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踏みにじられた誓い

 何不自由なく暮らすことのできる給金が毎月支払われる。自国で考えれば従者に対する賃金としては常軌を逸している、といっても過言ではない金額だった。  しかし、奴隷に堕ち、財産も信頼も全てを失くした俺には何よりも必要なもの。夢も希望もない言い草だろうが、元の生活を取り戻すためにはそれが現実だった。だが、両者の利益が一致したのだから、一切の問題はない。  幼い主人の機嫌を取り、寄り添う姿勢を見せる。従者としては当然の振る舞いをした。  三年も働けば、国に戻り住居を構えることも可能になる。そして主人が成人を迎え、家を出る時がこの国から離れる絶好の機会となる。それまでの辛抱。  人間の好奇な視線に晒されることにもすぐに慣れた。余りにも毎日のように続けば鈍感になりたくもなる。  いくらでも金を出すと言ってくる貴族も多かったが、結局は俺というよりもαを欲しているのだ。手に入れることで自分の価値を高めようとする馬鹿馬鹿しい者ばかり。所有権を奪うために主人にまで手を出そうとした輩も両手では事足りないほどだった。  多少依存傾向があったとしても、今の主人は無害であり、待遇としては申し分ない。直接交渉してくる貴族に対し首を縦に振る気はさらさらなかった。    ただ、どこで間違えたのだろうか。  子供の瞳にちらりと浮かんだ翳り。それを幾度となく感じ、一定の距離を保ってきたはずだった。人間が獣人に対し慕情を抱く可能性などない。その前提が覆るなど誰が予想できようか。  しかし、幼い主人は種族を越え惹かれ合うことのない対象に想いを寄せた。それほどまでに愛情に飢えていたのだ。  それに気づいたのは、森の側にある土地を買い、そこに住む手筈を整えていた最中だった。 腕にしなだれかかり、仄かに色情を帯びた瞳で見上げてくる。ほんの数日前までは子供に見えていたというのに。獣人との体格の差が感覚を鈍らせていたのだろうか。  唯一近くにいる俺に対し、錯覚のようなものを抱いているのだろう。しかし、所詮は人間と獣人。相容れない関係。主人に一切気がないことを知らせるために接触を避け、義務的に対応した。あと一月もすれば、契約は満了する。それまで躱し続ければいい。    しかし最悪な時は訪れてしまった。  油断、というのだろうか。余りに縋るような視線を向けられ、寝入るまで側にいるぐらいなら、と頷いてしまった。この三年で多少なりとも主人に対し情を持ってしまったのだろう。  部屋に入った途端に鼻腔に貼り付くような甘い香りが嗅覚を刺す。おかしい。そう思いながらも、吸い込んだ瞬間から逃れることは叶わなかった。  全身が波打つような脈動に苛まれ、目の前が赤く染まる。芳しい香りを放つ目の前の獲物がとてつもなく肉欲を誘った。 「イェレ?」  不思議そうな声と共に、金色の髪が目の前で揺れた。  そこで俺の記憶は途切れた。  じわりじわりと朦朧としていた意識が鮮明となり、鉄のような匂いが鼻を突いた。 人肌を感じて視線を下ろせば、視界に入ったのは絶命しているかのように見える主人の姿。  髪は乱れ、顔は紙のように白い。その所為か、散らばる朱(あか)がいやに鮮やかに見えた。その中でも一番濃い色を呈していたのは首元。そこには痛々しいほどに深く抉られた跡が残っていた。  生きていると判断できたのは、血に濡れた服の裂け目から覗く薄い胸板が上下していたからだった。 「っ……」  その光景を理解できず、膝を付いたままずり下がれば、目を覆いたくなるほどの惨状が目の前にあった。 その時、俺は自分自身が主人を襲ったことを知ったのだった。  従者が主人を襲えば、どうなるかなど目に見えている。だが、仕事を依頼していた同胞に窮地を救われ、檻の中に戻ることは免れた。Ωの香りをさせるという違法な薬の存在も明らかになり、調停のような話し合いが満足に動けない主人の病室で行われた。 「僕は悪くない。僕はただ……ただ、イェレに言うことを聞いて欲しかっただけだ。あんなことになるなんて思ってもみなかった。全部あの薬を売ってきた商人が悪いんだ」  主人が罪から逃げる様に早口に言えば、仲裁人はその言葉に頷いてから俺に胡散臭い笑みを向けた。 「今回はお二人とも被害者ということで、この場を治めてもよろしいでしょうか。ここまで酷い怪我を負わせておきながら、まさか訴えるなどされませんよね?」  主人の不祥事を隠し、薬が使われたことを公にしたくないと言った様子だった。獣人にとって劇薬ともいえるものが人間の国で横行しているとなれば獣人が黙っていない。人間と国交を断って来た国も重い腰を上げるに違いない。  俺が頷けば、金貨の入った革袋が渡された。黙っていたとしても遅かれ早かれ同胞たちが薬の存在を広めるだろう。ただ、それは俺の知った事ではない。  嵌められた側だとしても、自分が与えた傷の深さは理解している。契約最後の日、すなわち主人が成人を迎える日に俺は屋敷へと足を運んだ。  別れを惜しむわけではない。短い期間ではあったが、快適な生活を送れた。そして奴隷から解放されたのも主人のおかげと言えばそうなのだ。最後に顔を見せる程度はしておかなければ道理に反する。 「ヨアン様、入ります」  見慣れた部屋の戸を開ければ、甘く柔らかい香りが鼻をくすぐる。その香りを不審に思い一歩後ずさった時、浅く忙しない呼吸音が耳に滑り込んできた。 「ヨアン様?」  掛け布の端から零れる金色の髪が幾度となく揺れる。容態が急変したのかと慌てて掛け布を捲れば、むせ返るような芳香が嗅覚を埋め尽くした。あの薬とは全く違う、心臓を鷲掴みにされるような香り。先日のように意識を持っていかれることはなかったが、そこにある光景に愕然とするしかなかった。  寝衣の中に手を差し込み、その手を一心不乱に動かす。まるで自慰でもしているかのような――いや、まさしく自慰をしている主人の姿があった。 「……は、あ……ぁ、」  下履きは濡れそぼり、敷物まで染みが広がっていた。 掛け布が退けられたことでやっと俺がいることに気付いた主人は朦朧とした瞳に俺を映す。 「……イェレ、……たす、け……」 荒く息を吐きながら俺に縋るように手を伸ばす主人をただ見下ろした。  俺は一度この状況に直面したことがある。あいつが初めて発情期を迎えた時だ。突如始まるため緩和剤の服用が遅れることが多く、本能に支配された体を抑えられなくなる。狂ったようにαを求め、それが満たされなければ自慰を繰り返すというΩの虚しい性(さが)。  獣人のバース性を弄ぶような行為を繰り返す主人を見て心が冷えていくのを感じた。 「また薬を飲まれたのですか」  冷たく言い放てば、驚いたように瞳を揺らした。そして力なく首を振る。 「では、これはどういう……」  そう主人を問いただそうとして、ふと違和感に気付いた。  なぜ、俺は平然としていられるのか。  あいつのフェロモンに当てられた時は正気ではいられなかったはずだ。家族に取り押さえられ、あいつを襲わずに済んだのだから。  発情しているように見える目の前の人間。当然のことだが人間に発情期などない。そしてこんな強い香りを発することもない。薬を使っているのなら、どうして俺はこの香りに狂わないのか。  生白い首元に目がいく。通常ならば命を失ってもおかしくないほどに深く抉れていたはずだ。三日で退院し、まだ十日も経っていないというのに完全に傷は塞がりわずかに痕を残すばかり。  まさか。  まさか、そんなはずはない。  これは人間なのだから。 「そういう力があった、ってことだな」  そう言ったのはΩの陽性反応が出た検査機を神妙な面持ちで眺める同胞だった。 突きつけられた現実。しかし、打ちひしがれている暇はなかった。  同胞には届かず、俺にしか分からない主人の香り。それが何を意味するかなど考えなくても分かる。俺は目の前の人間と番になったのだ。強制的に発情状態に追い込まれ、望まぬ性交、そして望まぬ番という関係に貶められた。  憤りを隠せなかった。感情が表に出たのはあいつを失った時以来だった。  怒りに任せ、発情で朦朧としている主人に口淫させる。番を持ったΩには発情緩和剤は効かない。番のαのみしか治められない。それを言い聞かせながら、自ら挿入し動くことを命じた。  俺の上で喘ぎ声をあげ、腰を振る主人が醜く見えた。人間を愛おしむ心は一欠片として持ち合わせていないのだから。  行為が終わり、激情が引いた後、残ったのは途方もない虚しさだった。

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