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番外編 愛するということ 前編

 人間には男女二つの性しかないが、獣人にはα、β、Ωという三つの性――バース性というものがある。そして、人間と獣人は相容れない関係であり、苦楽を分かつことはない。  ならば、人間のΩは何のために存在するのだろうか。  発情抑制剤の副作用で倒れた時から幾度か様子を見に来る鼠獣人の医者ウォグが、五十年以上前に一度だけ人間のΩに会ったことがあると僕に告げた。  イェレと似た力を持った獣人に無理矢理番にされたらしく、自分の中のΩ性を悲観しながら一生を終えたという。獣人にも受け入れられず、人間として生きていくことも困難であり、最終的には番の手にも余り孤立。人知れず命を絶ったと……。 その悲劇が起きないよう、ウォグはイェレと僕を守りたいと言ってくれた。僕に対し否定的な態度を取らない彼のような獣人はきっと他にはいないのだろう。 人間と番であることが街の人に知れれば、どうなるのだろうか。固定観念によりイェレが迫害される可能性もあるのだ。僕はそれを一番恐れていた。 「イェレは街で問題なく生活できているのか? その、復讐を……」  僕が言葉を濁しながらも問えば、ウォグは笑った。 「心配か? なに、イェレと運命であるリュカのことは街の皆が知っておった。同情こそすれイェレを排除しようというものはおらんよ」 「そう……良かった」  リュカ。イェレの運命の人はリュカというらしい。イェレの口からは一度も発せられたことのない名前だった。 「街には他にもΩはいる?」 「わずかばかりじゃが」 「そう」 「おぬしな、そうすべて自分の中に溜め込もうとするもんじゃない。心配せんでもイェレは誠実じゃ。他のΩに靡いたりはせんよ」 「それは……それは心配していない」 「ならば何が心配なのですか」  唐突に背後から聞こえたイェレの声に僕は慌てて振り返り、そしてすぐその真っ直ぐな眼差しから目を逸らした。 「何も……」 「ヨアン様」  イェレは僕の目の前に跪くと、目を細めて僕の金色の髪を撫でる。そうすれば、イェレの香りが鼻を擽った。その香りを嗅いでしまえば、惹きつけられるようにイェレの方を見るしかなくなるというのに。 話しを聞かれた気まずさを感じながらもイェレの瞳から目が離せなくなる。イェレの喉がグルと嬉しそうに鳴り、鼻先が頬から耳元までをたどる。そのくすぐったさに肩をすくめると、ウォグが笑い声を上げながら席を立った。 「邪魔者はお暇しようかの」 「また頼みます」  何とも言えない恥ずかしさを感じながら、僕はウォグと見送りに行ったイェレの背中を見つめた。 「発情期が近いようです」  しばらくして戻って来たイェレは僕にそう告げた。 「また……?」  あの薬の副作用であることは分かっている。半月もせずに発情期が訪れるのは元々不規則であったものを抑えつけた反動だと、ウォグに叱咤されたばかりだ。それともう一つ、人間の男性からΩ性への変移が思わしくないことも要因だった。 元々人間の男が子を成すこと自体おかしなことであり、体も子供を産むようには作られていない。ウォグの知る人間のΩも発情期が定まらず、十年に迫る月日の中でも身籠ることはなかったという。 しかし、僕にはその前例は願ってもいないことだった。  父が亡き母を縛り付けるために産ませた子供が僕。母が亡くなった時、すでに僕の役目は終わりを迎えていた。 母の胸に抱かれた記憶もなく、養育係も父の前でしか働かないような人間だった。父には金も物も欲しいと言えば与えられていたが、僕が一番求めていたものを与えてくれることはなかった。 子を成すことに何の意味があるのだろうか。僕には理解できなかった。しかしイェレもウォグも、歳を重ねれば産める可能性もあると、僕を励ました。まるで子を望んでいるかのような口ぶりで。 子を望まず、子も成せない人間のΩ。この存在に何の意味があるのだろうか。  予想通りその夜から発情期を迎え、僕はイェレと体を重ねた。なにも生み出さない、ただαの精を貪るだけの時間。僕を抱きしめる腕が優しくなるほど、罪悪感は増していくばかりだった。 「何が心配なのですか」  イェレの温かな腕の中で微睡んでいると、耳元で心地の良い低音が響いた。 「……心配?」 「昼間の話の続きです」  イェレは優しい。話せば、きっと僕を安心させようと心を砕いてくれるだろう。しかし、イェレの意志はどうなるのだろうか。 「ヨアン様、今思っておられることをどうぞ口に出してください。でなければ私もヨアン様の悩みを知ることはできないのです」 「イェレ……」  さあ、とイェレは僕を促した。 「……子供」 「子供?」 「イェレは……子供を望む?」  流石に予想していた問いではなかったようで、一度瞬きをすると困ったような笑みを浮かべた。 「それは自分でもよくわかりません。望んでいるかと聞かれれば、望んでいるかもしれません。が、子供とは望んでできるものではありませんし、種族の違いから子が成せるかもわからない。――ただ、授かることができたなら、私は望みます」 「僕が、いらないと言っても?」 「はい。もしヨアン様が身籠ることがあれば、産まれてきた子供をこの腕に抱いてみたいと思うでしょう」 「……そう」  番というのは人間でいう夫婦より繋がりが強い。人間とて夫婦になれば子孫繁栄に励むのだから、番ともなれば必ず通る道といっても過言ではないだろう。  すると、ふぅ、とイェレが短くため息を吐いた。呆れているのだろうか。 「ヨアン様、これだけは覚えていてください。一番大切なのは貴方と共に生きていくこと。Ω性や体のことで悩む必要はありません」 「僕と……生きる……」 「そうです。番というものは本来互いを補い共に高め合うもの。こうして共に過ごすことで少しでも貴方が満たされているのなら、私もまた満たされているのです」 「イェレも……?」 「はい。私もそれを感じ始めたのはつい先日からですが。番は何かを共有しているのかもしれません」 「共有、してる?」 「ええ。私がヨアン様を大切にしたいと思った時からヨアン様の苦しみや悲しみ、そして喜びをわずかですが感じるようになったのです」 「なら……イェレは僕の気持ちが分かるということ?」 「気持ちというよりも、滲み出ているものと言った方がいいかもしれませんが、少しは」 「それは……あまり嬉しくない……」  僕が居心地の悪さに目を逸らせば、イェレが喉を鳴らして笑った。 「私は嬉しく思います。ヨアン様は感情をあまり出そうとされませんから。お互いの感情に触れあえることは幸せなことです。そうは思いませんか?」 「僕は……」  どうなのだろうか。  イェレは少し首を傾げ、僕を優しく見下ろす。その青磁色の瞳は凪の湖面のように柔らかな光を湛えていた。それは僕の髪に触れた際に時折見せていた表情に近いもの。その眼差しは僕を素通りせず、まるで僕を愛しいとでも思っているかのように僕の目を捉えていた。それがじわりと僕の心を温める。 「僕は……ただ、イェレがいるだけで嬉しい。だから、よくわからない」 「ヨアン様……」  イェレの腕に力が入る。掻き抱くように僕を胸の中に閉じ込めた。 「なぜ貴方を知ろうとしなかったのか……自分でも理解できない」 「……そう思うのは番になった所為かもしれない。無理に思い込もうとしなくていい」 「確かに番になったことがきっかけかもしれません。ただ、今までのような接し方もしようと思えばできる。しかし、貴方を知ってしまった今、それはできないのです」  どうしてだろうか。  どうしてイェレは僕が喜ぶことばかりを言ってくれるのだろうか。  込み上げるものがあり、僕はイェレの胸に顔を埋めた。イェレはそんな僕の髪を撫で梳き、またグルと喉を鳴らした。  この喜びもきっとイェレに伝わっているのだ。どこか恥ずかしく、しかし心から満たされていくのを感じていた。  心の中に在るぽっかりと空いた穴がとろりとした甘いもので埋められていく。僕が欲しかったもの。これが愛されるということなのだろうか。  そっとイェレの逞しい背中に手を回すと、イェレは僕の髪に顔を埋め、「ヨアン」と小さく囁いた。  耳元をイェレの鼻先が擽れば、背筋を甘い痺れが駆け上がる。肩を甘噛みされ、首元に残る痕に舌が這うと、快感を知る僕の体はより深い快楽を求めるように打ち震えた。  いまだ濡れて柔らかい後孔が抵抗もなくイェレを受け入れ、奥へ奥へと導く。そこにあるのは衝動ではなく、緩やかに体を包み込む情愛。  その時初めて、僕は発情に囚われることなくイェレと繋がったのだった。  僕は手際よく庭仕事をこなすイェレの背中を眺めていた。初めてこの地を踏んだ時の鬱蒼と茂った様を思い出せないほどに今の庭は整えられている。外壁を覆っていた蔦は剥がされ、庭の片隅には小さな畑もある。  しかし、日に当たれば火傷したかのように赤くなるこのひ弱な肌の所為で、イェレの手伝いをすることは禁止されていた。 「イェレ」 「はい」 「僕も何かしたい」  イェレは手を止めて僕を振り返った。 「では、お茶を淹れて下さい。休憩にしましょう」 「うん」  身の回りのことを自分ですることは恥だと教えられてきたが、ここにはイェレ以外おらず、人の目を気にせずともいい。イェレに給金の受け取りを断られてから、僕は家事というものをするようになった。  見よう見まねで始めた僕をイェレは手を出さずにじっと見守ってくれていた。手にある無数の小さい切り傷と火傷の跡を痛々しそうに見られるのは面白くなかったが、懲りずに手当てをしてくれるイェレの目が優しくて、体が発情期の時のように熱くなることもあった。 イェレに良くできたと、美味しいと言われることが何より嬉しく、イェレが喜んでくれることが何より幸せだった。イェレとの距離が日に日に縮まっていく。それを肌で感じていた。 だから、僕は浮かれていたのだ。 自分の立場も忘れ、イェレと過ごせる日々に希望を抱いてしまった。このままイェレと共にいられるのだと。

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