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【62】海輝
「朝比奈家は何というか、でかすぎやしない?管理が大変そうだ。」
「否定はしない。無駄にでかいな。」
男はガレージに駐車して、驚いたことに錦と共に車から降り荷物片手に 「暑いなぁ。錦君冷たいお茶飲ませて」と呑気な事を言い堂々と門戸をくぐる。
「っ!?おい…っ」
何を考えているんだと慌てた錦を置いて、数寄屋門から曲線状におかれた石畳の上を玄関に向かい真っ直ぐに進んでいく。
「待て、お前は何を考えているんだ。」
男に追いつき腕を掴むと常緑樹の低木と竹垣の向こう――縁側から「錦なの?」と声を掛けられる。鈴を転がすような透明度の高い声に思わず男の腕にしがみつく。
緊張感で眩暈さえしてきた。
「錦?」
雪輪文の散る淡い菫色の着物を着た女が白い百合の切り花を手に、竹垣から姿を現した。
処女雪を思わせる白い肌に、濡れた様な艶を放つ黒髪。
長い睫に縁どられた瞳。
頬はほんのりと淡い桜色をし、彼女の容姿を一層可憐に見せた。
朝比奈 千春。錦の母親だ。
「お、お母さま…」
喉の奥が張り付き縋る様に男を見る。
何て事だ。
よりによって母親と鉢合わせになるとは。
「お帰りなさい」
言い訳を考える錦に対し、男は「お迎えいただき有難うございます」と呑気に礼を言う。
「しかし今日も暑いですねぇ。」
驚いて、錦は男を見上げる。
何普通に話してるんだこいつ。
狼狽えた錦に母が首を傾げ不思議そうな表情を浮かべる。
「どうしたの?貴方たち。そんな所に立っていないで早く部屋に入りなさい。」
桃を頂いたのよ。母の言葉に男が笑う。
「本当ですか?お邪魔します。錦君、早く。」
二人は和やかに話しながら玄関の引き戸を開けた。
どういう事だ。顔見知りなのか。
母とこの男はどういう関係なのだ。
これは、どういう状況だ。母が男に対して困ったかのような笑みを見せる。
「あら、「お邪魔します」じゃなくて「ただいま」でしょう?ここは貴方の家でもある のだから。」
貴方の家でもある ?
何の話だ。
目を見開き、男の背を見上げる。
母は花を生ける為に二人を置いて家の中へと入っていった。
男と錦は玄関先で対峙する。
「海輝 。」
「は?」
「聞いたことない?海が輝くって書いて海輝。」
海輝 。
それが、男の名前だと理解したとき心臓を貫かれるような衝撃を感じた。
何一つ教えてくれなかった男の真実を舌の上で転がし味わう様に繰り返す。
その姿に、男は――海輝は涼やかに笑う。
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