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抗えないもの

 時が戻ればいい。  何度そう思った事か。  あいつが俺の時。そしてあいつが自ら命を絶った時。  番になることをなによりも待ち望んでいたというのに、その望みは一瞬で消え失せた。Ωの発情期に当てられた男があいつを襲い、首を噛んだ。あいつが家で寛ぐほんのわずかな隙に。  事故として扱われ、あいつの意志は関係なく、その男の番になった。  本当に事故であれば、その後その男があいつを愛し守ってくれたのであれば、それが運命だったのだと自分を納得させられた。  だが、それは違った。 『おまえの絶望した顔が拝めて最高な気分だ。どう足掻いてもおまえの運命は、もうおまえのモノにはならない』  見知らぬΩに発情誘発薬を飲ませ、Ωに当てられたかのように見せかけあいつを襲った。俺へ当て付けるためだけに。全く関りのないと思っていた男から恨みを買っていたなど、どうして知ることができようか。 『イェレ、ごめんね』  首に生々しく残る噛み跡に爪を立てながら、何の罪もないあいつは静かに涙を流した。  番でなくてもいい。あいつの傍にいてやりたかった。しかし番を引き離す行為は罪に問われる。俺は番を脅かす存在へとみなされ、あいつに近づくことを禁じられた。  診療所にあいつが運び込まれたと聞いたのは、それからわずか半年後のことだった。  目の前に横たえられた体は酷く痩せこけ、あいつの美しい金毛には艶がなくなり、色が抜け落ちたように白くなっていた。発情抑制薬の服用と虐待を受けていた結果だった。  禁じられていたとしても、罪に問われたとしても、どうしてあいつを連れ去らなかったのか。体は満たされなくとも、あいつの心に寄り添うことはできたはずだ。 『イェレ』  痩せ細った手が俺を求めるように伸ばされ、俺は握りしめた。今にも折れてしまいそうなその手を包むように。  その時になってはじめて俺の所で保護することが認められた。理不尽だとは感じていたが、共に過ごせることをただ喜んだ。  昔のように腕にあいつを囲い愛した。少しずつだが回復し、笑顔を取り戻し始めていた。俺に甘えるように身を寄せ、幸せそうに瞼を伏せる。元に戻ったような気さえしていた。  ――そう、あの時までは。  俺には感じることのできないあいつの発情期の香り。気だるげな様子を見せていたというのに、俺は気付くことができなかった。  仕事から戻れば、あいつの姿はなかった。ただ置き手紙だけがそこに残されていた。 『どうか幸せに』と。  その手紙を握りしめ、俺は街を駆けずり回った。そして、街はずれの森の中であいつの亡骸を見つけた。その表情はまるで眠っているかのように安らかだった。すべてから解き放たれたような、そんな様子だった。  煮え滾るような怒りに任せ、あいつの番であり、あいつを死に追いやった張本人である男を殴り殺した。俺が確保されたときには顔も判別できないほどの状態だったらしい。  復讐は果たしたというのに、途方もない喪失感に苛まれる毎日。世界から色が消え、仄暗い空と道がただ俺の前に続いていた。  看守に殴られ蹴られ鞭で打たれても、痛みさえ感じなかった。すべての感覚が麻痺していた。そして罪を認め、俺は奴隷に堕ちた。  あいつがバース性というしがらみに縛られることのない場所へと旅立ったのだと理解できたのは、その後だった  そのまま共にこの世を去ることができればどれだけよかったか。ただ、俺の逝く先はあいつと違う場所であることは明白で、死を選んだとしても会うことは叶わないだろう。  ふ、と目の端で光が揺れた気がした。  目を向ければ、柔らかな金色が目の前でふわりと光を反射させる。あいつが愛してやまなかった金嶺花とあいつ自身の色があった。そこだけが鮮明に色づいて見えた。  しかし、それは人間の子供のものだった。華やかに着飾り、裕福であることを隠しもしない支配階級側の人間。  その子供が俺を目に入れ、「これが良い」と言った。一歩檻に近づくと、深緑の瞳で興味深そうに俺を見上げる。皮肉なことに、その瞳の色さえもあいつを彷彿とさせた。 何やら揉めてはいたが、結局俺はその子供に買われることとなった。俺には誰が主人であるかなど取るに足らないこと。血の気が多かった数年前であれば、奴隷に堕ち人間に仕えるなどプライドが許さなかっただろう。ましてや、こんな子供が主人など考えられないことだった。  しかし、俺にとってすべてが些細なことでしかない。あいつの死以上に俺の心を揺るがすものはないのだから。  ただひとつ、この子供に買われて幸いだったのが、穏やかに過ごせることだった。  裕福さから来る余裕なのか、生まれ持ったものなのか、子供は年の割には落ち着いており、感情もあまり表には出さなかった。それに無理難題を押し付けてくることもない。静かな日常に波風を立てぬよう従順でいることは苦にはならなかった。  主人となった子供は可哀想なもので、父は滅多と帰ってこず、継母と義弟は別居中。ホールを備え、四人で暮らすのにさえ大きすぎる屋敷で一人過ごしていたのだという。使用人も子供に話しかける様子はない。  少し情を見せれば、子供は顔色を窺いつつも俺の腕を抱きしめるように傍にいることが多くなった。獣人の子供も人間の子供も寂しいという感情は同じようだった。 「イェレ、ここに」  そう言って子供はベッドに入ると、俺に自分の横に寝るように指示した。 「私は奴隷の身ですから、同じ寝台に入ることは許されません」 「僕が良いと言ってるんだから良いんだ」  返事をする前に俺の手を引いた子供の手はとても小さかった。初めての要求らしい要求であり、床で寝なくてもいいというのだから、俺はそのまま子供の指示通りに小さな体の横に体を横たえた。  そうすれば目に入るさらりとした金色。思わず指で触れてしまった後、手を引くわけにもいかず、その髪を梳いた。思った以上に繊細で柔らかく、その手触りさえあいつに似ていた。 『イェレが運命だなんて、僕は本当に幸せ者だよ。早く成人して番になりたいなぁ』  幸せそうな笑みが脳裏に浮かぶ。目の前で心地の良さそうに眠る子供の姿と重なり、まるであいつが腕の中にいるような感覚を味わった。  その日から子供は当たり前のように俺を寝台へと招き、俺はその度に絹糸のような金の髪を撫でた。それまではあいつが苦しんでいる表情しか思い出さなかったというのに、その柔らかな髪に触れているときだけは記憶の中のあいつが笑う。罪悪感と幸福感が交差しあうその時間は、俺にとって避けたいものでもあり、あいつとの思い出に浸れる大切なひとときでもあった。 「イェレ、おまえを奴隷から解放する。これからは従者として僕に仕えるんだ」  そう子供が言った。 「従者ですか?」 「そうだ」  人間の国で獣人を従者として付き添わせるなど、何を考えているのか。連れ歩けば、見世物になるだけだろう。 「私は奴隷のままで構いません。奴隷である今も十分にヨアン様に付き添っております」 「ううん、イェレを学園に連れて行きたいんだ。奴隷じゃ学園には入れない。それにおまえは護衛も兼ねているのだから、付いてきて当然だろう?」  子供はそう言うが、目的は薄々分かっていた。注目を浴びたいという気持ちから来るものなのだろう。まだ来て間もない俺に対して、何かを求めるような視線を投げてよこすこともあった。  哀れみはあるものの、思いを傾けることはない。俺は友人でもなく、ましてや親でもないのだから。 「条件を飲んで頂けるのでしたら、従者になることはやぶさかではありません」 「条件……?」 「従者を辞める期日を私自身で決めさせていただきたいのです」 「辞める……」  深緑の瞳が一瞬揺らいだが、子供は頷いた。 「そうすれば、イェレは従者になってくれる?」 「はい」  子供は俺の返事を受けると、足早に部屋を出て行った。  その時、俺の心の中には、あいつの墓の傍で暮らせればいい、という願いがぼんやりと形を作り始めていた。一度奴隷に堕ちた身で故郷の土を踏めるかはわからないが、受け入れられなくとも暮らすのはあの森の中でもいいのだから。  ぼんやりと窓の外に見える緑を眺め、その未来へと思いを馳せた。

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