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act.10 ”Time for relaxation”

 辰巳とフレデリックが案内されたのは、ホテルのメインに当たる建物の二階。景色が一望できるテラス席だった。  広いテラスデッキに長方形のテーブルはひとつしかない。そこには、既にアドルフとクリストファーが並んで腰かけていた。今日は、大男もその代理もいないようだ。  フレデリックの少し後ろに立つ辰巳の顔を見て、アドルフが苦笑を漏らす。 『どうやら、息子に酒を飲ませたようだ』  その言葉に、辰巳は絶句した。アドルフの隣でクリストファーが笑いを噛み殺している。それが、辰巳にすべてを伝えていた。 「おいフレッド」 「うん?」  フレデリックが愉し気な顔で振り返る。その瞬間、辰巳は躰を半分回転させて回し蹴りを放った。引っ叩くだけでは物足りない。案の定脚が空を切って、辰巳は舌打ちを響かせた。  あっさりと上体を沈ませただけで辰巳の脚を躱したフレデリックが不満に満ちた声をあげる。その様子に、クリストファーが堪えきれずに声をあげて笑った。 「急にそんな事をしたら危ないじゃないか辰巳…」 「てめぇはいったいどれだけ俺に隠し事をしてやがる?」 「うーん…。もうない…かな」  悪びれもせずにそう言って、フレデリックは朗らかに笑った。思い切り顔を顰める辰巳の腰に腕を回し、テーブルへと誘う。大きな溜め息と共に歩き出した辰巳に微笑んで、フレデリックは椅子を引いた。  ようやく落ち着いたところで、クリストファーが未だ治まらない笑いを噛み殺しながら口を開く。 『まあそう怒ってやるなよ辰巳。フレッドの口から言えない事もあるって事だ』  クリストファーの言葉には、辰巳は納得するしかなかった。自分の素性すらそう簡単に明かす事のない人間である。他人の事となれば自由になどできる筈がない。  顔合わせにアドルフが来なければ、辰巳はたぶんフレデリックがボスの息子である事さえ知らないままだっただろう。と、そうクリストファーは言った。  辰巳は、そこにきてようやくフレデリックの住んでいる世界の一端を見た気がした。 「なるほど。俺が悪かった」 「本当に…キミは素直で可愛いね、辰巳。謝るのは僕の方だよ。ごめんね」 「ったく、可愛いは余計なんだよこのタコ」  渋い顔をする辰巳に微笑んで、フレデリックはアドルフを見た。 『話すのは、日本語で構いませんね? 父上。辰巳は英語を理解する。貴方も、日本語を理解できる』 『それで構わない』 「だ、そうだよ辰巳」 「それは有り難ぇな。聞くのはいいとしても、喋るのは得意じゃねぇんだ」  ガシガシと頭を掻きならが辰巳が言えば、クリストファーは意外そうな顔をした。英語で話すのは面倒だと言うくせに、文句も言わない辰巳が不思議だったからだ。理解できるなら最初からそうしろと悪態のひとつでも吐くのではなかろうかと思っていたクリストファーである。だが、どうやらその予想は外れたようだった。  アドルフが、静かに口を開く。その顔にもまた、クリストファーと似たような表情が浮かんでいた。 『キミは、随分と変わった男のようだ。辰巳一意』 「あー…そうか? まあ、普通なんてもんがどうだか知らねぇし、変わってんのかもな」  急に何だと思いながらもあっさりと辰巳はそう言って、ワイングラスを軽く持ち上げてから口をつけた。傷に染みる。  食事会は、概ね穏やかに進んだ。英語と日本語が入り混じっているとはいえ、意思の疎通に何ら困る事もない。  フレデリックとクリストファーは、幼い頃にアドルフに引き取られ、育てられたのだという。アドルフには、血の繋がった子供はいないらしい。  教育環境は些か特殊だったと言ってクリストファーは笑った。どう特殊だったのかは、クリストファーとフレデリックを見ていれば想像がつく。 『母上は、お元気ですか?』 『もちろんだ。たまには顔を見せにくればいい』 『辰巳を連れて行っても倒れないかな? 父上と違って、母上は繊細だからね』  フレデリックが言うと、アドルフは困ったような顔をしてどうだろうな…と微笑んだ。さすがに息子が男を連れてくるなどとは思いもしないだろう。それは、アドルフも同じ事だった。というより、フレデリックの場合は恋人や友人を連れてくると思っていなかったアドルフである。 『報告を受けた時には、正直驚いた』 『それは俺も同感だ』 「そんなにフレッドが誰かと居るのは珍しいのかよ?」  辰巳にとって、フレデリックは人当たりの良い人間にしか見えない。クルーにも好かれているし、アドルフとクリストファーが言う程には思えないのである。  そう辰巳が言えば、むしろフレデリック本人が困ったような顔をした。 「辰巳だって、友人はいないって言っていただろう? 同じようなものだよ」 「あー…そういやそうか」  そういえば匡成も驚いていたな…と、ふと思い出す。なんだかんだと十一年もフレデリックといるために、辰巳はすっかり忘れていた。ついでに匡成は元気だろうかなどと思いつつ、辰巳はふとアドルフを見つめた。 「なあアドルフ」 『なにかね』 「アンタはボスなんだろう? 跡目を譲るとか、そういう事やっぱ考えてんのか?」  辰巳の言葉にアドルフの目がすっと細められた。言葉の真意をはかるようなその視線に、辰巳は気付く。 「あー…なんつぅか、家ん中の事まで口を出すつもりで言ったんじゃねぇんだ。俺は、俺の事を考えてる」 『…なるほど。私は、妻が子を成せないと知った時に息子たちを引き取る事にした。それは、私の務めだからだ』 「そっか。まあ、そうだよな…。悪ぃな、変なこと聞いてよ」  辰巳はガシガシと頭を掻きながらそう言ってワインを飲んだ。未だ治りきっていない傷に染みて顔を顰めれば、クリストファーが笑う。 『良い薬だろう? 辰巳』 「あぁん? 酒癖が悪ぃにも程があんだろ」 『興味本位に他人の嫌がる事をするからそうなる』 「あぁあぁそうだな。今回ばかりは何も言えねぇよ」  ちらりと横を見れば、フレデリックが何食わぬ顔で微笑んでいる。いくら辰巳が悪いとはいえ、あの時のフレデリックは本当に恐ろしかった。よくよく考えれば辰巳からは見えない場所にクリストファーは投げ出されていたというのに、場の空気に飲まれた辰巳は完全に騙されたのだ。 「お前ら兄弟そろって質が悪ぃんだよ…ったく」 『くくっ、俺のために涙を流させて悪かったな』 「辰巳は優しいからね」 「あんな簡単にぶっ放すんじゃねぇよ。おっかねぇだろうが」  そもそも辰巳は銃などとはあまり縁がない。国の違いだろうが、ああも簡単に乱射されてしまうとさすがに恐ろしいものを感じてしまうのである。  例えフレデリックが、絶対に自分を撃たないと分かっていても。 「お前らにとっちゃ玩具みてぇなモンなのかも知れねぇがな、俺にはそうじゃねぇんだよ。もう少し自重してくれや…」 『そう言う割に、お前だって平気で撃つだろう』 「そりゃあてめぇが殺されるくらいなら撃つだろぅが」  辰巳の判断基準は、自分か、フレデリックの身に危険が及ぶかどうかである。それを言えば、クリストファーが肩を竦めてみせた。  正直な話、いざという時にしか撃たない人間と、そうでない人間の差は大きい。ほんの僅かな躊躇や動きが明暗を分ける可能性もあるのだ。 『お前、フレッドとやってくつもりならもう少し腕を磨いておけよ。俺はお前が死ぬところなんて見たくないからな』 「そうは言っても、俺ぁただのヤクザなんだよクリス。マフィアになる訳じゃねぇ」 『クリス。キミの心配は分かるけれど、僕は辰巳にそんな事を望んでいない。それに、僕たちが思う程辰巳は甘い訳じゃないんだよ?』 『まあ確かに、どうにかなりそうな気分になる男ではあるがな…』  クリストファーの言葉に、フレデリックはにこりと微笑んだ。そもそもフレデリックは、いざという時は自分が守ればいいと思っている。 『辰巳は、僕が選んだ男だよ。それだけでいいじゃないか』  フレデリックの言葉がすべてを語っていた。誰に何を言われようとも、フレデリックは辰巳を手放す気などない。辰巳もそれは同じだった。  だいたいフランスまでやって来たのも一応の報告のためであって、辰巳もフレデリックも誰かに認めてもらおうなどという気はさらさらないのである。  辰巳もフレデリックも、他人の意見など知った事ではない。  テーブルの上に置かれた辰巳の左手に、フレデリックの右手が重なる。クリストファーが小さく口笛を吹いて、アドルフはその腕に揃いの時計を見て小さく笑った。  フレデリックを横目で見遣った辰巳が小さく肩を竦める。呆れたような顔をしながらも、辰巳はフレデリックの手を退かそうとはしなかった。それどころか、恥ずかしげもなく上下を入れ替えた武骨な指先で長い指を辿ってみせる。 『おい辰巳。あまり見せつけてくれるなよ』 「ああ? まあ、たまには嫁を喜ばせんのも旦那の仕事なんじゃねぇか?」 『くはっ、そりゃあいい。フレッドの赤い顔なんてそうそう見れるものじゃない』  身内しかいないこの場で、何を恥ずかしがる事があろうかという顔つきの辰巳である。 「本当に…キミって男は僕を驚かせるのが上手い…」 「お前は本当に可愛いよ」 「ッ……駄目だ…分が悪すぎる…」  左手を額に遣って俯くフレデリックに、辰巳が豪快に笑う。幸せそうなその姿を、アドルフが静かに見つめていた。 『寂しそうな顔だな、親父?』  クリストファーの小さな問いかけに、アドルフは微笑むだけで何も答えはしなかった。  息子を今までのように扱っていいものかどうか迷うのは、親心だろうか。フレデリックの言う通り、今までただの道具としてしか二人の息子を見ていなかったアドルフにとって、心の揺らぎは大きかった。  辰巳に”務めだ”と言ったアドルフの言葉は事実だが、こうして目の前で幸せそうにしている息子を見ていると、それだけではないような気がしてしまう。年でもとったかな…と、そうアドルフは内心で苦笑を漏らした。 『そういえば辰巳。お前、こっち来てから観光とかしてるのか?』 「まったくしてねぇな。つぅか、別に観光で来てる訳じゃねぇしよ」 『辰巳は、旅行が嫌いなんだよ』 『はあ? ついでなんだからその辺見て回ろうとかないのかお前らは』  辰巳とフレデリックが口を揃えて『ない』と言い切れば、クリストファーは呆れたような顔をするしかない。 「でも辰巳。よければ一度母上のところに顔を見せに、一緒に来てくれないかい?」 「そうだな」  俺が行っても大丈夫なのかと問いかける辰巳に応えたのは、アドルフだった。 『私が話をしておこう。お前たちは気にせず顔を見せてやればいい』 『ありがとうございます。父上』 「ひとつ言っておきてぇんだがよ、もうテストは御免だぜ?」  命がいくつあっても足りないと嘆く辰巳に、アドルフが喉の奥で嗤う。 『私は、お前たちの事に口を出さないと誓ったはずだが』 「おう。そういやそうだった」 『そういう事だ。知っての通りフレッドはあまり帰ってこないのでな、付き合ってやってくれ。妻が喜ぶ』  妻が喜ぶと、そう言ったアドルフの表情はとても穏やかで、それだけでアドルフが本当に奥さんを大事にしているのだという事が辰巳にも伝わってくる。  アドルフの意外な一面に辰巳が目を眇めていると、クリストファーの揶揄うような声が聞こえてきた。 『だがまあ、その頬の跡が綺麗さっぱり消えてからにしろよ? そうでなくとも、お前は強面だからな』 「誰のせいでこうなったと思ってやがる」 『お前だろ』  あっさりとクリストファーに言われてしまって、辰巳には言い返す言葉がない。  不意にフレデリックの指先が辰巳の頬をむにっと摘まんだ。その痛みに辰巳が顔を顰める。 「痛ぇだろうが」  嫌そうに頬に伸ばされた手を軽く退ける辰巳に、フレデリックは満足そうに微笑んだ。どうやら、過剰に反応を示す事はもうなさそうである。 「これに懲りたら少しは僕の言う事も聞いてくれると嬉しいね」 「お前にやんなって言われると余計にやりたくなんだよな」 『ガキかよ』  クリストファーが呆れたように言うが、ガキなのである。そんなものは昔からだ。辰巳は、気になったものは気になるし、言いたい事は言ってしまう。良くも悪くも正直な男なのだ。  そうフレデリックが言えば、クリストファーは小さく首を振ってみせた。 『なるほど。お前のその妙な余裕の理由がわかったよ、辰巳』 「あぁん?」  怪訝そうな顔をする辰巳を放っておいて、クリストファーがフレデリックを見る。 『佳い男だ』 『当然だね。誰の旦那だと思ってるんだい?』 『ははっ、こりゃあいい。おい辰巳、お前、尻に敷かれるなよ?』 「馬鹿だなお前、惚れた相手にゃ優しくしてやるもんだ。時には尻に敷かれてやるのも男の務めだろ」  さらりとそう言ってのけて、辰巳がグラスを煽る。  腹を抱えて笑いだしたクリストファーを睨むフレデリックの頬が少しだけ赤い。本当に、分が悪いと思うフレデリックである。  辰巳は、身内の前で発揮する羞恥心など一切持ち合わせていない。それを、フレデリックはすっかり忘れていた。これ以上本音を暴露されたなら、フレデリックの方がノックアウトされてしまいそうだった。無意識というのは恐ろしい破壊力を秘めている。  思わず咳払いを零すフレデリックを、隣に座る辰巳が怪訝な顔で見る。その目の前では、クリストファーが未だ治まらない笑いに涙を流していた。  不意にアドルフが立ち上がる。 『どうした親父?』 『私も、妻の顔が見たくなったんだよ。辰巳、今度は家で会おう』 「ああ、遠慮なく邪魔させてもらうわ」 『待っている』  そう言い残してアドルフはさっさと建物の中へと入って行ってしまった。  父親の背中が消えたドアを見つめ、三人の息子たちが笑いを零す。 「あてちゃったかな?」 「あれで案外愛妻家だからな」 「そりゃあ嫁が恋しくなる時もあんじゃねぇのか?」  それぞれに言いたい事を言って、三人は顔を見合わせる。やがてホテルの敷地から一台の白い高級車が走り去るのを、三人はテラスから見送った。  思い立ったら即行動してしまうのは、何も辰巳だけの事ではないようだ。そういう事が許されるのが、この家業の良いところだろうかなどと三人で笑い合う。 「妻に会いたいから帰りますって、リーマンじゃあ許されねぇよな」 「まったくだね」 「馬鹿、そりゃ親父だからだろ。俺らがそんな事言ってみろ、リアルに首が飛ぶぞ」 「おっかねぇ事言うんじゃねぇよ」  そもそも仕事でも何でもない会食の席である。中座したところで何の問題もない事は三人とも分かっていたが、ああも唐突に妻に会うために帰るなどと言い出せるアドルフが少しだけ羨ましい。 「親父のああいうところは、俺には真似出来ん。恥ずかしくてやってられん」 「そうかなぁ、僕も言いたいけどな。辰巳に会いたいから帰りますって、言える事なら毎日」  にこにこと笑いながら言うフレデリックに、辰巳が額に手を遣る。 「どうしてお前はそういう事を恥ずかしげもなく言えんだよ…」 「辰巳、悪いがお前もたいして差はないぞ」 「あぁん?」  心外だというように顔を顰める辰巳に、クリストファーが呆れたような顔をすれば、フレデリックが朗らかに笑う。 「辰巳は無意識に僕を喜ばせてくれるんだよ、クリス」 「ああ…、そういうところも辰巳が素直なのは理解した」 「そうそう。可愛くて仕方がないだろう?」 「惚気てるところ悪いんだが…フレッド、俺にとってはお前のその態度の方が破壊力が高い」  テーブルに肘をついて項垂れるクリストファーの姿に、フレデリックはクスリと笑った。 「僕も、欲求には素直だからね」 「なるほど。物は言いようだ」 「納得してんじゃねぇよクリス」  結局似たもの夫婦だと言ってクリストファーは呆れたのだった。願わくば夫婦喧嘩だけはするなと言うクリストファーである。この二人の場合、怪我どころの騒ぎでは済まない気がしてならないからだ。  辰巳とフレデリックが喧嘩などと言う物とは無縁であることを、クリストファーは知らない。  この二人の欲求の捌け口は、しっかりと別のところにある。それをクリストファーが知ったなら、呆れるだけでは済まなそうな気がするので辰巳もフレデリックも黙っているだけだ。  この日、三人は夜も遅くまでくだらない話をしてゆっくりと時を過ごした。まだ、フランスでの滞在期間は半分以上残っている。クリストファーの言うように、観光してみるのもいいかもしれないと、辰巳は隣に座るフレデリックを見遣って思うのだった。

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