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第12話

 電話が鳴ると、母はアパートから出ていった。そして金を持って戻ってきた。何をしているのか、詳しくはわからなかったが、どういえばいいのかわからないが、そう、何となく察していた。  それが母の仕事で、一都を養うために彼女が必死でしたこと。  あの日は、一都の誕生日だった。  誕生日は特別な日で、母と二人で外に夕食を食べに行く約束だった。外食といっても、安い食堂に行くだけだが、それでも一年で一番の楽しみには違いなかった。  その幸せな道すがら、母の知り合いだと言う男にばったり出会った。  男は酒臭く、目が虚ろでどことなく異様な雰囲気を漂わせていた。相当酔っているようで、母に大声でしつこく何度も迫り、無理矢理腕を引っ張って路地へ連れ込もうとする。  金持ちほど、金払いが悪い。それを知ったのは大人になってからだ。  一都はその男が怖くて、母の背中に隠れることしかできなかった。母が懸命に断っても、男は強引だった。 「お願いです、こ、子どもの前です……止めてくださいっ、止めて、止めてください……お願いですから」 「なぁにが止めてぇだ、店から俺を追い出しておいて断れると思ってんのか? ん? どうなんだ? 何とか言ってみろよ!」  誰も、誰一人助けてくれなかった。行き交う人たちは面倒臭そうに見るばかりで。まるで、見世物になった気がした。  冷たい。酷い。こんなに困ってるのに。母さんがこんなに嫌がってるのに。  ちらりと見ては通りすぎる大人ばかりだったあの時、助けてくれたのは、ギラギラした目つきの痩せた男の子。  それが、竜我だった。  部屋から外に出られるような格好に着替えると、初日のスーツしかなかった。  何か思い出に持っていこうかと思ったが、気乗りしない。ここに私物なんてないし、強いていえばアダルトグッズだが、そんなもの持っていっても一人では使わない。結局、片付けをして身一つでマンションの部屋を出ることにした。  きれいに片付けた寝室。そこを出る前に深呼吸して、目を閉じた。竜我と過ごしたこの部屋のにおいを覚えておきたかった。  改めて思い出してみてもセックス三昧だったな、と自嘲する。それでも、大切な思い出には違いない。  生活感のないリビングを通り、玄関に向かう。一都はもう一度だけ振り向いて、部屋を見た。  もう、ここには戻れない。  楽しかった。十分。これで終わり。  頭の中でそう繰り返し、ドアノブを掴んで扉を押した。  だが、外側からほぼ同時に扉が引かれ、体勢を崩して外へ身を乗り出す。 「わっ」  転びそうになったところを誰かに支えられた。  驚いて顔を上げると、額に汗を滲ませた竜我が立っていた。 「りゅ……」 「いつだ」  両方の腕を痛いほど強く掴まれた。  何の話かわからず「え?」と問い返す。  竜我は今にも倒れそうなほど青い顔で一都を見つめ、唇を震わせて言った。 「いつ、死ぬんだ。お前」  そう、今にも死にそうな顔の竜我に問いかけられ、ああ、万治さんが話したのか、と察した。  万治にしたあんな話は作り話だと言おうか少し悩んだが、竜我は納得しなさそうだった。  言うつもりはなかった。万治にも口止めしていたはずなのに。こんなタイミングでばらされたら、誤魔化しようがない。 「たぶん、来夏まではもたない、かな……」  一呼吸置いて正直に答えると、竜我がすぐさま「治せ」と低く苛立ちに満ちた声で言った。 「金なら俺が出す。いくら出してもいい、どこの病院でも入れてやる。だから、移植でもなんでもして今すぐに治療してこい」  その必死さがおかしくて、つい笑ってしまった。あんな地を這うような低い声を出されたら、彼の部下なら「はいっ」と言うことを聞くのだろうが、一都は竜我の部下ではなかった。  思い通りにならないと、そういう声で、そういう物言いをすると知っている。 「無茶言わないでよ」  このことを万治に話したのは、痛み止をもらいに行くため、病院に行きたかったからだ。もう、体で病に犯されていない場所の方が少なくなっている。 「見つかったのが遅かったから、お医者さんもどうしようもないんだ」 「そんなことっ……」  あの竜我の、いつも自信に溢れるあの声が、頼りなく細く震え、目が泳ぐ。狼狽える様子が、幼い子どもを見ているようで心が痛む。 「っ……う、嘘だと言え。冗談に決まってる、こんな、馬鹿な話、あり得ないだろ……! こんな話、信じられるかっ」 「竜我さん」 「嘘だと言え!」  そう怒鳴ったかと思えば、死にそうな顔で「頼む」と、腕を掴む。竜我の手に思いの強さだけ力が込められる。それが、切なかった。 「くそっ、何で黙ってたんだ、どうしてっどうしてっ……!」  最初は、面倒がられると嫌だから言わなかった。でも、徐々に変わっていった。今日まで、一都が病気を打ち明けなかったのは、単純に、楽しい思い出だけあればいい、そう思っていたからだ。  泣いてもどうしようもない。そう思っているにも関わらず、目頭が熱くなる。  顔を伏せると、竜我に抱き締められた。  竜我の首元に顔を埋める。 「ごめん」  何に謝ったのかわからない。ただ、謝ると更に強く抱かれた。強く、痛いほど強く抱き締められた。

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