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【41】遠くを見るような瞳
男曰く、最上階でイベントをしているのでそこに錦を連れて行きたかったようだ。
最上階の広場に着けば『夏休み特別展示会~親子水族館~』というイーゼルスタンドが会場の入り口に立てられている。
海の生物を100種類300匹ほど展示してあり、ペンギンや熱帯魚に餌をやったりヒトデや海亀に実際に触れる事が出来る体験型水族館だ。
男は入場料を支払い、錦の手を握ったまま先へ進む。
カップルに親子と入場者は多い。
横幅2メートル弱の狭い通路を挟んで大小数多くの水槽が大量に並べられている。
イソギンチャクの側を泳ぐ鮮やかな色をした海水魚。
宝石の様な小さな珊瑚。
立ち止まり水槽をゆっくり見る事が出来ない事が残念だ。
人に背を押されながら流されるように前へ進む。
見ると言うより水槽を横目に通り過ぎると言った方が正しい。
緩やかな円を描く通路を半周ほどすると、会場の中心広場へと客は吐き出される。
ようやく窮屈な場所から解放され、見物客は各自壁側に並べられている水槽を順番に見はじめる。錦も他の客に習い壁へと向かおうとしたが、男は錦の手を掴んだまま中央に設置してある大型の円柱水槽の前へ行く。
「見て、錦君クラゲの展示だ。」
淡いブルーの照明の中で半透明の丸い体が揺らめいている。
体を収縮させながら、気泡の混じる海水内を浮遊する優雅な姿は鮮やかな海水魚やイソギンチャクとは違った美しさだ。
男も水槽を静かな瞳で見上げていた。
「クラゲがこんなに綺麗な生き物とは知らなかった。」
「体の90パーセント以上が水で出来ているんだって。面白いよね。」
広げた傘は風に揺れるレースのように繊細で柔らかそうだ。
「死んだら溶けていくんだって。」
男が静かな声で話す。
形が残らず誰にも記憶されず透明な水に漂うなんて。何だか可哀想だ。
「人の記憶と似てるよね。」
見上げた男はここではない何処か遠くを見るような瞳をしていた。
錦が口を開きかけた時、甲高い女の声が背後に響く。クラゲの水槽を見に来たようだ。思い切って男の手を引くと、男の瞳は何時もの色彩を取り戻し笑みを描く。
一通り会場内の水槽を眺めて、出口へと向かった。
展示時間の制限が関係し残念ながら、餌やりができるはずのペンギンは見当たらない。
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