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第10話

 頬をひっぱたかれた反動で一都は床に転がった。鼻の奥が鉄臭いと感じた時には鼻血が垂れていた。  セックス関係なく、それも血が出るほど強く手を上げられたのは、これが初めてだった。  一都は鼻を押さえながら顔を伏せた。竜我の顔が見れない。 「っいい加減にしろ! いくらほしいんだっ」  ぶち切れた竜我が叫ぶ。  打たれた頬が痛い。  今朝、竜我が何の前触れもなく、帯が巻かれた万札を一都に向かって渡してきた。「契約延長だ」と。  それを一都は突っぱねた。  断られるとは思っていなかったらしい竜我は、最初は“おふざけ”の一環として受け取っていたが、一都が本気だとわかると激変した。  竜我との契約は、一年までの延長を視野にいれたひと月。その後に一都が最初に提示した通りに延長され、願った通りの期限になった。  だが、ここに来てまさか、さらに延長を言い出すとは思っていなかった。  そもそも、竜我には結婚の話が来ている。相手は組長の孫娘で、一都が逆立ちしても、この前のように女装しても敵わない相手。そして、その話を聞いて、改めて自分が誰と寝ているのかを気づかされた。  竜我はヤクザだ。  組長の孫娘との結婚、それはそう遠くないうちに相応の地位につくことを示している。そんな中で、一都の居場所なんて、そんなもの、あるはずがなかった。  元々、期待なんてしていなかったし、そんな話も聞いたから尚更、一年は丁度よかったように思う。  三百六十五日。一年の間、竜我と寝ることができる権利。それは一都にとって決して安くはなかったが、後悔のある買い物でもなかった。  十分だ。満足している。それに。  一都はうつむいたまま「僕の時間は売れない」と声を震わせた。 「百万でも、二百万でも……どれだけ出されても、もう、売れな」 「ふざけるなっ!」  竜我が怒鳴る。 「俺の一年を百万ぽっちで買っておきながら、偉そうに……」  百万、ぽっち。  確かに竜我から見たらその通りだろう。この豪邸のような部屋。竜我はヤクザの幹部で、一日どれだけの金を稼ぎ出しているかわからない。  稼ぐのにどれだけ苦労した金かなんて関係ない。百万は、百万。  だから、そう、だから。  一都は最初、竜我が一ヶ月と期間を大幅に値切った時、驚いた。というのも、あの時は断られると思っていたからだ。金貸しなんて、一分一秒の無駄もなく取り立てに時間を割き、金をむしりとる仕事、なのに……一ヶ月もこの人を買えるのかと小躍りしたくなった。 「僕は、一ヶ月でも、一日でもよかった。でも、一年以上は、いらない」  いらないというと、竜我は手元にあった棚を投げるように倒した。  反射的に肩を縮こまらせる。棚に収まっていたアダルトグッズが飛び出す。場に似合わない卑猥で、滑稽な下品さのあるおもちゃの群れ。  転がるそれを目で追っていると竜我が思いがけず静かに言った。 「出ていけ」 「え?」  一瞬、耳を疑う。  だが竜我は言葉を変えてもう一度言った。 「今日中に荷物をまとめろ」  血の気が引く。だが、すぐ頭の中で自分の諦めの声がした。  これでもう、十分だろう。上出来じゃないか、と。  黙っていると竜我は舌打ちして、寝室を出ていってしまう。はっとしてリビングまで追いかけて行くと、こっちをちらりとも見ないまま、いつもの書類バッグだけ持って竜我はマンションを出ていった。  残された一都は寝室に戻り、散らかったおもちゃを見つめる。長く細いため息をついた。 「……楽しかったな」

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