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番外編 愛するということ 後編 

イェレはある日を境に忽然と屋敷に姿を現さなくなった。  初めは道中に何かあったのかと気が気ではなかった。それが数日続けば、また違う不安が頭を擡げ始める。  人間と獣人は相容れない存在。まさかイェレは僕に対して嫌気が差してしまったのだろうか。イェレを頼るばかりの僕に愛想が尽きてしまったのだろうか。  いや、違う。イェレは突然来なくなるような薄情な人物ではない。何か事情があり、こちらに来られないだけだ。  僕はうるさい胸騒ぎを抑え込んで、イェレが無事であることを祈った。片時もイェレを思い出さない時はなかった。森を越えて獣人国に入ることもできる。しかし、僕の不在の間にもしイェレが来てしまったら。そう思うと、行動には移せなかった。  イェレと最後に別れた時から十日が過ぎた頃、屋敷の門戸を叩く者がいた。  一年ほど前からイェレが屋敷に来ない日に代わりに来るようになった使用人、淡い黄色の毛並みをした豹獣人だった。近頃はイェレが毎日こちらに訪れるため、その姿を見るのは丸一ヶ月ぶりだった。それともう一人、初めて見るイェレほどの大きな体をした熊の獣人が使用人の後ろに控えていた。  イェレの事を聞くべきかどうか迷っていれば、使用人が見慣れた丸薬の入った瓶を僕に差し出す。 「タノンダ、モッテキタ」  イェレもウォグも流暢に人間の言葉を話せるため忘れそうになるが、片言でも話せるというのも珍しいことだ。  使用人は以前に調達を依頼しておいた薬を持って来たらしく、僕に代金を寄越すようにせっついた。あのまま服用していれば、瓶の底が露わになっていた頃だろう。 「もう必要なくなった。支払いだけはする。それは持って帰って売るなり好きにして欲しい」  そう伝えて金貨を入れた布袋を渡せば、その使用人は眉間にしわを寄せた。 「イラナイ? ナゼ?」 「イェレが飲まなくていいと言ったんだ。だから」 「――ウソダ!!」  鼓膜を裂くような怒声と共に金貨の入った袋を投げつけられる。今までも十分に嫌悪感を向けられていたが、より強い敵意へと変わった瞬間だった。  イェレと比べ一回り小さい体だが獣人には変わりなく、僕が力で適う相手ではない。今にも牙を剥きそうな張り詰めた空気に当てられ、僕は息を呑むしかなかった。  後ずさるも一瞬で間を詰められる。その圧力に足をもたつかせ後ろに倒れ込んだ僕に乗り上げ、威嚇するように唸った。  胸倉を掴み僕を床に押さえつける力の強さと鋭い眼差し。それはまさに獣。既視感のある恐怖にヒュッと喉が音を立てた。 「オマエ、ユルサナイ! ――! ――――!」  言葉は違えど、猛烈な怒りが皮膚を刺し、その勢いのままに手が振り上げられた。そして振り下ろされる。 「っ!」  爪が剥き出しになった手で殴られれば無事では済まない。僕は頭をかばうように腕で覆い、その衝撃に備えた。  しかし、一向に衝撃は来なかった。 「ジョナ、それは良くない」  豹獣人の手首を掴み留めていたのはもう一人の獣人だった。 「――、―――—!」  怒りを抑えられずに叫び続ける豹獣人を宥めながら、視線を僕に向けた。 「君はイェレが好きか?」  どう答えていいものか分からず、ただ一つ頷いた。 「なによりも好きか?」  質問の意図が見えなかったが、僕は迷いなく首を縦に振った。するとその熊獣人は柔和な笑みを浮かべた。 「なら話が早い。イェレが今大変なことになっているんだ」 「イェレが……? イェレは無事なのか!」  十日間も姿を見せなかったイェレ。やはり何かあったのかと熊獣人に詰め寄った。獣人に対する恐怖を忘れてしまうほどにイェレの身が心配だった。 「ああ、イェレ自身は大丈夫だ。ただイェレの立場がな」 「……立場……?」 「ああ……、君は聞いていなかったんだな。イェレは領主の大切な一人息子なんだ。その息子が人間に傾倒し、無理矢理番にされたと聞いて、ご両親が胸を痛めておられてな」 「そんな……」  一番僕が恐れていたこと。イェレの身分の高さは予想していたが、貴族であったというのも初耳で僕は狼狽えた。体から力が抜けていくようだった。熊獣人の服を掴んでいた手が剥がれ落ちる。 「跡継ぎの番が人間というのも、この領だけの問題であればそれでいいんだ。しかしな、イェレが襲位した際に国に知れればどうなるだろう? しかも、その番の人間が獣人を害するような薬を使ったと知れればイェレもこの領の立場もどうなるだろう?」  穏やかに紡がれる毒の言葉がじわりじわりと僕の首を絞め上げる。 「解決方法が一つある。番を解消すればいいんだ。――ただ、残念なことに解消する唯一の方法が『番のΩが死ぬこと』なんだ。どうだろう? 君は何よりも大切なイェレに幸せになってもらいたくはないか?」  獣人は柔和な笑みを顔に貼り付けつつ、受け取りを促すように呆然と見上げる僕の胸に薬瓶を押し付けた。 「一粒であれば発情抑制剤だが、少し多く飲めば違う効果が得られるかもしれない」  熊獣人は笑みを絶やさず僕を見据える。豹獣人は動けぬ僕に代わり薬瓶を奪い取ると、僕に握らせ、そっと僕の耳元で囁いた。 ――イェレノ、タメ、と。  僕が今までイェレのために何かしたことがあっただろうか。  奴隷として買い、我儘に付き合わせ、最後に騙し討ちのようにイェレに番という枷を付けた。イェレはそれでも僕を愛そうとしてくれている。  だというのに、僕はイェレの立場を危うくするだけ。  胸が引き攣れるように痛んだ。  結局僕はイェレの行く手に立ち塞がり、イェレの未来を閉ざしているのだ。そして、それは僕が生きる限り続くことになる。  Ωとしても役に立たず、足を引っ張るだけの邪魔者。人間のΩが望まれないのではない。僕自身が望まれない存在なのだ。 嗚咽が漏れた。  手の中にある薬をひとつかみ飲めばきっと致死量に達する。発情を止めるのではなく初めからこの薬を飲んでしまえばよかった。そうすればイェレを苦しめることもなかったのに。  薬瓶を傾ければ、瓶の縁まで詰められていた丸薬が雪崩を起こすように手のひらを埋めた。手が自分のものではないかのように震えだし、その震えが収まる気配はない。零れ落ちる薬を補うようにまた薬瓶を振り、薬を手のひらに落とす。  涙がいくつも頬を伝った。  一緒にいたい。一緒に過ごしたい。もっとイェレの事を知りたい。  でもイェレのためなら。唯一僕に愛を与えてくれた人のためなら。イェレの未来のためなら。  手のひらに盛った薬を無理矢理口の中へと押し込んだ。薬の苦みに吐き戻しそうになりながらも喉へ流し込む。 「……は、……はっ……ぁ」  極度の緊張から息が上がる。怖い。怖い。  心の臓が早鐘を打ち意識が朦朧とし始める。視界が虚ろになり、座っているのか寝転んでいるのか、それさえ把握できなくなった。  イェレ、イェレ……。  心の中でイェレの名を呼べば苦しさが紛れた。 「何を……!」  その時、悲痛な叫びが聞こえた。重い瞼を開けば、霞みがかる視界に美しい黒豹が映る。 どうして……? 「ヨアン、吐け!」  口の奥に何かが突き込まれ、体が反射を起こして何度も嘔吐いた。水を飲まされ、またそれを繰り返す。 「ヨアン、逝くな……」  イェレは僕を掻き抱いた。温かい腕の中。また涙が伝うのを感じた。 「逝くな」  イェレの声が震えていた。僕はイェレに笑って欲しいのに。ただ、それだけを願っているというのに、どうして。 「……ェ、レ……、し、あわ、せ……に」  イェレは首を振った。一層に腕の力が強くなる。 「こんな幸せなどいらない!」  イェレから痛いほどに流れ込んでくる嘆き。どうして。  僕が居なくなって、獣人と番になる。そして家を継ぐ。それがイェレの幸福であるはずなのに。 「俺の幸せは俺が決める……っ」 僕は……、僕は間違っていた? イェレの幸せはどこにあるの? 「だから、逝くな……」  イェレは僕に生きて欲しいと言ってくれているのだろうか。僕が側にいてもいいのだろうか。  イェレの頬に手を伸ばせば、すぐさまその手を包み込むように握り締めてくれる。その指の隙間を温かい雫が伝った。    ああ。  僕は勝手に決めつけていたのだ。  思いやりという虚像を押し付けて、イェレの想いを疑ってしまっていたのだ。  瞼が閉じる。重くて開けていられなかった。  もう遅いのだろうか。イェレをまた苦しませてしまうのだろうか。  ――お願いです。  神様、お願いです。  イェレが僕を必要だと言ってくれるなら、僕といることを幸せだと思ってくれるのなら、どうかイェレの番でいさせてください。イェレのΩでいさせてください。  どうか、  どうか――。  ずっとイェレが傍にいるのを感じていた。ずっとイェレが触れているのを感じていた。イェレがかけてくれるたくさんの言葉には変わらず愛が溢れていた。  だから僕は決めたのだ。  もしこの目が開いたなら、しっかりと想いを伝えようと。失うことが怖くて、死して逃げようとした僕を愛し続けてくれるこの人に。  今まで与えてもらうことばかり考え、与えようとしてこなかったもの――。  空がとても青かった。  窓から入って来る風に心地よさそうに目を細める横顔。  ゆっくりと振り返るとその青磁色に僕を納めた。  椅子を突き飛ばすように立ち上がったその人に僕は手を伸ばす。  その手はすぐさま捕えられ、大きな手に包まれた。  いつになく潤いを湛えたその瞳を見上げ、僕は言った。  「……イェ、レ……あい、し、てる……」 ――――――――― 「ヨアン」  少し急かせるような声が部屋の外から聞こえた。イェレはすでに出かける準備を終えたようだ。 「待って! もう少し」  庭から少し入ったところにある屋根のある温室。日差しに弱い僕のためにとイェレが建ててくれたものだ。  僕は一年ほど前から栽培を始めた花の茎にパチンと鋏を入れた。  あの日僕が目覚めた時、イェレはすでに領主の子息ではなくなっていた。故郷を捨てて僕の傍にいることを選んだ。  イェレと僕は獣人と人間の国との境界で世界から隔離された様な生活を送っている。この世との唯一の繋がりはウォグ。森をこっそりと抜けては僕たちに会いに来てくれているのだ。ちょっとしたお土産を持って。  森に囲まれた屋敷では何かと不自由なことが多かったが、僕が眠っている間にイェレが少し森を拓き作物を育て始めてくれていたため、質素な暮らしをすれば特に問題はなかった。  種族の違いに気を留めることなく、イェレだけを見つめていられる喜びに日々包まれていた。  イェレが木々の枝を鉈で落としつつ、僕の手を引く。足の遅い僕を気遣い、何度も足を止めながら。  今日は月に一度だけ獣人国に足を踏み入れる日。街では月一の蚤の市が開かれ、里には人が来ないため、街の近くまで行くことができる。  どうか幸せに、とイェレに手紙を残して行ったリュカに、ちゃんと想いを引き継いでいることを報告しにいくのだ。   リュカの大好きだった金嶺花を携えて――。

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