ。
人間とは違う躍動感溢れる筋肉で形成された肉体。僕には究極の理想の形であり、他の追随を許さない超越したもののように感じられた。
それに勘付いたのか、ただ獣人が完璧ではないと伝えたかっただけなのか、イェレは僕に言った。
「ヨアン様に獣人に関して知って頂きたいことがございます」
獣人を奴隷として扱うこの国では、獣人に対する知識など皆無に近かった。獣人の中に人間と会話できる者が限られていたことも拍車をかけていたのだろう。イェレから教わったからこそ、僕は彼らの理を知ることができたのだ。
Ω性を持つ獣人には発情期というものがあり、その時期に性行為を行うことで、子を成すことができる。そして、α性とΩ性の獣人は番い、一生寄り添い過ごすのだという。
僕がその関係に仄かな憧憬を抱いたのは、子供ながらに家族関係が破綻していると認識していたからだろう。
ところが、獣人にとってバース性は素直に利点とは言い切れないようだった。
Ωの発情時に発せられるフェロモンと言う香り。その香りはαから理性を奪い、性行為を強制的に行わせる、ある意味恐ろしいものだとイェレは語った。
「万一私が発情期のΩに出逢い、理性を失うことがあれば、どうぞその手で私をお斬り下さい。それが獣人を飼う主人の務めなのです」
そう言って、短刀の柄を僕に握らせると、鞘をしたままの切っ先を自分の胸へと押し当てた。
「心の臓はここですが、骨があるため刺すことは適わないでしょう。ここを狙うのです。いいですか?」
腰の括れたあたりに僕の手を導き、僕の目を射るように見据えた。
「でも、そんなところを刺せば、イェレは……」
「獣と化せば何をしでかすか分からない。それを制御するのが貴方様の役目。よろしいですね」
青磁色の奥には静かな憤怒が揺らめいていた。それはイェレが初めて過去を匂わせた瞬間だった。
しかし、僕は外見よりも内面が幼かった。
公爵家の長男として生を受けたと言えば、ほどほどに予想もできるのではないだろうか。
全てが整えられた中で何不自由なく生活し、自力で考えることもしない浅はかな子供。そんな僕はその忠告の重みを見誤っていた。今、後悔したとて、何の意味もない。
ただイェレを飾りとして扱い、所構わず付き添わせた。なによりの自慢だった。黒く艶のある柔らかい毛を櫛で梳き、イェレを美しく魅せるための努力も怠らなかった。
学園につれて行くために、父に頼んでイェレを奴隷から解放し、従者として契約した。金さえあれば、不可能と言われていることでも可能になる。
「いいだろう? 僕の従者は獣人種の中でも特別なんだ」
イェレを紹介すれば、級友は感嘆し賛辞を並べる。僕の顔色を窺い諂う下の者にはイェレの英姿が眩しく映ったに違いない。僕の従者の噂は瞬く間に王都中に広がった。
周囲から向けられる称賛は心地良いものだった。イェレを見出した僕に皆が関心を向けてくるのだから。しかし、社交場で誰よりも目を惹いたのは、僕の後ろに控える黒豹獣人だった。
「子供にこのような大層な護衛はいらないのではないですかな」
「いくら払えば譲ってくださるの?」
「ここまで釣合いが取れていないのも、また珍しい」
皆の視線は僕を素通りし、イェレを瞳に映しては悩ましく溜息を漏らす。獣人を蔑む思想を抱く者でさえも、その威厳ある佇まいに目を奪われ、誘いの手を伸ばしてくる。
「これは僕のものだ。誰にも渡しはしない」
声高らかに主張すれば、その場はさざめき立ち、小さく嘲笑も雑じった。
「ふん、嫉妬とは醜い」
僕はそいつらを鼻で嗤い、イェレの腕を掴んで踵を返した。
本当は分かっていた。僕とイェレの間には埋められないほどに品格の差があることを。それを笑われているのだと。
「イェレ、おまえは目立ちすぎる。少し場を弁えろ」
そう言いながらも、僕もイェレの気高さに魅了されている一人であり、妬みなど抱くはずもない。ただ、厭味の一つも投げたくなり理不尽なことを言えば、イェレは意外そうに眉を上げ、その後子供に向けるかのような眼差しで僕を見下ろした。
「ヨアン様。私は貴方様に威厳を添えるためにいるのです。ヨアン様はのち国の中枢に身を置くのですから、その糧として私をお使いください」
どこまでも冷静なイェレ。僕はイェレにわずかな負の感情すら湧かせることができない。僕の言葉は、どうやってもイェレには響かないのだ。
それが苛立ちを感じていた僕を我に返らせる。
「イェレ……。ごめんなさい、少し頭にきたんだ」
「ええ、ヨアン様の本意でないことは、十分に承知しております」
イェレの返答は完璧。不快にさせない、とても優しいものだ。しかし、その優しさは僕を苦しませるだけだった。
追いつけない、近くにいるのに遠くにいるような存在。一人だけポツリと取り残された様な空虚感に埋め尽くされることもあった。
どうすれば僕を見てくれる?
気を引くために我儘を言い、わざと困らすようなことをした。食事を不味いと床に落としたり、獣人が嫌がる尾や耳を執拗に触ったりと。
しかし、イェレは顔色一つ変えず、表面上の要求に応え、宥めるだけ。僕が何を言おうとイェレの心は揺るがず、細波すら立てることは叶わなかった。
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