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第4話

「肝臓の腫れはだいぶひいてますね」 一条が、聴診器を患者の胸に当てながら、低く上品な声で言う。永井は、椅子に座っている一条の後ろからその様子を眺めている。  午前中は、一条の診察の日なので、永井も一緒に診察室にいるのだ。 「ちょっと、触診もしてみますので、ベッドに横になっていただけますか?」 「はい。」 患者が頷きベッドに仰向けになると、一条が、患者の腹を両手で軽く押していく。 「ん~やはり、まだ腫れてますね。永井先生も触診してみろ」 「はい」 言われるまま永井は、おそるおそる患者の腹を軽く押してみる。一条が言うように肝臓のあたりが少し膨れているようだ。 「先生~、ちょっとくすぐったいですよぉ」 「あ、すみません」 「永井先生、分かったんなら、手を離していいから」 「はい」 一条に言われ、永井は手を離した。 「山本さん、起き上がっていいですよ。」 患者が起きあがり、洋服のボタンを締めている間に一条は、カルテに薬品名を書き込んでいる。永井は後ろからそれを見ながら、医薬品の 名称などが載っている本と照らし合わせ、メモをする。 「同じ薬品を出しておきますから、一日二回食後に服用してくださいね。あとは、注射しておきましょう」 衣服を整え、再び椅子に座った患者に一条が言う。 「強ミノを2アンプル注射」 そして、背後にいるピンクの白衣の看護師に向かって、ボソリと指示を出す。永井は、それを書きとめ、本で調べる。 「永井先生、注射」 「え?はい」 「先生、お願いします」 本を見ていた永井は、一条に不意に名前を呼ばれ、驚きつつも返事をした。そして、看護師から注射を受け取る。 「ああ。血管が出にくいんですねぇ。ちょっと痛みますが、手の甲に注射しますね」 「はい」 永井は、患者の左腕を触りながら、冷静に言う。  普通、なりたての研修医は、注射に対しまだ慣れていないので、下手である。  しかし、永井は、手馴れた動きで、手の甲を消毒し、注射を打った。その様は、誰が見ても安心してみていられる。  なぜなら、永井の実家は、整形外科を経営しており、父親が生きてた頃に永井は、注射と縫合は父親に教わっていたので、その二つだけは手馴れているからである。 ちなみに現在は、姉の夫である義兄が院長をしている。 「今度は、二週間後に来てくださいね」 「ありがとうございました」 一条に言われ、患者は永井と一条に一礼をして出て行った。 「永井先生って、注射うまいですね!初心者に見えませんでしたよぉ。あたしよりうまいかも♪」 永井の肩を後ろから掴み、看護師が興奮したように言う。 「そう?それは、どうもありがとう」 永井が、看護師の手をさりげなくどけながら淡々と受け答えする。 「荒井さん、永井先生を調子に乗せないで。次、早く呼んで。…永井先生、注射はしばらく任せたから」 「はい。」 一条が永井の背中を押し、早く椅子から降りるように促す。永井は、椅子から降り、再び、メモと本を手にした。  永井や佐木ら研修医には、研修医室という部屋がある。ソファがひとつと机がひとつ。ホワイトボードがかけてあり、ダンボールが 散乱している。 もう何年もまともな掃除をしていない。ソファには、薄汚れたタオルケットがあり、研修医が仮眠をとるときに代々使われている。  「いいか。いくぞ」 ソファに座った永井の白い腕を掴み、佐木が不安そうな眼差しを永井に向ける。永井は、表情一つ変えず佐木を見上げる。 「俺の顔、見なくていいから、早くやれ」 「ああ」 「痛い…」 いれた瞬間、永井は、痛さに眉間に皺をよせた。 「うわぁ~。悪い!」 「佐木、痛い…。ゆっくりいれないで、もっと、プスっとやれ」 「こう?」 「うっ…佐木、俺の血抜きすぎ」 佐木が、永井の腕からはずした注射器を見ながら、永井が苦笑いを浮かべた。  永井は佐木に頼まれて、永井は佐木の実験台…もとい、佐木の採血の練習に付き合っている。佐木の注射の打ち方は、恐る恐るなので、 刺されている間中、じわじわとした痛みが永井の体に走る。  研修医はこうして、お互いに採血をしあい、注射に慣れていくのである。 「それにしても、お前って腕白いなぁ。おかげで血管探しやすいからいいけどさ。これでもうちょい骨細ければ、女みたい」 佐木が、永井の腕の傷口を脱脂綿で押さえながら、永井の腕をまじまじと見つめる。  生まれつき永井は色素が薄く、肌は、日本人特有の黄色がかった白さではなく、白人に近い肌の色をしているので、『色が白い』といわれ るのは、日常茶飯事だった。 骨は、小さい頃から牛乳を飲んでいたせいか、意外に太くしっかりしている。しかし、脂肪は少ないので、よく見ないと永井の骨太さには 気付かないのである。 「褒めてくれてどうもありがとう。お礼に佐木の血もぬいてやるよ」 「…いいよ。俺、ガキの時から注射苦手で…」 立ち上がった永井は、一瞬立ちくらみがしたが、逃げ腰な佐木の腰を抱き、自分が座っていた場所に座らせた。そして、注射器を楽しげに握る。 「はい。力抜いてくださいね」 患者に言うように優しく言うと、診察室でやったように手早く針を刺した。佐木は、本当に注射が怖いらしく、永井から目を逸らしている。 「いいよ。ほら」 永井の声に佐木は、永井の方に向きなおした。永井の手には、佐木の血を抜いた注射器が握られている。 「おお。すげぇ。お前、手馴れすぎてて怖いよ」 「それは、どうも。それよりも、注射覚えるんだったら、ちゃんと針見ろよ」 「わかったよぉ~」 佐木が、情けない声を出した。永井は、呆れ顔で佐木をみやると、注射器をしまった。  コンコン。そこにノックがし、佐木が返事をすると、無遠慮にドアが開けられた。  一条だった。 「お前ら、次、手術なのを忘れてないよな?」 低く怒気のまじった声で、ゆっくりと言う。 「あっ…すみません!!!」 「忘れるくらいなら、俺から離れるな!」 「はい!すみません!!」 佐木と永井は、即座に謝り、研修医室をでた。   「メス」  機械の音と一条の単語のみの指示が手術室に響く。一条は、受け取った術具を使いこなし的確な判断で手術を進めていく。  永井は、手術室の隅で何人かの研修医とともに一条が執刀医をしている手術を見学している。  三時間近く経過しようとしているのだが、永井は、脂汗を掻き始めていた。  やばい…と永井は、心の中で呟く。このまま手術が続くようならば、倒れてしまう。貧血で倒れるなぞ、そんな情けないことは、 できればさけたい。  しかし、手術中は、清潔に保っていないといけないため、見学といえど、手術着を着用し、周りのものに手を触れることは許され ないのだ。とうてい、後ろに寄りかかるなど厳禁だ。  そんな永井の様子に隣の佐木が気付いたようだ。 「大丈夫かよ?」 佐木が永井に耳打ちする。 「ん?うーん…。まあ」 「俺に少し、よっかかる?」 「いいよ。我慢出来るから」 いいながらも永井は耳が詰まり始め、視界がモノクロームへと変化していく。 「永井、出たほうがいいんじゃない?」 「……」 永井は、佐木の言葉に返事もせず、黙って一条の手に目を向けている。一条が傷口の縫合をしているので、もう少しで手術も終わりだ。 「もう少しで終わりみたいだな。」 「ああ…」 やっと、永井が佐木に返事をした。その声は力なく今にも消え入りそうだ。  縫合した糸を助手が結び、一条が確認をすると、手術は終わった。    グラリ。手術室から出る時、永井の意識はとんだ。 「おいっ永井!」 ちょうど、永井のまん前を歩いていた一条が素早く反応し、永井の身体を抱きとめた。一条の反応が遅ければ、永井は真正面から倒れて しまい、下手をしたら怪我をしていたかもしれない。 一条が、軽く永井の身体を揺するが、永井からは何の反応もない。 一条は、まだ手術着のままなので、シャワーを浴びないと、他へ移動も出来ない。 「俺、運びます!」 見かねた佐木が、一条に声を掛けた。 「二人で持て!気をつけろよ!!」 「はい。白石、永井持つから手貸して」 「しゃーねぇなぁ」 永井の身体を壊れ物でも扱うかのようにそっと佐木に渡すと、佐木と不満げな白石で永井の体を診察室へと運んだ。  目覚めた永井は、自分についている点滴に驚いた。  朦朧とする頭の中で、記憶をたどる。  手術を見学してて、途中で貧血起こして、手術が終わって、手術室を出たところまでは覚えてるのだが、そこから先がどうにも思い出せ ない。  「手術見学してて貧血なんて情けないな…」 永井は、一人呟き頭を抱えた。 「たしかに情けないな」 ドアの向こうから聞き覚えのある低く上品な声がし、永井がそっちに顔を向けると、そっとドアを開け一条が診察室に入ってきた。 「一条先生、すみません」 永井が、体を起こそうとするのを一条が永井の両肩をベッドに押しやり、それを制した。そして、肌蹴た布団を永井にかけてやる。 「佐木から聞いたが、術中から貧血起こしてたんだってな」 「はい…」 「それなら、なぜ途中で抜けたりしなかった?今回はまだ術後だったからよかったものの、術中だったら、倒れる場所によっては、じゃまに もなるし、周りに迷惑をかけていたんだぞ」 「自分では、大丈夫だと思ったんです」 「勝手に判断するな!」 「…すみません。以後気をつけます」 一条の怒鳴り声に永井は体を強張らせる。 「自己管理はちゃんとしろ。でないと、お前がどうなろうが構わないが、何度も言うようだが、周りが迷惑するんだ。 命を預かる仕事をする以上、自分の命にも責任を持て」 「はい」 「たく、一時間も気を失ったままだったんだぞ。今日は、もうお前がやるようなことはないから帰れ!」 一条は、そういうと、すぐに診察室を出て行った。 「すみません…」 永井は、一条の背中に向かって言う。自分に対しての情けなさでまともに一条の顔は見れなかったが、声から察するにすごく怒っているのはたしかだ。  今日は、一条を怒らせてばかりだ。明日もたしか手術があったはず。  永井は、ちょうど点滴が切れたのを確認すると、自分でそれを抜き、暗い面持ちで医局に戻り、家へと帰った。  帰宅後、永井は今日覚えた薬品の復習をし、ベッドに倒れ込むように眠った。    そう、夏希に電話することをすっかり忘れていたのだ。  夏希からの着信があったが、マナーモードのしてたため、爆睡中の永井には、まったく気付けなかったのである。

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