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Ωに堕ちた人間は

 あの日から、すでに二年が経とうとしている。  僕が薬を使い、イェレを発情に巻き込んだあの時から。  あれはイェレを狂乱状態に陥れ、僕を亡き者にしようとした母と弟の企みによって引き起こされたものだった。  僕は弟から相当に嫉妬されていたようだ。そんなこととは露知らず、僕はその罠に自ら飛び込んだ。イェレも立場上主人である僕を殺していたのなら、また奴隷に戻っていたはずだ。そして、イェレを欲していたという弟の奴隷にされていたことだろう。  ただ、企みは成功に至らず、僕は生きていた。  人間の身でありながら、Ω性をその体に宿して。  イェレが語ることはなかったが、獣人国との境に位置するこの領土に移り住んでから、時折稀少な能力を持ったαが存在すると伝え聞いた。イェレはそのαに属するのだろう。  すべては偶然が重なった結果だ。そしてその事象はすべて僕が招いたもの。    僕が愛してはいけないイェレを愛した所為。  僕は大層気味悪がられた。獣のようで汚らわしいと。 人の口に戸は立てられない。僕が生き永らえた理由を知った弟が吹聴し、僕を晒しものにしたのだ。  貴族社会から爪はじきに遭い、追放されるような形で国の端へと居を移した。誰も住みたがらない未開の土地へ。  成人し契約は失効したというのに、イェレは僕の傍にいる。僕をΩに堕としたイェレの贖いなのかもしれない。それとも番に対しての最低限の配慮だろうか。    そう、イェレと僕はあの日、番となった。  噛まれたΩは噛んだαの番となる。それは人間との間にも成立したようだった。  定期的に訪れる発情期を治めることができるのは番のαのみであり、そこに愛情はなくともαの精を受けなければ飢え渇き精神を病む。  Ω性の人間もそれに相応するのかは不明だが、不定期に訪れた発情期にはイェレを口淫して勃たせ、自ら腰を振ってイェレを吐精させた。しかし、その酷く虚しい性行為は僕の精神を蝕んでいくだけだった。   獣人国から月に数回来る通いの使用人さえも人間のΩである僕を厭い、発情期を遅らせるという丸薬を僕に握らせた。もちろんイェレを憂えての事。  それは僕も同じ思いだった。  このような未来を望んでいたわけではない。ただ僕はイェレの愛が一欠片でも欲しかった。  しかし、その望みも泡と消えた。 僕が採った方法は、αを繋ぎとめるために行われるαの尊厳を害する極めて非道な行為だった。  日々感じる罪悪感。僕との性交を忌み嫌うイェレを苦しませたくない。今はその思いで埋め尽くされていた。    僕は薬を手に取り、舌の上に乗せた。  あの行為で僕もまた心に傷を負うのだから、発情期が来ないことはお互いに望ましいのだ。  最後の発情期からその薬を服用し始め半年以上が経過しているが、起こりそうな兆しはない。イェレも元々不定期な発情期の事など気にも留めていないだろう。  そして、今日も仕事を終えたイェレは屋敷を出た。愛する人の墓の傍で彼は暮らしているらしい。使用人が僕に釘を刺すようにそう告げた。叶わない恋なのだと知らしめるために。  イェレの心を占めるその人に羨望を抱きながらも嫉妬は感じなかった。イェレはその愛する人の復讐を果たし、奴隷に堕ちた。その人が『運命』だったのだという。  僕にはその『運命』というものが理解できないが、一生を添い遂げる相手であることは見当がつく。そのような人物に僕が敵うはずがない。  僕は今日も今日とて、薬を喉に流す。しばらくすると訪れる激しい動悸と眩暈。  服用し始めたころは半刻ほどで治まっていた薬の副作用は、今は半日続くこともある。だからこそ、イェレのいない夕食後に服用し、朝には治まるようにしていた。  この薬が良くないものであることは、考えれば分かること。自然の理に逆らい、発情期を止めているのだから当然だ。  それと、イェレの不在時にすることがもう一つ。  副作用で悲鳴を上げる体を叱咤し、ランドリールームへと足を傾けること。  香りの薄れたシャツを籠に投げ入れつつ、僕はイェレの残り香の強いシャツを手繰り寄せた。 「イェレ……」  イェレが昼間着用しているシャツを、目を盗んで部屋に持ち帰るのだ。  顔を埋めて、わずかに残るイェレの香りを愛おしみ、イェレの腕の中で眠れることを夢見るひととき。それだけが、僕に赦された行為だった。  シャツを鼻に近づけ、スンと香りを吸い込む。イェレの香りを嗅げば、症状が和らぐ気さえする。番というものを実感する瞬間。自然と笑みが零れた。その時だけはイェレに包まれているような至福を味わえるのだから。  その時だった。  背後でカツリ、と足音がしたのだ。  身構えて振り返れば、居ないはずのイェレがそこに立っていた。僕は慌てて羽織にシャツを隠した。見られただろうか。 「何をしておられるのですか」 「別に、何もない」  焦りと共に先ほどまで落ち着いていた動悸が激しさを増す。しかし、壁伝いに歩く姿を見せるわけにはいかない。  地面が揺れているかのように感じる眩暈を瞼を閉じてやり過ごし、イェレの横を何事もないかのように通り過ぎた。 「忘れ物でも? 僕はもう寝るからご自由に」  お互いに干渉しない。それがここに来てからの暗黙の了解。イェレも僕に興味を失ったのか、ランドリールームに僕と入れ違いで入って行った。  そのイェレの視界の外まで歩き、壁に手を付くと僕は安堵した。羽織の中に隠したシャツを取り出し、胸に抱く。  深呼吸をして部屋に戻る一歩を踏み出した時、視界が傾いだ。 「……?」  酷い眩暈かと思ったが、実際に僕の体が傾いていたのだ。力の入らなくなった指の隙間から大切なイェレのシャツが滑り落ちる。咄嗟に出した手も意味をなさず、イェレのシャツの上に僕は頽れた。  床に振動が伝わるほどに動悸は激しさを増し、息が弾む。急速に視界が欠けていき、意識が白んでいく。  僕はイェレのシャツを掴むことさえできず、ただ指で撫でた。 「イェ、レ」  息を吸えばイェレの香りに満たされる。その優しい香りの中で僕はゆっくりと目を閉じた。

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