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視線の先には
僕が主人だと言い聞かせるように、イェレの逞しい体に身を預け頬を寄せる。
イェレを従者として雇ってからというもの、僕に全く関与しなくなった両親はますます軋轢を深め、僕の渇いた心は水を求める様にイェレを必要とした。
「おまえは離れないでいてくれる?」
「ヨアン様が巣立たれるまで、共におります」
「……成人したら、イェレは僕の元を去るの?」
「はい。それまで私のできる限りのことを致しましょう」
奴隷としてなら僕が息絶えるまで仕えることになる。しかし奴隷を学園に連れて行くことは叶わない。イェレが奴隷で構わないと首を横に振ったのを、望みを聞くからと頼み込んで従者にしたのだから、イェレがそれまでと言えばそれまで。
僕がイェレを欲している限りイェレの方が優位、という立場の逆転が発生していることに気づかぬふりをして、イェレに甘えた。イェレも決して口に出すことはしなかった。
憧れが尊敬になり、尊敬が愛情に変わるのに時間はかからなかった。それは依存という名のいびつな愛情だったのかもしれない。
しかし、それは僕が見出した唯一の愛。
――そう、僕には初めての恋だった。
獣人と人は遺伝子の隔たりから、お互いを愛することがない相容れない関係だと言われている。しかし、その感情は確かに僕の中に生まれていた。
イェレと対等になりたいと、遅まきながら勉学に励むようになり、無謀な望みに追いすがるように僕は身を砕いた。イェレに対する想いがすべての原動力となっていた。
イェレが来てから三年が経つ頃、イェレは夜な夜な出かけるようになった。もちろん僕の元へは来ず、帰ってくるのは朝方になってから。あと半年もすれば僕は成人を迎え、契約は満了する。その後のために、コネクションを作っているのだろう。
その間も僕は勉学に注力した。その結果、それまでが嘘だったかのように成績は好調に伸び、学園では一目置かれるほどになっていた。しかし、イェレは綺麗だと言った僕の金色の髪に指を絡め、懐かしそうに目を細めるだけだった。ただ僕の向こうにある存在を見つめていた。
欲しいものはすべて僕をすり抜けていく。僕の心は決して満たされることなく、軋みを上げ、亀裂を深めていった。
どうして僕ではないのか。
イェレの心はこの三年、僕へ向くことはなかった。
終始その心を満たしているのは、僕の窺い知ることのできない過去。そして、そこに生きる誰か。
「行かないで。今夜は僕と一緒に寝よう。少し寂しいんだ」
部屋を出ていこうとするイェレの腕に体を寄せ、駄々をこねた。子供のように接すれば、イェレは応えてくれる。だから僕は恋など知らないフリをする。拒否されないために。これ以上僕から離れさせないために。
久しぶりのイェレの暖かい腕の中。瞼を閉じれば、大きな手が僕の金色の髪を優しく撫で梳いた。
やはりこれほどに安らげる空間は他にない。胸に擦り寄れば、脈を打つ音が鼓膜を柔らかく振動させる。獣人もまた人間と変わりなく、血が通っているのだと実感する。
「また少し、大きくなられましたね」
「イェレに追い付ける気がしない。既に身長の伸びが緩やかになっているから」
「私と比べるのはどうかと。ヨアン様は人間ですから、落ち込まれる必要などありません」
僕の身長はイェレの胸の高さほどしかない。この年齢では至って平均的な身長だが、獣人とは全く造りが違う。獣人に対し人間は全てが一回り小さい。きっと今の僕は獣人では小さな子どもほどの大きさしかないのだろう。
だがそれでいい。イェレがこうして僕を子ども扱いしてくれる方が都合がいいのだ。
僕は愛しい人の腕の中で眠ることができる幸せを噛みしめた。
「悩んでおられるようですな」
父の贔屓にしている商人が帰り際に僕に耳打ちした。意味を捉えられず商人の表情を探れば、商人はにんまりと企みのある笑みを浮かべた。
「あの獣人についてではないですかな?」
「失敬な。使用人について悩むものか」
「左様でございますな。――ただ、興味深い薬が手に入りまして。人間とは相容れない獣人を惑わす効果があると言われておるのです」
「……惑わす?」
口から突いて出た問いを消散できるわけもなく、それは商人の耳へと届いてしまった。
「やはり興味がおありのようで――」
「なにもない。話しは終わりだ」
「そうおっしゃらずに。これを飲めば、Ω性を持つ獣人と同じ香りをさせられるとか。ご存知ですか? Ωの香りはα性獣人を魅了するもの。人間もプライドの高い獣人達を飼いならすことができるようになると言うのです。――その上、情交を結ぶこともできると聞きます」
Ωの香り。どこかで耳にしたことのある言葉だった。しかし、短絡的な僕はその商人の巧い話に囚われ、イェレが過去に語ったことなど忘却の彼方に追いやってしまっていた。イェレと交わることなど思い及びもしなかった僕にとって、それは悪魔の囁きだったのだ。
体を使えばイェレを少しでも振り向かせることができるかもしれない。僕の心の揺らぎを商人は見逃がさなかった。
「いつもご贔屓にして頂いておりますからな、破格にて提供いたしましょう。いかがですかな? 在庫は一つ。これがなくなれば、もう手に入ることは叶いませんぞ」
商人は珠を弾いた算盤を僕に差し出し、追い打ちをかける。これが常套手段だというのは重々承知だ。しかし、打ち出されたのはひと月の小遣いと等しい金額だった。
ひと月分の小遣いで買えるのなら痛くもかゆくもない。イェレが僕を僅かでも心に入れてくれるのならば、安いもの。
僕が頷けば、商人は血のように赤い粉末の入った薬包をビロードで包み、僕に手渡したのだった。
僕はそれを大切にナイトテーブルの鍵の付いた引き出しへとしまった。薬を使わずとも、イェレをこちらに向かせたい。契約が失効する間際までは、曲がりなりにも僕はイェレの主人であり、心を通わせるよう尽力することもできる。薬をすぐにでも使用したいという焦燥を押し殺し、僕は残りの可能性に賭けた。
「イェレ、一緒に寝て欲しいんだ」
「かしこまりました」
イェレは快く頷いたが、ベッドに横になる僕の傍らに座り、僕の背中を擦るのみ。以前のように僕を抱きしめる素振りすら見せなくなった。
「入って。イェレがいないと寒くて眠れない。僕を温めて」
「部屋は十分に暖かくしております。そろそろ私がいないことに慣れて頂かなければなりません。旦那様からもそう言付かっております。専攻科では寮から通われるのでしょう」
「そんなこと、今は関係ない。寮に入った後のことはどうにでもなる」
「ヨアン様。今日はお赦し下さい」
イェレは立ち上がると頭を下げ、僕が呼び止めるのも聞かずに扉を閉めた。それは拒絶にも取れた。
その日からイェレの態度はそれまで以上に余所余所しくなり、僕が触れようとすると、さり気なく躱すようになった。
たった三年と半年。短い時間だったというのに、イェレは僕に馴染み過ぎた。避けられる度に、目を逸らされる度に、僕の心は引き裂かれるかのように痛みを伴い、涙を流した。
いつものように僕一人だけが着く静かなテーブル。夕食の給仕を行う何も知らないイェレの横顔を見つめつつ、僕は心に決めた。
「イェレ、後で僕の部屋に来て」
一度瞬いたイェレは逡巡したのち、「かしこまりました」と頷く。
心が手に入らないのならば、一晩だけでもいい。イェレを魅了し、一度でも契りを結びたい。その一時だけでも、彼の心が手に入るのならば。
酷く不気味な赤い粉を水と共に飲み下してから、湯浴みし、身を清めた。男同士の閨事の噂を耳にしただけに留まる僕は、その噂通りに処置を行い、ただイェレを待った。イェレに抱かれるために。
半刻ほどで効果が表れると言うが、人間が感知できる香りなのか見当もつかない。その上、兆候らしきものもみられず、後は全てを委ねるしかなかった。
ノック音が部屋に響くと、できるだけいつものように振舞い、イェレの小さな肉球の納まった指を握って部屋に招き入れる。内心、酷く緊張していたのは言うまでもない。
部屋に一歩踏み込んだイェレは若干眉間に皺を寄せたのみで、特に反応を示さない。本当にΩの香りがしているのだろうか、と薬の効果を疑い始めた所で、やっとイェレが口を開いた。
「この香りは?」
「ああ、香水をつけてみたんだ。気に入ってくれた?」
「そうですね……。なんというか、甘すぎるような気もしますが……」
僕の嗅覚は全く刺激されなかったが、確かにイェレには香っているらしい。
ああ、薬は本物だった。
目の前が開けたような気さえした。
僕は高揚と共にイェレの逞しい体に寄り添い、柔らかな獣毛に包まれながらもしなやかな筋肉が浮き上がる腕を抱きすくめた。
「イェレ、一緒に寝よう。これで最後だ」
一度きりでいい。
夢を見させて欲しい。
「……おまえは、何を……?」
戸惑いを含んだ声を零すイェレを見上げれば、瞳を落ち着きなく彷徨わせる黒豹がそこにいた。吐息は徐々に忙しくなり、上ずったような喘ぎが薄く開いた口から洩れた。
「イェレ?」
異様な雰囲気を漂わせ始めたイェレに声をかけた直後、視界が揺らいだ。
気付けば、イェレよりも二回りは小さい僕の体は床に押さえつけられていた。頭を打ち、一度意識を飛ばしたのかもしれない。
酷く息苦しさを感じて、首に絡んだものを引きはがそうと掴めば、それはイェレの大きな手だった。かつては優しく頭を撫でてくれたその手が僕の首を絞め、自由を奪っていた。
闇色の獣毛に覆われた姿こそいつもと変わらないというのに、目の前にいるイェレは狂気に満ち、無骨な野生を匂わせる。僕の首を折ることなど造作もないと思い知らされ、その事実に戦慄した。僕は獣人というものの片鱗さえ理解していなかったのだ。
そして、聞こえてきた布が裂かれる音。イェレの鋭く尖った爪が皮膚を掠りながら服を跡形もなく引きちぎり、僕の肌は冷気に晒された。
「ひ、っ……」
混乱と恐怖にカタカタと奥歯が鳴る。そんな僕をイェレは瞳孔を開き、知性を欠いた眼でただ見下ろしていた。
『獣と化せば何をしでかすか分からない』
今更ながらにイェレの過去の言葉が胸を掠めた。
Ωの香り。これが発情時にΩが発するフェロモンと同じものなのだと気付いたが、すでに手遅れだった。
イェレは殺せと言った。しかし、僕にできるわけがない。当然イェレを愛しているからだが、それ以前に力で適うはずがないのだ。イェレは僕にΩ性獣人を襲っている自分を刺すように指示したのであって、この状況を全く予期していなかったのだろう。
気遣いの欠片もなく、もちろん愛撫もなく、イェレの陰茎に濡れることのない孔を貫かれ、僕は絶叫した。揺さぶられ、身を灼かれるような苦痛に喘いだ。
イェレは牙を剥き出しにし、低い唸り声をあげ、僕を陵辱した。気を失っても痛みで引き戻される。混濁する意識の中で、イェレの解放した奔流が僕の腹の底を容赦なく殴った。そして大きく開いた口から覗く、鋭く尖った牙が僕の喉元を捕らえた。
ああ、僕は殺されるのか。
頭の片隅で酷く冷静にそう思い至った時、何の躊躇もなくイェレの牙が薄い皮膚を引き裂き、肉に食い込んだ。
イェレ、ごめんなさい。
こんなことになるなんて。
僕は最期の力を振り絞って、首に食らいつくイェレの黒く艶のある柔らかな獣毛を撫で、指を絡めた。唯一安らげる場所を想い焦がれながら、僕は意識が薄れていくのを感じ、瞼を閉じた。
――その刹那だった。
ドクリ、と体の中で何かが胎動した。
イェレの牙が食い込んだ箇所が燃え上がるように熱を発する。血が煮え滾り、脈打つ何かが体の中をうねり、五感を支配していく。
「やっ、ぁ……っ」
痛みは麻痺し、穿つ熱が脳天まで突き抜ける快楽を揺り起こした。
死を覚悟したというのに、待っていたのは暴力的な快感だった。
理解が追い付かない。怒涛のごとく脳に攻め入る刺激が思考を奪い、自分がいる状況すら把握できない。それほどの悦楽を与えられた。
潤滑剤の役割を果たしていた血よりも粘性のあるものが胎の奥から沸きだし、孔を生殖器のように濡らす。
「あ……あっ、イェレっ……」
全身がイェレを求める。さらなる奥に子種が欲しいと。
僕は本能の赴くままにイェレの陰茎を喰い締め、精液を貪った。
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