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Ωの犠牲心

 何事もなく過ぎていく日々。小屋からすこし歩を進めれば、あいつの墓がある。それだけで心は満たされた。 「イェレ」  薪割りに打ち込んでいると、ジョナが顔を見せた。その顔つきは大人らしいものになっていて、弟のように可愛がっていたジョナの成長を垣間見た気がした。 「どうした」 「話があるんだ。その……番のこと」 「番?」 「俺、Ωだったんだ。イェレがいない間に成人もした。だから、その……俺とさ、番になってよ」  自信なげに指を弄び、窺うように俺に視線を投げる。 「ジョナ……」 「イェレも戻ってきてから一年経ったし、ここには俺の運命の人はいないから……。イェレが良ければ、兄さんの代わりでもいい! だから……」  それは自然なことだった。運命が近くにいることなど稀で、通常は近くにいる者同士が番う。ヨアンがいなければ、ジョナのためにその道を選ぶことがあったかもしれない。 「すまない、ジョナ。番は作らない。リュカを失った時からそう決めていた」 「そんな……だって兄さんはもういないじゃないか!」 「だとしても、あいつ以外を選ぶことはできない」 「いつまでそうやって過去ばっかり見てるんだよ! イェレの馬鹿!」  ジョナは俺の制止も聞かず、街に降りて行った。  事実を告げることを避けるためだったが、ジョナに過去だと言われるとは思ってもみなかった。俺がいない間にリュカの死と向き合い、前に進んでいたのだろう。 「止まっているのは俺だけか……」  しかし、運命を失った過去から抜け出す術を俺は持ち合わせていなかった。  こちらに移ってから迎えた発情期は三回。初めて発情を治めた時のようにヨアンは自ら俺を受け入れ、吐精させるために狂ったように体を揺らす。人間の国で見た性奴隷と何ら変わらなかった。その姿への憐れみが強くなり、気が立つこともなくなっていった。  街に降りて友人と酒を交わせば、ジョナが発情期で部屋に籠っていると言う。ジョナはまだ番を作ろうとせず、友人も遠回しに番になるように俺に売り込んでくる。  その度に断るのだが、ふと半年以上ヨアンの寝室に足を踏み入れていないことに気付いた。いくら不規則とはいえ、間隔が開き過ぎているように感じた。  夕食を終えればすぐに席を立ち、寝室に籠る。格段に言葉を交わす回数が減っていることに違和感を抱き、俺はヨアンを見た。初めてヨアンという一人の人物に目を向けた瞬間だった。  二回りは小さい体。獣人とは違い、ひ弱なつくりをしている。外仕事をしないため、人間特有の生白い肌は焼けることはない。深い緑の瞳、そしてリュカを思わせる金の髪。  その時、かつて艶のあった髪が乾いた音を立てそうなほどにハリを失くしていることに気付いた。王都にいる時と比べて食事が偏っていることもあり、致し方ないことだと納得させていた。しかし、その後急激に聴覚が悪化を見せたのだ。声を掛けても反応しないことが多くなり、肩に手を置けば、驚き体を跳ねさせた。 「なに? 急に」 「いえ、夕食の準備ができましたので、声をお掛けしました」 「そう。わかった」  いつも通り変わらない様子だったが、明らかに耳の聞こえが悪くなっていた。すぐ傍で声をかけたというのに、ヨアンには届いていなかったのだ。  明らかな異常。体調については問題があるようには見えないが、それもどうか分からない。通常は昼食前に着くように屋敷へと向かっていたが、少し時間を早めれば、ヨアンはまだ床に入ったまま。俺の姿を見て慌てて飛び起き、服を整える始末。 「遅くまで本を読んでたんだ」  そう誤魔化すように言うと、ヨアンは俺の横を何事もなかったかのように通り過ぎる。ヨアン様、そう呼び留めようとして踏みとどまった。  なぜ俺は案じているのかと。ヨアンがいなければ、俺は人間と番になることはなかった。そう、こんな生活を送ることは……。  ――いや、俺は本当に不幸だろうか。ヨアンの世話をしてはいるが、夜は街に戻り友人たちと酒を交わす。そして俺の願い通り、リュカの墓の側で暮らせている。  俺は今、不幸なのだろうか。反対に満たされているのではないか。だからこそ、ヨアンに対しての怒りや憎しみは湧いてこない。一つ残らず昇華してしまったようだった。  そう思い至った瞬間、俺は足を止め来た道を引き返した。何か胸騒ぎが止まらなかった。  屋敷に入り、ヨアンの部屋まで駆け上がった。戸は開かれ、そこから室内の灯りが漏れている。部屋の中にはヨアンの姿はなく、ティーテーブルには水差しと丸薬の入った瓶が置かれたままになっていた。  薬の事は後でじっくり聞けばいい。まずはヨアンの無事を確認することを優先する。  廊下の奥に灯りが点いた部屋を見つけ、開け放たれた扉の中に視線を巡らせた。  探すまでもなくヨアンの背中を見つけ、胸を撫でおろした。 「ヨアン様」  声をかけてもやはりヨアンの耳には届かなかった。一歩一歩足音を立てて近づくと、不意にヨアンが振り向いた。  俺を目に入れて驚きつつも、何かを羽織の中に隠すのが見て取れた。 「何をしておられるのですか」 「別に、何もない。忘れ物でも? 僕はもう寝るからご自由に」  そう平然と言ってのけ、俺の横をいつものように通り過ぎた。  思い過ごしだったのだろうか。俺は不自然にならないように、ヨアンと入れ替わりでランドリールームに足を踏み入れた。特におかしなものは増えていない。減ってもいない。ヨアンが触っていた場所を確認してみるが、何ら変わった所はない。  先ほど感じた胸騒ぎを疑問に思いつつもあの薬を隠される前に、と一歩踏み出したところで、ドサッと何かが倒れる音が響いた。 「ヨアン様?」  廊下に出れば、月明りの中、床に臥せるヨアンの姿が目に飛び込んできた。駆け寄り抱き起せば、浅く呼吸を繰り返す。四肢は力なく投げ出され、額にはじっとりと汗が浮かんでいた。 「ヨアン!」  声を掛けるがピクリとも反応はない。  途方に暮れる暇はなかった。ヨアンを背負い、森を駆けた。肩口に当たる荒い呼吸だけがヨアンの生存を俺に知らせる。  街に着くころには夜も深くなり、診療所も戸を閉めていた。それを無理に開けさせ、ヨアンを診せる。俺が人間を連れてきたことに驚きを隠せないようだったが、ヨアンの様子を見て、医者は腕を捲った。  ヨアンの容態は夜明けに近づくにつれ次第に落ち着き、夜通しで看ていた医者も安堵のため息を吐いた。  その後、当然ヨアンの事を聞かれたが、ヨアンがΩであることに薄々は気付いていたようだ。そして、ヨアンが発情抑制剤を使っていたのではないかと俺に告げたのだった。  発情期が半年以上訪れなかったこととつじつまが合う。服用し続ける限り発情することはないが、その副作用はΩの命を脅かすもの。しかし、ヨアンがなぜその存在を知っていたのか、いつ手に入れたのか、見当もつかなかった。  獣人の街に人間であるヨアンがいることが知れれば揉め事になる可能性もある。医者に往診を頼み、俺は意識のないヨアンを抱えて屋敷へと戻った。ヨアンを寝台に横たえ呼吸があることを確認したのち、テーブルに置かれた薬瓶を握りしめた。  この薬を飲むほどに発情期が忌まわしかったのだろうか。俺が人間と体を繋げることを厭うように、ヨアンも嫌悪感を抱いていたということか。 「そうか、おまえも……」  番になることをお互い望んでいなかった。俺自身も気付いていなかった潜在的な力を知るはずもなく、ヨアンにとっても降って湧いた災難だったのだろう。  番となれば、Ωが死を迎えるまでその関係は解消されることはない。すなわちヨアンが死なない限り、番のままだということだ。バース性という不合理な遺産にどこまで振り回されればいいのか。しかし、どれだけ問うても答えが出ることはない。ただ、耐えることしかできないのだ。  虚しさに囚われていたところで、廊下に一枚の服が無造作に置かれていることに気付いた。そこはヨアンが倒れていた場所。服を手に取れば、それは俺の昼間着用しているシャツだった。  あの時すれ違ったヨアンは手に何も持っていなかったはずだ。ヨアンがランドリールームで羽織に隠したものはこれだったのだ。  だが、なぜこんなものを……。  その疑問は往診に訪れた医師によって即座に解かれた。 「この人間、余程おまえさんのことを好いておったんじゃな」  医者はまるで孫でも見るような眼差しをヨアンへと向けた。 「番になればそれは一層強いものになる。側におらん時はこうして番の香りがするものを身近に置きたがるのがΩなんじゃよ」  医者は俺とヨアンが番であることに勘付いていたようで、俺に淡々と聞かせた。 「ならば、抑制剤を飲んでいた理由は」 「いうなれば、種族の違いか。おまえさんはこの人間との交わりを嫌っておったんじゃろう? 抑制剤を飲めば、おまえさんに嫌な思いをさせずに済む。そんな当たりかの。番を持ったΩというものは健気なものだ。邪推せん方がいい」  ヨアンは本当にそんな思いで薬を服用していたのだろうか。  ヨアンに目を遣れば、少し良くなったといえ、顔に血の気は戻ってきてはいない。艶のなくなった髪に触れれば、医者が笑った。 「すでに怒りが引いているというのなら、少し向かい合ってやるといい」  すべて見透かされているようだった。  医者は俺の顔を見てひとしきり笑うと、また来ると言い残し屋敷を後にした。  二人になれば屋敷の中は静けさに包まれる。鳥の囀りが時折耳をくすぐる穏やかな空間。  薬の服用もその副作用も勘付かせないようにひた隠しにしてきたヨアン。今まで幸福だと感じていた生活はヨアンの苦しみの上に成り立っていたのだ。俺との関りを最小限に抑えることで俺に……。 「ヨアン」  俺は寝台に腰掛けた。そして、ヨアンの金色の髪を撫で梳いた。  王都で過ごした時のように――。

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