18 / 19
第18話G
痛い。痛い、痛い痛い痛い。
「ふっ、ぅぐ……ふ、ぅっ……」
冬樹は極力声を抑えたが、椅子に後ろ手に拘束され、爪が剥がされた指先からズクン、ズクンと痛みが肘まで突き上げてくるたび、嗚咽が漏れる。
痛みもそうだが、目隠しされていても目が痛くなるような悪臭が漂う豚舎の中。刺すようなにおいと、すぐ後ろの豚の鳴き声が不安を煽る。どうしてか、爪を剥がされた後の方が豚が興奮したような悲鳴を上げていた。
「ひっ」
手に豚の鼻息がかかり、痛むのも構わず拳を握って柵から少しでも距離を置く。
大声で助けを呼びたかったが、叫ぶと今やっといなくなった男たちが戻ってきてまた殴られるんじゃないかと怖かった。
アパートにいた冬樹を無理やり連れ出し、縛ってここまで連れてきた男たち。声だけでは何人いるか全く分からないが、少なくとも五人はいる。代わる代わる冬樹を殴り、蹴り、質問に答えないとペンチで爪を剥がし始めた。感じたことのない激痛とショックで何度気を失ったかわからない。だが、そのたびに殴られて起こされた。
左手の爪は全てはがされ、右手に差し掛かり小指の爪を捲られたところで電話がどうだこうだと言っていなくなった。
『澄はどこにいる?』
質問はそれだけだったが、冬樹は知らなかった。知っていたら、爪が剥がれる痛みに負けて話していたかもしれない。それが自分でわかるだけに情けなかった。だが、何で俺がこんな目に、と、得たいの知れない苛立ちもあった。
あいつらは誰なんだ。
何で澄を探してるんだ。
探すにしても、普通、人を拐ったりしないだろう。どうしてこんなやつらに澄が狙われているのか全く見当がつかなかった。
「ふっ……ふぅ、ぅ……ふ……っ」
声を殺して泣いていると足音が近づいてきた。
冬樹は反射的に叫んだ。
「しっ、知らない、知らない知らない! 本当に、しっ知らない!」
「黙ってろ」
口に何か噛まされた。後ろで豚が騒ぐ。手に豚の生暖かい息がかかる。
暴れると頬を叩かれた。
「殺されたくねえならじっとしてろ」
「ううっ」
目隠しの下で固く目を閉じた。歯がかけるほど食い縛る。
何をされるのかわからず、じっとしていたくても体がガタガタと震えた。痛くて情けなくて涙が出てくる。
「立て」
冬樹を椅子に縛りつけていた縄が解かれ、拘束はそのままだが立てるようになった。
男に胸ぐらを掴まれ、引っ張られる。
座っている間はわからなかったが歩き出すと右足に激痛が走った。
「うう……っ」
足を庇って男に引っ張られるまま付いていくと、豚の声が遠くなり少し安心したが、また車に押し込まれて誰にも見つからないようなところに連れていかれるんじゃないかと怖くなる。とはいえ、今ここで暴れて殺されるのも嫌だった。
泣きながら歩いていくと、急に男が立ち止まり目隠しがとられた。
夜……なのだろう、辺りは暗い。どこからか明かりが漏れていて何となく視界が確保できていた。豚舎の外に連れ出されたらしく、倉庫らしき建物の前にいた。夜風が冷たく、敷地を囲む林を揺らしている。どこからともなく、雨の生臭いにおいがした。
「この倉庫に入ってろ。下手に逃げるなよ」
噛まされていた布を取られた。
男は眠たげな顔立ちの背の高い男だった。三十路くらいだろうか。
「え……? な、何ですか」
「何があっても出るな。邪魔になる」
「ど、どうして、どういうことですか。あ、あなたは味方……?」
問いかけた時「オイっ! 平野! どこだ!」と怒鳴り声が聞こえ冬樹は悲鳴を上げそうになった。
「行かねえと。これ持ってろ。倉庫から出るなよ」
「あっ……」
平野、と言うのだろう。男はあの眠たげな様子からは想像できない大声を出し、慌てたように叫んだ。
「坊のイロが逃げた! 林だ! 林を洗えっ!」
冬樹は平野が落としていったものを比較的軽傷な右手で拾い上げ、そのずっしりした重さに血の気が引く。
暗くて見えなかったが、今、手の中にあるのは間違いなく本物の銃だった。
その時、パンッと破裂音が聞こえた。
「うわっ」
銃を落とし、反射的にしゃがむ。
何か騒ぎ声が聞こえ、まさか、嘘がばれて平野が死んだのではないかとぞっとする。
慌てて銃を掴んだ。左手に力が入らず、中々握れない。右手だけでは重くて撃てそうもない。撃つなら左手で支えなければならない。
「っ泣くな……泣くな……」
小声で自分に言い聞かせた。
深呼吸して倉庫の中ではなく物陰に隠れた。
自分の心臓の音が煩くて回りの音がよく聞こえない。
力を入れれば入れただけ手が血だらけになって銃が滑る。
「はあー、はあー」
目を閉じて深く息をする。
一度、銃を置き、冬樹は上のシャツを脱いだ。汗まみれのシャツを倉庫に立てかけてあった斧で引き裂き、それをグリップと左手に巻いた。
声を堪えてずきずき痛む左手に巻き終えると、心なしか痛みがましになった。
右手で銃を握り、左手で支えた。
誰かが探しに来る気配もない。
不意にエンジン音がした。林越しに見えるライトが車と違う。誰かが養豚場への道をバイクで走ってくる。
何か怒鳴り声がしたが、はっきりは聞き取れなかった。
バイクのエンジンが豚舎の方、冬樹がいる母屋に近い倉庫からは百メートル以上ある場所で止まった。
ここから逃げるには車がいる。もしくは、バイク。
車は運転したことがないが、バイクなら免許もある。バイクまでたどり着ければ逃げられる。カギさえあればの話だが……。
カギがなかったら。自分なら間違いなくカギを抜くが、こんな人気のない場所で、盗まれる可能性がなければ、抜かないのではだろうか。
ここにいたら死ぬだけだ。さっきの平野という男が戻ってくる保証はないし、あの男が冬樹を殺さないという保証もない。
冬樹は辺りを警戒しながら豚舎の裏へ向かった。はぁはぁと息をつく。走ったわけでもないのに胸が苦しく、足が痛くてうまく動かない。自然と出てくる涙を何度も拭いた。豚舎の入り口がある方は見たところ、片付けられていて隠れる場所が数なかったからだ。
だが、そこで失敗したことに気づく。
「澄坊っちゃんは万治と一緒か」
存外、声が近くで聞こえ、冬樹は足を止めた。心臓が爆発しそうなほど激しく動く。
物陰から乗り出して見てみると豚舎の陰に人がいた。
「万治も使えねえ男だ。組を抜けたとはいえ、自分の親分置いてガキとかくれんぼとはな」
万治。最初わからなかったが、澄の知り合いのキャンプ場オーナーだと思い出した。その人が今、澄とどこかに隠れている。
それはつまり、澄はまた無事でいるということだろう。
少しだけ不安の刺が抜ける。
男が話を続けた。
「まあ、構わねえ。てめぇを埋めちまえばどうにでもなる」
男は誰かに向かって話しているようだった。
「あの頭のおかしい妹も殺してやるよ。今頃、屋敷に部下が向かってる。穴さえありゃあ何でもいい奴らだ、殺す前にあんなブスでも大喜びで突っ込むぞ」
笑いを含んだその声には覚えがあった。
冬樹の爪をさも楽しそうに剥がした男だ。ぞっとして、また心臓が早鐘を打つ。
だが、次に聞こえた声の平静さに冬樹の心臓もつられるように大人しくなった。
「妹、妹か?」
低い響く声だった。
「俺に妹はいねえなあ」
余裕を感じさせる話し方が相手の男の苛立ちに油を注いでいる。
「馬鹿言えよ……屋敷にいるだろ、不細工な面のやつがな!」
「由紀のことか」
「由紀、由紀だと? お嬢は死んだ。澄坊っちゃんを産んでな! ふざけたこと抜かしてンじゃねえ」
冬樹だったら縮こまるようなドスの効いた声で男ががなる。
だが、相手はなにも言わず、そして沈黙の後、吹き出すような笑い声がデカデカと響いた。
「なに笑ってやがるっ、気でもおかしくなったか竜よお」
竜、と呼ばれた相手の男はまだ笑いながら「まさか」と言って、軽く噎せた。
「はあ、空気が冷たいな。それにしても、笑わせてもらったぞ水城」
「……ああ?」
水城というらしいドスを効かせていた男が若干、狼狽えたのが声からわかった。
そして、澄の母親、由紀というらしいが……冬樹も、澄から死んだと聞かされていた。それがどうやら違うらしい。
水城が「あ、あり得ねえだろ」と叫んだ。
冬樹には何がなんだと言うのかさっぱりだった。
「あ、あれがお嬢だってのか? お嬢はあんな顔じゃ」
「美人だったな、確かに。鈴蘭みてえだとあの堅物隆治が褒めちぎるだけある。だが、まあ、骨が折れちまえば、顔も歪む。治療しなけりゃ、なおさら」
水城が「き、聞いたことがあったな」と声を震わせた。
「てめえは、女殴らねえと興奮できねえ悪癖の鬼だって……。自分の妹分にまで手え上げるとはな。性格までねじ曲げやがって。澄坊っちゃんもとんだ血の持ち主だ」
竜という男の性癖にもぞっとするが、水城の口ぶりだと、そんなぞっとする男が澄の父親ということになる。
まさか、と一人うろたえる。今まで、散々、頭のなかで否定してきたが、澄がヤクザの息子かもしれないなんて考えたくなかった。それも、坊っちゃんと言うことは、それなりに高い地位に思える。
竜は、妻の由紀を殴って澄を宿させた。
だが、それで顔の形が変わってしまったからと言って、由紀本人だとわからないなんてことあるだろうか。わからないほど、顔を歪ませた、なんて。
「澄はーー」
竜が何か言った。よく聞こえない。
「ンなことより、屋敷に向かわせた部下止めなくていいのか? 俺が死のうが、澄がどうなろうと、隆治の娘ぶち犯して首謀者が無事でいられるほど、兼平は甘くねえだろ」
水城が「そんなはったり」と笑ったが、声が明らかに動揺している。
「そもそも、変だろ……お嬢が生きてるなんて。葬儀だって出した。あの女がお嬢のはずねえ……!」
「これくらいの偽装、コネがありゃ簡単にできることぐらいお前もよくわかってるだろ」
「だ、だから、そんなこと、できたとしてもやる意味ねえだろって言ってんだよ! なんだってそんな……」
「仕返しだ」
竜はそれだけ言うと、右手を上げた。
何かの合図だと冬樹でさえ理解できた。水城が「待て!」と叫ぶ。だが、次の瞬間には風船が割れたような音がして、水城は胸を押さえて地面に倒れた。撃たれたらしい。
竜は倒れた水城の近くでしゃがみこむ。そして何か囁いたようだった。
しばらくして竜はその場を離れ、バイクで去ってしまった。
取り残された冬樹はその後すぐにやってきた警察に保護された。これだけの事件が起きたのに、病院に送られただけで事情聴取などはなく、事件については黙っているよう口止めされた。
こんなの、ドラマでさえ見たことがない。
澄の親はヤクザで、しかも組長とかそういう立場。息子の澄は次期組長でもおかしくないわけだ。
あり得ない。澄は口は悪いがしっかりした優等生で、整った優しい顔をしている。近くで見ると左右の目の二重の幅が違っているところも魅力だった。
半年もの間、必死になって口説いた。それくらい本気で好きだった。
ヤクザの息子だなんて今でも信じられない。ちゃんと、言ってほしかった。言ってくれたら……。
気づけば病院の個室にいた。救急車の中でいつの間にか気絶していたらしい。両手は包帯でぐるぐる巻きで、動くと体のあちこちが痛かった。
「いて、て……え?」
冬樹が横になるベッドの脇で、椅子に座りベッドに突っ伏すように眠る男がいた。
澄だ。泣いたのか目元が異様に腫れている。それでも、他に怪我はなさそうだった。
「無事だったのか」
冬樹が呟くと、澄がもぞっと動き、目を覚ました。
ともだちにシェアしよう!