12 / 14
act.11 ”Free fight”
その日、辰巳とフレデリックの二人の姿は、ニースの市街地にあった。約束通りアドルフの家を訪ねた帰りである。
フレデリックの母親はとても美しい女(ひと)だった。フレデリックと大して変わらない体躯の辰巳に多少の驚きはあったようだが、それだけだ。
フレデリックの母親は辰巳の目の前に立つと、その頬を両手で挟んで優しい目をしていると言った。女性に、しかも母親のような年の女にそんな事をされた経験がない辰巳はおおいに慌ててきたところである。
一晩くらい泊って行けとアドルフに誘われたものの、ちょうど仕事で出掛けていたクリストファーから観光がてら飲みにでも行かないかと誘われて出てきたのだ。
まだ夕日が落ちようかという時間帯で、街も賑やかである。並んで歩いていれば、フレデリックが唐突に口を開いた。
「うーん…新鮮だなぁ」
「あん? 街が、か?」
「違うよ。普段と違う姿の辰巳も男前だなって、そう思ってね」
確かに、市街地をぶらぶらと歩く辰巳とフレデリックは、普段よりは幾分かラフな格好をしていた。
辰巳などは日本に居てもスーツが普段着のようなものである。フレデリックも『Queen of the Seas』にはドレスコードが設けられているため、制服以外でもフォーマルな格好をしている事が多い。そして、部屋ではほぼ全裸がお決まりの二人である。
十一年付き合っているといっても、お互い見慣れない格好であることは確かだ。
「つぅか選んだのお前だろうが」
「服を選ぶのがこんなに楽しいと思わなかったよ」
フレデリックの台詞に、思わず船の中で制服を着させられた時の事を思い浮かべてしまった辰巳である。ひたすらに眺めまわされた事を思い出して辰巳は顔を顰めた。ついでにその後の事まで思い出してしまって、顔に熱が集中する。
思わず口許を手で覆う辰巳を、フレデリックが不思議そうに見た。
「どうかしたのかい?」
「っ何でもねぇよ…」
辰巳の反応に、フレデリックはにやりと意地の悪そうな笑みを浮かべると、揶揄うような口調で言った。
「ふぅん? 子猫ちゃんは、何を思い出しちゃったのかな?」
「うるせぇよ馬鹿」
辰巳をつぶさに観察していたフレデリックが、ぽんっと手を打った。どうやら答えがわかったらしいその顔には、満面の笑みが浮かんでいる。
「わかった。コスプレだね?」
「ッ…言うんじゃねぇよ」
「あっははっ、辰巳ってば本当に可愛いね」
耳元に口を寄せたフレデリックに『エッチ』と囁かれて、辰巳はその首を腕で抱えた。本当に、こういうところが手に負えないと思う辰巳である。
辰巳が首根を締め上げたところで、フレデリックにたいしたダメージがないのは分かっている。だからこそ辰巳に容赦はなかった。案の定、フレデリックはあっさりと辰巳の腕から抜け出した。
縒れた服を直しながら、フレデリックが朗らかに笑って揶揄う。
「最近の辰巳は乱暴だねぇ…ストレスかい?」
フレデリックの言葉に、ふと辰巳が動きを止めた。急に立ち止まった辰巳に、フレデリックがおや? と振り返る。
「辰巳?」
「悪ぃ…」
「え? うん? どうしたんだい急に?」
唐突に謝られる理由が見当たらず、フレデリックが心配そうに辰巳の顔を覗き込んだ。いったいどうしたのだと首を傾げていれば、辰巳がバツの悪そうな顔をして呟いた。
「乱暴だって言うからよ。言われてみりゃあ、やり過ぎかと思ってな。お前が相手だと、どうも加減とか…そういうの忘れちまうんだよなぁ。悪ぃな」
「そんな事を気にしてたのかい? もう…どれだけキミは可愛いんだろうね」
辰巳の肩に腕をかけて、フレデリックがゆっくりと歩きながら話す。
「僕は何も気にしてないし、乱暴って言ったのはただの冗談だよ。まあ、ストレスなのかなって、思うのは本当だけれどね。慣れない旅行に付き合わせてるし、やっぱり僕ひとりじゃ不便なところもあるだろう?」
「そりゃあ俺も納得してる事だろうが」
「辰巳はそうやって僕の我儘を聞いてくれるからさ、気付かないうちにストレスが溜まってるんじゃないかって心配になるんだよ」
ゆったり肩を組んで歩く辰巳とフレデリックを、擦れ違う女性たちがちらちらと見る。そんな視線を気にする事もなく、二人はそのままゆっくり歩きながら話した。
「お前は本当に、何しても怒んねぇよな」
「ははっ、何を言ってるんだい? クリスの時みたいな事になったら、今度は怒るじゃ済まないから覚悟しておくんだね、辰巳?」
「あー…まさかあんな酔い方すると思ってなかったけどな…」
思い出しただけでもげっそりしてしまう辰巳である。そもそも本当に、クリストファーは酒を舐めた程度なのだから恐ろしい。
「キミは好奇心が旺盛だからねぇ…言わない方が良かったかなって思ったんだけどね」
「まあ、お前が出掛けに言ってったから余計に気になったってのはあんな」
「本当にキミは…昔から変わらないねぇ…。どうしてそう、僕の言う事に反発するのかな?」
フレデリックの言う事は尤もだった。何故か、辰巳はフレデリックに何かを言われるとそれが気になってしまうのだ。そう辰巳が言えば、フレデリックは呆れた顔をした。
言い方が悪いのかとうんうんと隣で唸るフレデリックに、辰巳は苦笑する。どうしてこう、この男は自分が悪いと思うのか。悪いのは変な好奇心を発揮してしまう辰巳である。
苦笑を漏らした辰巳がそんな事を言えば、フレデリックは困ったように微笑んだ。
「言う事を聞けない子猫ちゃんは、躾が必要…かな?」
「どうしてお前はそうなんだよ」
「だって、悪い事をしたらお仕置きされるって思えば少しは言う事も聞くだろう?」
「勘弁してくれ…お前のそれは冗談に聞こえねぇんだよ」
本気だよ。と、そう耳元に低く囁いてフレデリックが嗤う。
「この前みたいに動けないようにして、ちゃんと躾をしてあげようか?」
「ッ……」
「ふふっ、思い出しちゃったね?」
クスクスと耳元で笑うフレデリックの声が艶めかしく聞こえてしまって、辰巳は眉間に皴を寄せた。嫌な訳ではないが、些か拙いのではないかと思う辰巳だ。
「本当にお前は質が悪ぃな、フレッド。それ以上煽んじゃねぇよ」
「そんな事を言われると、クリスを放置して帰りたくなるね」
「お前が煽らなきゃいいだけだろうが馬鹿」
辰巳はすぐ横にあるフレデリックの頭にゴツリと軽く頭突きした。すぐ耳元で、愉しそうな笑い声が聞こえてくる。そんな何気ない遣り取りが、愉しい二人である。
ゆっくりと夜に向っていく街を二人で歩く。誰がどんな顔で振り返ろうと、時折額を合わせて笑い合う辰巳とフレデリックの知った事ではなかった。
クリストファーと待ち合わせをした店は、地下にあるバーだった。広さも客の入りもそこそこと言った感じである。観光客向けの店でない事だけは確かだ。
辰巳とフレデリックが店内を見回すと、右手にあるカウンターとは反対側のボックス席でクリストファーが軽く手をあげた。着いて間もないのかテーブルの上には何も乗っていない。辰巳を先に座らせて、フレデリックが隣に腰を下ろす。
「よう。顔はすっかり治ったようだな」
「お陰様でな」
「どうだった? うちの母君は」
辰巳とクリストファーが話す横で、フレデリックがビールをふたつとウーロン茶を注文する。
「綺麗な人だな」
「辰巳が大きくて驚いてはいたけどね」
「そりゃあそうだろうよ。お前らふたりともでかいからな」
クリストファーが呆れたように笑う。クリストファーも小さい訳ではないが、どちらかというと細身である。フレデリックや辰巳と比べると、どうしても小さく見えてしまうのは仕方がない事だった。
とはいえ、こう三人が固まっているとどうしても人目を引くのは避けられなかった。辰巳もフレデリックもクリストファーも、顔立ちは皆整っている。しかも躰のバランスが良いのだ。
他愛もない話をしていれば、怠そうな態度で店員が飲み物を運んでくる。
軽くグラスを合わせて乾杯すると、喉が渇いていた辰巳は一気にグラスの中身を飲み干した。あっという間に空になったグラスをテーブルに置いて、フレデリックを見る。
「ジョッキの方が良かったかな?」
「いや、ビールはそんな飲まねぇよ」
このところワインばかり飲んでいる辰巳は、フレデリックにウイスキーを頼むように言った。苦手な酒がある訳ではないが、飽きはくるものである。
ついでとばかりにフレデリックもグラスの中身を飲み干して、同じものをふたつオーダーした。クリストファーはゆっくり飲むつもりのようだ。
「こんなバーで良かったのかよ?」
「気楽でいいだろう?」
「そりゃあそうだがな」
酒を飲まないとはいえ、クリストファーはこういった店にはよく顔を出すようだった。といっても、普段は『Queen of the Seas』のカジノで働いている身である。クリストファーも、フレデリックと同じように陸で過ごす時間は短いと言って笑った。
「こうして何日も陸地に居るのは久し振りだな。このところ、そうでかい仕事もないしな」
「そう言やお前らは何で船なんかに乗ってんだ? 本業だけでも食っていけんだろ?」
「まあな」
と、そんな話をしている時だった。俄かに店内が騒めき、幾人かが慌てて店を出ていく。何事かと視線を巡らせれば、カウンターのすぐ横で男が女に銃を突き付けているのが見えた。
「ああ? おいクリス。ここじゃあんなのは日常茶飯事なのか?」
「まあ、たまにあるな」
慌てて銃を持つ男から客が遠ざかる中、元より距離のある三人はテーブルに着いたままだ。痴話喧嘩か何かだろうかと、辰巳はぼんやりと観察する。
男は随分と興奮しているようだった。年の頃は二十代半ばくらいだろうか。辰巳には外国人の年齢はわかりにくい。
「しかしまあ、女相手に飛び道具かよ。さすがに外国は違ぇなぁ」
「感心してる場合じゃないだろう? まったく…どうしてキミはそう、あまり危機感を持たないのかな」
「あぁん? お前らだって別に慌ててねぇだろうが」
辰巳の言葉に、フレデリックとクリストファーが顔を見合わせる。言われるまで気付かない辺り、この二人も同類ではあった。とはいえ、流れ弾に当たるような事態にだけは陥りたくないフレデリックである。
今のところ男の銃は女に向けられているが、誰かが声を掛けようものならすぐにでも引き鉄を引いてしまいそうな雰囲気だった。
さてどうしたものかとフレデリックが思案を巡らせていると、辰巳が立ち上がる気配に慌てて袖を引く。本当に、この男は後先考えずに行動するから困るフレデリックである。
さすがに丸腰の辰巳を行かせる訳にはいかない。奥に座らせておいて本当に良かったと思う。フレデリックは強引に腕を掴んで辰巳を睨んだ。
一瞬、辰巳が男の気を引いている間に撃ち殺してしまえなどという物騒な考えがフレデリックの頭を過ぎる。が、その後の事を考えると面倒なのでやめた。やはり辰巳を大人しくさせておくのが吉である。
「立ち上がって何をするつもりだったんだい?」
「さあ? なるようになんじゃねぇか?」
「なる訳がないだろう? 本当にキミって人は、どうしてそう後先考えずに動くのかな」
「考えたら動いていいのかよ?」
辰巳の台詞に、フレデリックは盛大な溜め息を吐いた。普通に考えて、丸腰で銃を持った相手に立ち向かおうなどという結論には至らない筈である。そうフレデリックが言えば、辰巳はガシガシと頭を掻いた。
「じゃあどうすんだよあれ」
何気なく言う辰巳に、クリストファーが信じられないものを見るような目で問いかける。
「何だ? 辰巳はもしかしてあの女を助けようと思ってるのか?」
「ああ」
短く応える辰巳に、クリストファーが腹を抱えて笑いだす。それは、随分と大きな声だった。フレデリックが舌打ちを響かせる。クリストファーがわざと男の気を引こうとしているのがわかったからだ。案の定、男は辰巳たちに気付くと女を引きずるようにして近付いてきた。
フレデリックがクリストファーを睨む。どうしてこの男はこう、揉め事が好きなのか。
『何を笑ってやがる』
『いや、何でもねぇよ。ツレと愉しく話してただけだったんだが、どうやら邪魔したようだな?』
『ふざけてんのかテメェ』
フランス語で交わされる会話は、辰巳には理解できない。どうしてクリストファーが急に大声で笑いだしたのかも、辰巳は理解していなかった。だが、そんな事はお構いなしに男と会話するクリストファーを、辰巳は座ったまま見つめていた。
『ふざけてる? そりゃあこっちの台詞だろう。女に銃向ける程ふざけちゃいないんだぜ?』
言い終わると同時に立ち上がったクリストファーの手が男の持った銃身を掴む。その指先は、セーフティーにしっかりと掛かっていた。躊躇いもなく手首の関節を外側に捻り上げる。
クリストファーはあっという間に男の手から銃を取りあげると、そのまま男を突き飛ばした。
反動で一緒によろめく女を、座ったままのフレデリックの手が支える。クリストファーはついでのようにフレデリックに男から奪った銃を放り投げた。
『まったく。手荒いにも程があるね』
『ははっ、殺されるよりはマシだろう』
クリストファーは女に見向きもせずにそう言って、床に倒れ込んだ男の元へと歩み寄った。胸ぐらを掴みあげる。
『お前にどんな事情があろうがどうでもいい。愉しく酒を飲む場所で無粋な真似をするなよ?』
そう言ってクリストファーは男の顔を片手で掴むんで床へと叩きつけた。鈍い音がして、男が動かなくなる。立ち上がり、何事もなかったかのように再び辰巳とフレデリックの向かいにクリストファーが腰を下ろす。
店員が慌てたように男を引きずっていく。辰巳は唖然とした表情でクリストファーを見た。
礼を言う女を犬でも追い払うような仕草で追いやると、クリストファーが辰巳に首を傾げてみせる。
「これで満足か?」
満足かと聞かれても返答に困る辰巳である。ただ、目の前で起きた事を放っておくことが出来なかっただけだと辰巳が言えば、クリストファーは呆れたように肩を竦めた。
「女を放っておけないってのはまあ良しとしよう。だがな、お前があそこで立ち上がったところでどうなる? 向こうは銃を持ってて、お前は丸腰だろう。フレッドの言った通り普通に考えりゃ勝てる訳がない。辰巳、お前は無謀過ぎる」
反論の余地もない。クリストファーの言葉に辰巳は黙り込むしかなかった。フレデリックに感謝するんだなと、そう言ってクリストファーはウーロン茶を飲み干した。
店の店長らしき男が慌てたように寄って来て、クリストファーに話しかける。二、三、話した後で、クリストファーが辰巳を見た。
「飲み物を奢ってくれるそうだ。何がいい?」
辰巳が答える前にフレデリックが男にフランス語で注文を告げた。その様子に、クリストファーが男に頷いてみせる。急ぎ足でカウンターへと入っていく男を辰巳がぼんやりと見ていると、コンコンッとテーブルを叩く音がした。
面白そうな顔でノックするクリストファーを、辰巳が見る。隣のフレデリックは相変わらず険しい顔だ。フレデリックをちらりと見遣ってひとつ肩を竦めたクリストファーが言った。
「飛び道具を相手にしたいなら、気を引いて手の届く場所までおびき寄せろ。な?」
「クリス。余計な事を吹き込まなくていい」
「余計? おいおい、辰巳の性格はお前が一番よく知ってるんだろう? 引くような男じゃないなら押してやれよ。犬死させたくないなら、なお更な」
何も言えずに辰巳が見ていれば、クリストファーの言葉にフレデリックが大きく長い息を吐いた。辰巳がするように頭を掻くその姿に、クリストファーが笑う。辰巳が初めて見るフレデリックの姿。
「わかったよ。ストレスを溜めさせて、これ以上無謀になられても困るからね。辰巳、キミの欲求を満たすための方法を、クリスから教えてもらうといい」
船の中で辰巳とクリストファーが手合わせを始めた時から、フレデリックには予感があった事ではある。辰巳は純粋に躰を動かすのが好きだし、正義感も強い。だが、さすがに丸腰で銃を持った相手に突っ込まれてはフレデリックの寿命が縮んでしまう。
「但し、あまりにも無謀な事をするならここへ来る前の話が現実になる。それだけは覚えておくんだね」
「……わかった」
「本当に…キミは好戦的で困る…」
フレデリックの言葉に、男ならそんなものだろうとクリストファーがあっさり言ってのける。どうにも辰巳とクリストファーは妙なところで馬が合うからフレデリックは困ってしまうのだ。
面倒事に首を突っ込むなどフレデリックは御免だが、クリストファーは面白がってすぐに首を突っ込む。それでクリストファーがどうなってもフレデリックにとってはどうでもいいが、辰巳は別だ。怪我でもされたら堪ったものではないと、そう思う。
「お前の嫁は過保護だな辰巳」
「そりゃあれだ、旦那がひ弱すぎて心配されてんだろ…確かに無謀って言われりゃ返す言葉もねぇよ」
辰巳の頭を掻く手が弱々しい。悔しいがフレデリックやクリストファーとでは、辰巳は勝負にすらならない。それでも、見て見ぬ振りが出来ないのが辰巳という男である。
面目もないというような様子の辰巳を苦笑して見遣ったクリストファーが、思い出しようにフレデリックを見た。
「それにしてもフレッド、お前どうして自分で動かなかった?」
「余計な事は言わなくていい」
むすっと返すフレデリックに、クリストファーは『ああ…』と小さく呟いたのみだった。
フレデリックは、クリストファーのように気絶させるような器用な真似は出来ない。というより面倒が嫌いなのでさっさと始末してしまうという、実に恐ろしい性格をしている。それに、クリストファーも思い至ったのだった。
呆れたように小さく首を振り、クリストファーはグラスの中のウーロン茶を飲み干して立ち上がる。向かいの席で見上げる二人に、さっそく実地訓練に行こうと言ってニッと嗤ってみせたのだった。
諦めたような溜め息を吐いてフレデリックが立ち上がる。その様子に、辰巳も隣に倣う。代金は結構だと恐縮する店長らしき男に金を無理矢理握らせて、三人は夜の街へと繰り出した。
クリストファーが辰巳とフレデリックを伴って訪れた場所は、これまた地下にあるクラブである。若者でごった返すフロアをすいすいと横切って、クリストファーは奥にある扉の前に立った。
そう遅れる事もなくついてくる二人を振り返る。
「俺とフレッド以外と話す時は、英語で頼むぜ? 日本語を理解できるような連中はいないからな」
「ああ」
もし言葉が分からなかったらフレデリックにでも聞けと、そう言ってクリストファーは扉の前に立つスタッフに声を掛けた。どうやら馴染みらしいスタッフは、クリストファーの後ろに立つ辰巳とフレデリックを面白そうに眺めて扉の奥へと案内した。
薄暗い通路をすたすたと進んで行ってしまうクリストファーに声を掛けたのはフレデリックだった。
『クリス。この先には、何があるんだい?』
『ストリートファイト』
首だけで振り返ったクリストファーが愉しそうにそう告げる。
『銃火器は禁止だが、それ以外は何を使ってもOKな愉しい遊び場だ。先ずは辰巳の腕試しと行こうじゃないか』
ただの殴り合いならまだしも銃火器以外なら何でもOKだなど、やはりクリストファーに任せるんじゃなかったと早くもフレデリックは後悔する。辰巳に万が一の事でもあったなら、今度こそ本気で魚の餌にでもしてやろうと心に決めるフレデリックだった。
狭い階段を上る。突き当りには扉があって、その先は屋外だ。ご丁寧に建物に囲まれたそこは、今しがたフレデリックたちが通ってきた通路以外に出入口は見当たらない。警察にバレたらまさに袋の鼠だろうが、こうして続いているところを見ると、参加者のお行儀は良いようだ。
よくもまあこんな場所に出入りしているものだと、フレデリックは呆れ顔でクリストファーを見遣る。次いで隣に立つ辰巳を見れば、感心したような顔つきで辺りを見回していた。幾分緊張した面持ちに、不安が募る。
いくら切った張ったに辰巳が慣れていると言っても、ストリートファイトなど経験がないだろう事は容易に想像がつく。フレデリックが小声で大丈夫かと問いかければ、辰巳は軽く肩を竦めるだけだった。
四方を建物の壁に囲まれた中庭の中央に、フェンスで四方を囲まれただけのリング。床はもちろんコンクリートが剥き出しのままである。広さは、そこそこ。一辺のフェンスは五メートルあるかないかといったところだろうか。
集まっている人間の年齢も人種も様々だった。飛び交う会話は入り混じっているが、英語が主流のようだ。
ちょうど一戦決着がついたところらしい。随分と痛々しい姿の男がフェンスの中から引きずり出されてくる様を、フレデリックは無表情に見つめた。
あまり、こういった場所は得意じゃない。と、そうフレデリックは思う。腕試しなどに興味はない。
引きずり出される男を同じように見つめている辰巳の目は、何の色も浮かべてはいなかった。どうやら、肚を据えてしまったらしい事にフレデリックは気付く。本当に、手に負えない。
スタッフと思しき男と話をしていたクリストファーが辰巳を手招いた。ちらりと視線を投げる辰巳とフレデリックのそれが絡み合う。
「いいのか?」
「僕は、キミを信じてるよ。相手を殺したくないならキミが勝てばいい」
「ははっ、おっかねぇな」
何気ない足取りでクリストファーの元へと歩いていく辰巳の背中に、妙な緊張が見られない事だけが救いだろうか。いくらストレスを発散させてやろうと言っても、怪我などして欲しくはないフレデリックである。
クリストファーの言う通り、フレデリックは過保護だ。辰巳に傷など負わせたくない。だが、辰巳がこのところストレスを抱えている事にもフレデリックは薄々勘付いていた。
元より手の早い辰巳である。日本でなら他愛もない殴り合いで済むところだが、今日のように銃を持っている相手にまで興味を示されては堪ったものではなかった。好奇心が旺盛な旦那を持つと、嫁は苦労するのである。
はぁ…と、フレデリックは小さく溜息を吐いて、壁に寄り掛かるようにして立った。
一方、辰巳はクリストファーにざっくりとルールを説明されていた。といっても、銃火器が使用禁止である事と、ストップが掛かった時点で試合が終了である事くらいのものである。武器の使用は可。相手の武器を奪う事も、もちろんOKである。
何も持っていない辰巳は、何を使うかと聞かれても肩を竦めるしかなかった。
「ナイフぐらいなら貸してやろうか?」
「あー…いいや。元から何か持って喧嘩なんて、そうそうしねぇしよ」
「なるほど。まあ、お前がそう言うならそれでいい」
クリストファーの横に立つ辰巳を、スタッフが物珍しそうな目で眺めまわす。
『日本人か?』
『ああ』
『ほう。ここじゃ日本人は珍しい。期待してるぜ』
そういって男は辰巳の肩を叩くとどこかへ行ってしまった。どうすればいいのかもわからず辰巳がクリストファーを見る。
「フレッドに何か言われてきたか?」
「相手殺したくなきゃあ勝てとさ」
「ははっ、あいつがこんな場所で遣り合うようになっちゃあ参加者が減って敵わん。俺からも頼むぜ辰巳、負けるなよ」
「フレッドは、そんなに強ぇのかよ?」
辰巳の問いかけに、クリストファーが困ったような顔をした。何と言えばいいのか迷う所である。そもそもフレデリックは、こんな遊びの喧嘩などはしない。
「死人が出てもいいなら、おねだりしてみるんだな」
クリストファーは冗談めかしてそう言うと、辰巳の肩を叩いた。会場の隅の方で壁に寄り掛かって立つフレデリックをちらりと見遣る。辰巳の視線が、それを追う。
気付いたフレデリックが小さく微笑むのが見えた。辰巳が負けたなら、フレデリックは本当に相手を殺してしまうのだろうか。などと物騒な事を考えて、辰巳は苦笑を漏らした。今しがた引きずられて出てきた男のような姿を、フレデリックに見せたくはない。
せっかくフレデリックがストレスを発散して来いと言ってくれたのだ、辰巳はそれを愉しむだけである。喧嘩は、嫌いじゃない。
やがて先ほどの男が戻って来て辰巳に声を掛けた。どうやら相手が決まったようである。人に見られる中での喧嘩など辰巳は初めてだが、別にやる事はそう変わらないだろうと思えば気楽なものだった。
相手は、辰巳より大柄な男だった。といっても身長はフレデリックと変わらない。但し、横にでかい。左右の指にゴツい指輪をしていて、殴られたら痛そうだな…と、辰巳は思う。せっかく治った頬にまた傷がついてしまう。そんな事になろうものなら、またフレデリックに痣をひたすら弄られかねない。
容易に想像出来てしまって、辰巳は少しだけゾッとした。
ベルトから覗くサバイバルナイフの柄に、辰巳はガシガシと頭を掻いた。武器使用OKの場所に丸腰で来るような人間は辰巳くらいのものである。
まるでセコンドのように、クリストファーが片手をフェンスにかけてにやにやと笑っている。辰巳は小さく溜め息を吐いた。こういう場所は慣れない…と、そう思う。
目の前に立った男が不意に話し掛けてきて、辰巳は視線を戻した。
『日本人にしてはイイ躰だなオッサン』
『そりゃどうも』
『軍人か何かか?』
『いや? ただのヤクザだよ』
男は、大袈裟にジャパニーズマフィア! と驚いてみせる。こんなところで何をしているんだと話しかける男を、辰巳は相手にする気になれなかった。さっさと始めろと言わんばかりにフェンスの外にいるスタッフに顎をしゃくる。空のビール瓶がガシャリと砕かれて、開始が知らされた。
だらりと両腕を垂らしたまま辰巳はファイティングポーズをとる男を見た。どうやらまだナイフを抜く気はないらしい。近付いたところで抜く気だろうかとだいたいの予測をつけて、辰巳は何気ない足取りで踏み出した。
同時に男が距離を詰めながら指輪の嵌った拳を突き出してくる。ガードではなく、腕で払う。その伸びきった腕の下に躰を沈ませて辰巳は肘を腋窩へと叩き込んだ。そう喧嘩に慣れている男ではなさそうだった。
呻きはするものの揺らぐことのない男の顎を拳で突き上げる。どうやらスピードは辰巳の方が上のようだった。上体を逸らして衝撃を逃がされたものの、手ごたえはある。
辰巳は動く事を止めなかった。
左手でフェイントを出した。男が気を取られた隙に、右膝を脇腹に入れる。呻く男の手が腰に回るのを見て、辰巳は一気に距離を開けた。辰巳のいた場所を、男の腕が大振りで通過する。躰に見合った大きな動きは、辰巳にとって有難い。
男が腕を戻すより早く、辰巳は再び距離を詰める。男の目が見開かれた。ナイフを持つ男の手を逆手で掴んで一旦引き寄せる。男がバランスを崩したところで辰巳は持ち手を変えた。捻り上げざまに肘を側頭部に叩き込む。腕を捉えられた男に衝撃を逃がす術はなかった。鈍い音と共にふらついた男の手からナイフを奪う。
辰巳は距離を取りながら躰の向きを変えると、回し蹴りを男の首に叩き込んだ。脚に重みが掛かる。構うことなく辰巳は脚を振り抜いた。男がそのままコンクリートに頭を激突させて呻き声をあげる。
辰巳がちらりとフェンスに寄り掛かるクリストファーを見れば、小さく首を振る姿が見えた。どうやら、まだ終わりではないらしい。小さく息を吐いて辰巳は男の躰をうつ伏せにさせると、ナイフを持ったままその首を締め上げた。
これ以上痛めつける必要もなければ、ナイフで傷を負わせるつもりも辰巳にはない。さっさと締め落とせばそれで終わりだ。と、そう思った時だった。会場からブーイングが上がったのだ。思わず辰巳の手が止まる。
「ッ!?」
驚いてクリストファーを見れば、にやにやと相変わらず嫌な笑みを浮かべて首を傾げられた。ショーとして物足りないと、そういう事らしい。なるほど…と、辰巳は思う。
フレデリックはストレス発散と言っていただが、クリストファーの狙いはどうやら違うらしい。最初から、これが目的だったのだろう。辰巳の甘さを、見抜いている。
辰巳は、手に持ったナイフを放り投げた。うつ伏せにした男の右腕を掴んで後ろ手にあげさせると、無造作に膝を叩き込んで骨を折った。男の口から悲鳴が上がる。同時に会場から湧き上がる歓声に、辰巳は小さく首を振った。
会場の歓声に応えてやる気は、辰巳にはさらさらなかった。脚で男の躰を転がすと、仰向けになった無防備な喉元を踏みつける。悲鳴などよりもっと楽しいものを見ればいいと、そう思う。
男の左手が、足首を掴む。恐怖に見開く男の目を、辰巳は静かに見下ろした。抵抗が徐々に弱まっていく。やがて男が動かなくなって、ようやくストップが掛かった。
随分とスタッフも手慣れているものだと、そう思う。もう少し遅ければ男の呼吸が止まるところだ。辰巳がフェンスを抜け出すと、クリストファーがゆっくりと寄ってきた。
「物足りなかったか?」
「別に。お前と比べたらそりゃあ足りねぇよ」
「ははっ、でもまあ、サンドバッグ殴るよりはマシだろう」
「あれじゃあ変わらねぇだろ」
幾人かの男たちの手によって運び出される相手を、辰巳がちらりと見遣る。口から泡を吹いた男がなんとも痛々しい。と、辰巳は他人事のように思う。
「やっぱりこの程度じゃ話にもならんか…。というかお前、動けるんだからもう少し頭使えよ」
「対処は出来ても自分から動くのが得意じゃねぇんだよ」
頭を使えとストレートに言われてしまうと、些か言い訳をしたくなる辰巳である。だが、クリストファーに容赦はなかった。
「はあ? だからって銃もった相手に歩いて近付こうと思うか?」
「いや…どうにかなんじゃねえかと思ってよ…」
「なる訳ないだろうが。馬鹿かお前は」
呆れたように言ってクリストファーは辰巳の脇腹に肘を突き入れる。傍目からは軽く見えるそれに、辰巳は一瞬息を詰めた。
クリストファーは、いちいち入れる場所が的確過ぎるのだ。
「痛ぇんだよ」
「避けるかガードするかしろよ。別に避けたからって俺は何とも思わん」
「普通に歩いてる時までそんな事できるか阿呆」
「出来るか出来ないかじゃないんだよ。やれ」
こちらに歩いてきながら、完全に師匠と弟子の様相を呈している二人にフレデリックが苦笑を漏らす。辰巳が自分と手合わせなどをしたいと思っている事は、クリストファーから聞いて知っているフレデリックだ。本当に、好戦的で困ってしまう。
傷ひとつ負うことなく目の前に立った辰巳に、フレデリックは微笑んだ。
「おかえり…辰巳。少しは楽しめたかい?」
「あー…まあ、そこそこか」
「お前が相手してやれよ、フレッド」
「今日のキミは随分と好戦的だねクリス? そんなに僕と遊びたいのかい?」
ルールのある遊びならいつでも大歓迎だと、そう言ってクリストファーが笑う。
フレデリックは渋い顔をして会場の中央にあるリングを見た。あんな場所で遊んでいたのは、もう随分と昔の事である。
ふっと柔らかな笑みを浮かべたフレデリックが辰巳の肩を抱いて耳元に囁いた。
「辰巳がどうしても見たいって言うなら、見せてあげてもいい。但し…クリスが、キミが相手をした男のようになってもいいのなら…だけどね」
フレデリックの意外な台詞に、辰巳は驚いた。どういう心境の変化かと、すぐ近くにあるフレデリックの顔を見つめる。
「おいおいフレッド。それはないんじゃないか? あんなサンドバッグと俺を一緒にするなよ」
「どうかな? 僕にとっては、あまり変わりがない気がするけれど」
「言ってくれるねえ。旦那の前でその鼻っ柱をへし折ってやろうか」
既に言い合いを始めてしまうフレデリックとクリストファーの顔を、辰巳は交互に見た。どちらも余裕そうな面持ちである。
「どうする? 辰巳…キミ次第だよ?」
「おい辰巳、引っ張り出してやれよ。その代わり、嫁の顔が潰れても文句は言うなよ?」
「何を言ってるんだい? 辰巳は優しいからキミの心配をしてるんだよ、クリス」
こうして言い合う姿を聞いていると、ある意味微笑ましい兄弟喧嘩だが、本気で迷ってしまう辰巳である。クリストファーは、今しがた死人が出てもいいなら強請ってみろと言っていた。
果たしてストップが掛かったところでフレデリックが止まるのだろうか。
正直、フレデリックとクリストファーのフリーファイトは、辰巳にとって魅力的である。
「正直…見てみてぇ気持ちはある…」
「ふぅん? でも、何か引っかかっていそうだね」
「お前…止まれんのかよ?」
ぽつりと呟く辰巳に、フレデリックがクスリと笑う。
「そうだねぇ…辰巳が止めてくれるなら、止まってあげてもいい。ちゃんと、僕を抱き締めてくれるかい?」
「ッ……」
耳元で低く囁かれた辰巳の顔が赤く染まる。それを見て、フレデリックはそのまま歩き出してしまった。向かう先は、扉である。
気付いたクリストファーが不満の声をあげる。
「おいフレッド、あそこまで煽っておいてそれはないだろう」
「馬鹿だねぇクリス。こんなところで見せ物になってやる程、僕の喧嘩は安くないんだよ。遊んであげるから大人しくついておいで」
辰巳の肩を抱いたまま、首だけでクリストファーを振り返ったフレデリックが艶やかに笑う。どうやら本気で遣り合うつもりでいるらしいフレデリックに、クリストファーは小さく口笛を吹いた。フレデリックがフリーファイトをするなど、何年ぶりの事だろうか。
そもそもクリストファーやフレデリックの家業にルールはない。フレデリックは、だからこそフリーファイトのような遊びはしないのである。意味がない。
その後、ホテルへと戻った三人は部屋の庭先へと降り立った。ルールは、銃火器、武器の使用は不可。辰巳がストップをかけた時点で終了という簡単なものだ。完全な肉弾戦である。
芝生の上に立つフレデリックとクリストファーの間合いは、辰巳から見ると幾分か広いようだった。
「さあクリス、久し振りに遊んであげようか」
いつでも来いと、フレデリックが片手で煽ってみせる。
「それじゃあ、遠慮なく遊んでもらうとするか」
一度大きく肩を竦めたクリストファーが、あっという間にフレデリックとの間合いを詰めた。胸ぐらに伸ばした手を、フレデリックが払う。フレデリックの肘がクリストファーの頬を掠めた。クリストファーの打ち込んだ膝を、フレデリックが片手で受ける。同時にフレデリックも膝を放っていた。一瞬だけ動きが止まって、次の瞬間には二人が離れている。
どちらも自然に立っているように見えるが、まったく隙がない。辰巳は思わず詰めていた息を吐いた。始まったばかりだというのに、辰巳はじっとりと汗をかいている事に苦笑する。
「本気でこいよ、兄貴?」
「懐かしい呼び名だね」
クスリと笑ったフレデリックが、躰ごとクリストファーに突っ込む。横に身を躱すクリストファーの腕をフレデリックが掴んだ。捻り上げられる腕をクリストファーが外す。蹴り上げるクリストファーの脚を、フレデリックは上体を沈めて躱した。
フレデリックが足を払う。飛び上がったクリストファーが放った蹴りをフレデリックが腕で止めた。腕を回転させてそのまま脚を捉えたフレデリックが躰を捻る。
芝生に両手をついたクリストファーのもう片方の足が、フレデリックの顔面に入る。フレデリックは気にせずクリストファーの腿に肘を叩き込んだ。小さく呻くクリストファーに構うことなく脚を引き摺って体勢を崩すと、立ち上がりざまに腹を蹴り上げる。
芝生の上を自発的に転がったクリストファーが起き上がるその顔面に、詰め寄ったフレデリックが膝を入れる。クリストファーが咄嗟に両腕をあげた。
「遅いね」
言いながらフレデリックは、両手でガードするクリストファーの頭を掴んで芝生に叩きつける。息を詰めるクリストファーの鳩尾に容赦なく膝を突き込んで、フレデリックが嗤った。さすがにクリストファーが呻き声をあげる。
悠々と立ち上がったフレデリックがクリストファーを見下ろした。
「一応、聞いておいてあげようかクリス。まだやるかい?」
「っ当たり前だろう…が…ッ」
言いながら立ち上がるクリストファーの顔面を、フレデリックが容赦なく蹴り上げる。その足をクリストファーが抱え込んだ。一瞬驚いたように目を見開いたフレデリックが、力ずくで踏みつける。フレデリックの脚をクリストファーが掴む。だが、それだけだった。
動く気配のないクリストファーに、辰巳はようやく息を吐き出した。
「ッ……もう…いい」
小さく呟いた辰巳の声は、しっかりと二人にも聞こえていた。フレデリックの脚が、ゆっくりと持ち上がる。芝生に転がるクリストファーを放置して、髪を掻き上げたフレデリックが辰巳の元へ歩み寄った。
その後ろでクリストファーが立ち上がる。肩を押さえるその姿に、辰巳は顔を顰めた。
「大丈夫か? クリス」
「ああ」
「止めるのが遅くて悪ぃ…」
「問題ない。止まっただけ有り難いもんだ」
まさか本当にフレデリックが途中で攻撃をやめるとは思っていなかったクリストファーである。信じられないものを見るような目つきでフレデリックを見るクリストファーに、辰巳も目の前に立つ恋人に視線を移した。
フレデリックの唇が僅かに切れている。辰巳が大丈夫かと口を開くよりも早く、傷など気にした様子もなくフレデリックは嬉しそうに笑って言った。
「抱き締めて。辰巳」
約束だとばかりににこにこと笑うフレデリックの背に、辰巳が腕を回す。フレデリックの躰の熱が、服を通しても伝わってくる。
フレデリックも辰巳の腰に腕を回すと、その首筋に顔を埋めた。
「お前ら、人の存在忘れていちゃついてんなよ?」
「帰れ。今すぐ」
辰巳の首筋に顔を埋めたまま、フレデリックがくぐもった声で短く告げる。その声に辰巳は思わず躰を硬直させた。フレデリックの、欲求不満。殺気を滲ませたその声に、クリストファーは苦笑を漏らして辰巳に片目を瞑ってみせると何も言わずに庭から出て行ってしまった。
フレデリックに抱かれたまま取り残された辰巳は、動くことが出来ないままだ。
「フレッド……大丈夫かお前」
「もう少し…このままでいさせて…辰巳…」
低く掠れた声で囁くフレデリックに苦笑を漏らして、辰巳はその顔をあげさせた。唇の端の小さな傷を舌先で舐め上げる。
「ッ…辰巳…今は…駄目だ…」
「はん? 人に抱かせておいて駄目もクソもねぇんだよ阿呆」
辰巳はフレデリックの腕を掴んだまま部屋に戻ってソファに押し倒すと、再び恋人の躰を抱き締めたのだった。
艶やかな吐息と、水音だけが部屋に小さく響いていた。ソファの上で服を纏ったまま、辰巳とフレデリックは互いの口腔を貪り合う。
口角にできた小さな傷口を舌で舐めれば、フレデリックの口から小さな嬌声が漏れた。いつもより少しだけ強い汗の匂いと、熱い躰が辰巳の腕の中で身動ぎする。
「熱いかよ?」
「ん…脱がせて…辰巳…」
ふっと小さく嗤った辰巳の指が、フレデリックの上着にかかる。ジャケットとシャツのボタンを外してしまうと、フレデリックの背中に回した腕で上体を起こした。面倒だとばかりに一気に脱がしにかかる辰巳に、フレデリックがクスクスと笑う。
「乱暴だなぁ…」
「そう思うならてめぇで脱げ」
「嫌だ。今日は…辰巳に甘えたい…」
服から引き抜いた腕を、フレデリックは辰巳の背に回す。未だ布地を纏ったままの辰巳の躰にしがみ付いて、その胸に顔を埋めた。くんくんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐフレデリックを見下ろして、辰巳が苦笑を漏らす。
「犬みてぇだな」
「辰巳の匂いは…落ち着く」
「脱ぐからちょっと離せ」
辰巳が言えばフレデリックは素直に腕を放した。ソファの上に大人しく座っているフレデリックが、辰巳には大型犬のように見えてしまってどうしようもない。あっという間に服を脱ぎ捨てた辰巳の裸身に、フレデリックが飛びついた。再びソファの上に横になったフレデリックが、ん…と顎をあげてキスを強請る。
「怪我がなくてよかった…辰巳…」
「自分で怪我しといて何言ってんだお前は」
「僕のこれは…怪我のうちに入らないよ」
口付けを交わしながら囁き合う。互いに抱き締め合う素肌の熱が心地よかった。金色の頭を撫で梳いていた辰巳の指が、フレデリックの唇に這う。
「お前がこんなところに傷作ってるのなんて初めてだな」
「んっ…あまり、触ったら駄目だよ…」
苦しそうに眉根を寄せるフレデリックに、辰巳が痛いかとそう問えば、気持ち良いと囁かれて呆れたように笑う。変態。と、そう罵った辰巳にフレデリックが口付けた。抗議するように噛みつかれて、辰巳がふっと目元を眇める。
仕返しに舌先で傷口を抉ってやれば、フレデリックの口から艶やかな声が零れ落ちた。
「っぅ…んっ、ぁっ…噛んで…辰巳…」
嬌声に誘われるまま、辰巳はフレデリックの傷口に歯を立てる。フレデリックの気持ち良さそうな声と共にじわりと鉄の味が口の中に広がって、今度は辰巳が困ったように眉根を寄せた。
「煽るんじゃねぇよ…思わず噛んじまったじゃねぇか馬鹿」
「ふふっ、傷物にした責任はちゃんととってもらわないとね?」
「阿呆か。それ以上傷物になったら投げ捨てるぞお前」
嫌だ。と、そう言ってしがみ付くフレデリックが愛おしい。いくらか和らいだフレデリックの雰囲気に、辰巳はほっとした。クリストファーには、後で謝っておこうと思う辰巳である。自分の我儘で怪我を負わせてしまった。
フレデリックもクリストファーも、辰巳など比べ物にならない程強い事は分かっている。だが、純粋に見てみたかったのだ。案の定、空気に飲み込まれて声を掛けるのが遅くなってしまった事だけが悔やまれる。
辰巳はストリートファイトの会場で見たように、誰かが痛めつけられる様を見たい訳ではない。もちろん殴り合うからには怪我をする可能性がある事も、分かってはいるのだが。
辰巳の我儘に付き合ってストレスを溜めさせてしまったのは、フレデリックも同じだろう。いくら遊びとはいえクリストファー相手に手を抜く訳にもいかなかった筈だ。それなのに、辰巳の声はちゃんと聞いていた。本当に、優しい男だと思う。
「少しは落ち着いたかよ?」
「うんー…? 我儘な子猫ちゃんのためなら、これくらいどうという事はないよ」
「はぁん? お前こそ、ちゃんと”待て”が出来るようになったじゃねぇかよ」
辰巳とフレデリックは束の間睨み合い、そして笑い合う。躰の大きな二人が寝そべるには、いくらかソファは小さかったが、辰巳もフレデリックも気にする事はなかった。互いに抱き合っていれば落ちる事もない。
お互いに犬だ猫だとやっていても、どうしようもなく惹かれ合う。
「そんな事言ってると、辰巳がもう駄目って言っても…今日はやめてあげないよ?」
「そう簡単に満足してやんねぇよ」
結局、この二人はどちらもケダモノであることに変わりはなかった。
ともだちにシェアしよう!