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第4話:からみつく後悔

 記憶もおぼろげな状態で朝をむかえた。身体にはまだアルコールがかなり残っているように感じる。頭痛や吐き気、倦怠感、そして激しい喉の渇き……僕はゆっくりと体を起こした。 「いっっ!!」  腰に激痛が走り、思わず声を漏らした。 「ん……おはよう、大丈夫か?」  目をこすりながら起き上がった石川さんは、なんと裸だった。そして、なんとなく肌の感触で察してはいたが、僕も裸だった。 「えっ、あれっ」 「すまん、優しくしてやりたかったが、余裕がなかった」  石川さんの言葉と、昨夜の夢と、腰の痛み……まさか! 「なんだ、覚えてないのか?」 「タクシーに乗ったところまでは覚えているんですけど……」  昨夜の夢は、夢じゃなかったのか? 「おまえから求めてきたくせに、後悔するのか?」 「え゛!? あのっ、ごめんなさい僕っ……」  僕は状況を理解した。  最低だ。夏目と重ねるなんて……石川さんに失礼すぎて、自分が許せない。僕は涙を堪えて、なんとか立ち上がろうとした。でも、腰が痛くてうまくベッドから降りられない。 「俺は後悔してない。小野、おまえが好きだ」  僕がもたもたしていると、後ろからそっと抱きしめられた。その腕があまりに優しくて、必死に堪えていた涙がぽろりと零れた。 「石川さ゛ん゛っ」 「棗って呼べよ、昨日はそう呼んでくれただろ」 「違うんですっ……」  涙が止まらない。 「違うって、なんだ」 「夏目っ、夏目桃李……」  黙っていることもできた。でも、罪悪感からその名前を口にした。罵倒される、嫌われるのは覚悟の上だった。  でも、返ってきたのは意外な言葉だった。 「……なぜ弟の名を知っている?」 「え?」  夏目が石川さんの弟? 「夏目桃李は10年前に死んだ、俺の弟だ」  初めて会った時、兄弟ではと疑ったけれど、まさか本当に兄弟だったなんて。そんな偶然、あるのだろうか。  そう考えているうちに、石川さんの腕が離れた。  恐る恐る振り返る。石川さんは眉間にしわを寄せて、苦しそうな目で僕を見ていた。いつも堂々として自信に満ち溢れている人なのに……今は、瞳の奥に絶望と悲しみが揺らめいていた。 「どういう関係だ?」  絞り出すような声に、胸が痛む。  石川さんは唇をぎゅっと結ぶと、額に手をあてて俯いた。 「恋人でした」 「俺は桃李と似ているか?」  僕が小さく頷くと、石川さんはただ一言、そうかと呟いた。 ***  傷つけてしまった。酔っていたは言い訳にならない。からみつく後悔が、日々僕を苦しめた。  石川さんとは働くビルが違う。改めてちゃんと謝りたいけれど、自分から連絡する勇気もなく、時間ばかりが過ぎていく。仕事で顔を合わせる予定も、向こうからの連絡もなかった。  きっともうダメだ、嫌われた。諦めるべきなのに、時間が経てば経つほどに、彼の優しい腕を思い出してしまう。僕は石川さんのことばかり考えていた。 「はぁぁ」  深いため息をつきながら、佐藤邸の見学会チラシを眺める。気づけば見学会を明日に控えていた。 「ん?」  何かが引っかかった。全ての情報に何度も目を通す。やがてその違和感の正体に気付いた。 「や、やばい!」  僕は慌てて広報課に電話をかけた。自分の名前を告げ、電話口に石川さんを頼む。保留音のエルガー『愛の挨拶』を、ソワソワしながら聴いていた。 「石川だ、どうした?」  久しぶりに聴く石川さんの声。僕は、胸が押し潰されたように苦しくなり、目頭が熱くなった。でも今は緊急事態だ、自分の気持ちに向き合っている場合じゃない。 「あ、あのっ、佐藤邸のチラシの件なんですがっ……僕言い忘れちゃってたことがあってっ……すみませんっ!」 「なんだ?」 「お子様同伴NGの表記が抜けてます」  佐藤さんは庭をとても大切にしている。そして家の中も床材がパインの無垢フローリングだから傷がつきやすい。佐藤さんの希望もあり、また、トラブルを避けるために、お子様同伴NGは必須条件だった。 「そんな注釈、初耳だぞ?」 「お渡しした資料には書いておきました」 「なかった」 「いえ、ありますよ、先月の2日のメール見てください」  言い忘れた時の保険として、打合せ内容をまとめたメモを添付していた。僕は苦し紛れにそれを指摘したのだ。 「……こんなの見落とすに決まってんだろ、ってか校正で問題ないって言ったのはお前だぞ」  石川さんの言う通りだ。僕は原稿をチェックしたのに気付けなかった。それに、そんなに大事な情報なら、口頭でもきちんと石川さんに伝えるべきだった。 「気付けなくて、すみませんでした。でも佐藤さんもチェックしたんですよね? なんで抜けちゃったんだろう……」 「素人が気付くわけないだろ、日付を間違えていたって気付けない人が多いんだ」  石川さんは、呆れたような声でそう言った。 「客をあてにするな、そこは小野がしっかり見なくちゃダメだろう」 「そう……ですよね、すみません……」  自分の罪を実感してきて、だんだん凹んできた。 「完成見学会、もう明日だろ? WEBは修正しておくが、紙で出した分はもう無理だ。上司に相談しろ」 「はい、そうします……すみません、よろしくお願いします」  そうだ、もうイベントは明日なのだ。間違いを後悔したり責めるのではなく、このミスをどう解決するかを考えなくちゃいけない。事前に来ることが分かっているお客様に電話をして、それでも子連れ客はゼロにならないだろうから――僕は、石川さんの言葉で前向きに考え始めた。  そして受話器を置こうとすると、石川さんは言った。 「明日、俺も現地に行ってやる」  それは、意外な申し出だった。

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