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第8話
「先生!713号室まで来てください!」
けたたましい看護師の声が、耳に響く。
まだ覚醒しきっていない永井の脳が、一気に目覚めた。
永井は、白衣を引っ掛けると、ボタンを締めながら、713号室へと急いだ。
ドアを開けようとしたとき、若い看護師とすれ違った。
「先生!中村さんの呼吸が止まりました!」
「ええっ!中村さんって、一条先生の患者さんで十二指腸潰瘍の術後で、順調でしたよね?」
「はい。今、一条先生、救急の緊急オペ中で…。だから、とにかくお願いします!」
動揺している様子の若い看護師に背中を押されるように永井は、病室へと入った。呼吸停止に遭遇するなんて、永井としては初めての経験である。
真っ青な顔で実際に呼吸が停止している中村を目の当たりにし、ひるみそうになったが、永井は、冷静さを取り戻すと、看護師に指示を出した。
「すぐに挿管します!」
「はい!」
若い看護師は、病室を出て行った。
すぐに若い看護師とさっき永井に連絡をした看護師が、必要なものを持って、戻ってきた。
「アンビューバックを!」
永井は、若い看護師からアンビューバックと呼ばれる手動式人口蘇生器を受け取ると、それを中村の口にあてた。
アンビューバックは、風船のようなものがついており、そこを押すと、空気が送り込まれるというものである。
口に当てた部分を若い看護師が抑え、永井が風船部分を押すが、中村の喉はなかなか開かない。
「開かない!喉頭鏡お願いします!」
「はい」
パルスオキシメーターという、指に挟んで測る計測器を見ているもうひとりの看護師に永井が指示を出す。
ここで、あせってはいけないのだと永井は、自分で自分に言い聞かす。
「先生、喉頭鏡です!」
手渡され、永井は、アンビューバックを若い看護師に渡すと、喉頭鏡という人工呼吸を行うための通り道である気管にチューブを挿入するための道具を用いいながら挿管チューブを
患者の喉へと通していく。
「よかった。開いた。」
しばらく、計測器と患者を若い看護師と一緒に慎重な面持ちで見ていると、中村の呼吸が自発呼吸へと安定してきた。測定器の数値も正常なものになってきている。
「先生、呼吸もどりましたね」
「そうだね」
安堵したような若い看護師の声がし、額の汗を拭いながら、永井も頷く。
永井は、一人のひとの命を救ったという実感が沸き、この仕事をしていてよかったと心底思った。
「永井、悪い」
そっと、ドアをあけ、一条が入ってきた。
「自発呼吸が、戻っているので大丈夫だと思います」
淡々と永井は、患者に目をむけたまま告げる。
「そうみたいだな。よくやった。ありがとう」
一条が、笑顔でいい、永井の頭をくしゃくしゃっと撫でてきた。
永井も側にいいる若い看護師も一条の笑顔を見るのは、初めてだったので、一条の様子に驚きの面持ちで、一条を見てしまった。
「どうした?」
「いえ。手、どかしてもらえませんか?」
「ああ。悪かった」
一条が手を永井から引っ込めると、永井は、わざとらしく髪を整える。
「あとは、お願いします」
一礼をし、永井は病室を出て行った。
一条は、永井の背中を見ながら、小さくため息をついた。
あのシャワー室でのこと以来、永井は、一条に対して、指導医としての意見には従うが、どうも素直に一条自身に対しては素直に受け入れられずにいた。
再び、医局に戻ると、時計の針は、六時になっていた。
三日間とも、運悪く看護師に起こされ、結局寝るのが朝になってしまっていたので、寝不足だ。
ロッカーに寄り、携帯を握り締めると、白衣のまま二段ベッドの下段に入った。
着信とメールが一件。
着信は、夏希からで、留守電は、入っていない。メールも夏希からだった。
『まーくん、こんばんは。今頃、お仕事中かな?忙しいってコトは、いいことだよね。
うん。でも、最近、メールも減っちゃったし、あたしは淋しいなぁ(ToT)
気がむいたらでいいんで、メールちょうだいね。』
夏希には、三日前にメールを送ったきり送っていない。読んではいるのだが、あとで返信をしようと思ったまま、朝を迎えていたのだった。
永井は、メールを読むと、胸が痛んだ。と、同時に夏希に会いたくなった。今日は、夕方までなので、そのまま夏希に逢いに行こうと、心に決め、返信しないまま、
眠りについた。
「眼鏡かけたまま寝やがって、器用なやつ」
低く呟きながら、永井の眼鏡を一条が、はずす。
「んん〜…なつ…きぃ〜…」
半分夢の中の永井は、掠れた声を出しながら、自分の側にいる一条の首に腕を回し、引き寄せようとする。一条は、引力に逆らうことなく
永井に身を任せてみる。永井の指が一条の髪を掻き揚げながら、自分の首筋へと一条の頭を導いた。
一条は、面白そうに口元を歪ませると、目の前にある永井の白い首からでている喉仏を舐めあげた。
「ちょ…夏希…っ…」
首を捻る永井を一条は、声を押し殺して笑う。
「おい。永井」
そして、永井から離れると、眼鏡をもったまま元の体勢に戻った。永井は、声に反応するかのように目を開けた。
ぼんやりとした視界でも、自分の頭上にある顔が、夏希でないのは、分かった。それにこの声は…。
「いっ…一条先生!?どうして?なんで!!!いてっ!」
引っくり返った声を上げながら、永井は、身体を起こした。二段ベッドの下段の天井は低いので、永井は頭を思いっきり打ってしまった。一条は、中腰のまま笑いを堪えて永井の様子を見ている。頭を抑えながら、永井は一条を睨んだ。
「なんでと言われてもだな。俺も寝ようとして、ベッドの空き具合を確認したら、永井が眼鏡掛けたまま寝てるから、はずしてやったんだよ。まさか彼女と混同されるとはな」
「……。」
一条の言葉を聞きながら、永井は、自分が夏希だと思ってしていたことを思い出し、顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「ほら、眼鏡」
一条が、手のひらに眼鏡を乗せ、永井の前に差し出した。
「…ありがとうございます。すみませんでした」
一条から目線を逸らし、か細い声で言いながら、眼鏡を受け取った。
「別に謝ることはない。それじゃあ、俺は、寝るから、九時になったら起こしてくれ。」
「はい…」
永井が眼鏡を掛けながら、答えると、一条は靴を脱ぐと上の段へと上っていった。
「あ、そうだ。くれぐれも襲うなよ」
「誰がっ、襲うもんですか!?」
ボソリ。一条が言うと、永井が顔を赤らめ、一条に怒鳴った。
その後、永井は一条に対しての怒りと恥ずかしさで眠れなかった。
午前中は、回診と蓮見の血液検査とエコー。その後は、一条の虫垂炎の腹腔鏡手術の助手をし、落ち着いたのは、三時近くになっていた
。
「午前中に検査をした結果なんですが、やはり、皮膚膿痕出てました」
医局の自分の席に座りながら、サンドウィッチを食べている一条に向かって、カルテを見ながら、永井が告げる。
「そうか。そういう場合は、どうすればいいか分かるか?」
カップに入ったブラックコーヒーを飲みながら、永井を見上げた。永井は、一条の視線を受け止めると、慎重に口を開いた。
「抗生物質を点滴で与えて、感染を抑制するのが大事ですよね」
「当たりだ。一日二回投与するのがいいだろう。親御さんには、連絡してその旨を説明しないといけないが、永井できるか?」
「はい。是非やらせてください」
永井が、一条に頭をさげる。。
「なら、あとは、任せた。さっき、連絡したから、もう少しでくるだろう。」
一条が、腕時計を見ながら言う。
「そうですか。お手数おかけします」
「気にするな。今日は、夕方までだろ?それが終わったら、帰っていいぞ。彼女との逢瀬でも、
しっかり楽しめ」
「あれは謝ったじゃないですかっ!!」
言いながら、一条が、立ち上がり、側にいる永井の首筋を軽く撫でた。今朝のことを思い出し、
再び永井は頭に血を上らせ、一条の手の甲をパチンと叩いた。
「いい反応だ」
一条は、楽しげに言うと、医局を出て行った。
数人が、永井の怒鳴り声に気付き、こっちを見ている。永井は、居たたまれなくなり、カルテを
もったまま、医局を出た。
そして、下から上って来たエレベーターに乗った。
「あれ?永井くん、どうしたの血相変えて」
一番奥にいた男に話しかけられ、永井は、冷静さを取り戻した。
「あ…小木さん、いや、なんでもないです」
「そう?いつもの冷静な君と違うから、何かあったのかと思ったよ。でも、怒ってる君もかわいいね」
「え?かわいい?」
小木が、永井の首下に触れてきた。ひやっとした指の感触に永井は、首を捻る
「ほら、ケーシーのボタンが一個取れてるよ。」
笑みを浮かべながら、小木がいい、ゆっくりと永井のケーシーのボタンを留める。鎖骨にあたる小木の指がくすっぐったい。
「ありがとうございます」
小木の指が離れると、永井は、軽く頭を下げた。
「いえいえ。本当、久しぶりに永井くんに逢えて嬉しいよ。最近は、通勤一緒にできなかったからね。…昨日送ったメールも返事くれないし」
「すみません!返そうとは思ってたんですけど…」
「忙しいから、無理もないよね。ところで、来週は当直あるの?」
小木が、永井の肩を軽く掴み、永井の目を見つめる。
「はい。水曜日がこっちで当直の予定です。あとは、状況しだいですが」
「…そう」
永井が、逸らせない瞳に誘導されるように答えると、小木が怖いくらいの綺麗な笑みを浮かべた。
永井の心臓は、バクバクと音をたてる。カルテを持った手には、なぜか汗を掻いている。
「あ、すいません。九階なんで降ります。それでは」
「うん。またね」
九階に着き、永井は、逃げるようにエレベータから降りた。
永井が、蓮見の病室を訪れると、ちょうど蓮見の母親が来ており、応接セットのソファに向かい合ったまま座り、明日からの治療を
説明した。蓮見の母親は、話だけ聞くと、「先生にお任せします」とだけ言い、帰っていった。永井も蓮見とすこし話をした後、病室を後にした。
三日ぶりにうちへ帰ると、エントランスの前に背の高いセミロングの髪の女が自動ドアに寄りかかっていた。
永井は、思わず立ち止まってしまう。
「夏希っ!!」
久しぶりに呼ぶ名前をエントランスに向かって叫んだ。
「…まーくん、お帰り」
その声は、心なしか疲れているようだ。
「ただいま。ほったらかしてごめんな」
永井は、夏希に近づくと、しっかりと彼女の身体を抱きしめた。久しぶりに感じる愛しいぬくもりに身を寄せる。
「ううん。」
夏希が、永井の首に自分の腕を巻きつけた。
「いつきたんだ?ちょうど今日、早く終わったから、明日も休みだし、こっそり夏希に逢いにいこうと思ってたんだ」
「あたしは、さっき来たんだ。…そっかぁ。まーくん、あたしに逢いに来てくれようとしてたんだぁ」
「ああ」
永井が、夏希の口唇に自分のそれを重ねた。そして、啄ばむだけのキスを繰り返す。いつもの夏希なら、積極的に永井に先へと促すのに今の夏希は、永井の口唇を目を閉じて受けいれているだけだ。
夏希の反応に違和感を感じた永井は、夏希から、そっと口唇を離した。
「…まーくんの口唇って、柔らかいね」
永井の口唇を人差し指でなぞりながら、夏希が悲しい目をして永井を見つめた。永井は凍りついたように夏希を見つめ返す。
「夏希、どうしたの?」
夏希は、ゆっくりとその人差し指を肌をなぞりながら下ろしていき、鎖骨を撫でる。
「まーくんって、すごいかっこいいってわけでも、美人ってわけでもないけど、なんかさフェロモンあるよねぇ。襲いたくなるってゆーかさ。あたしの場合、そこが先行しちゃったわけだけどさ。
でも、あたし、まーくんの優しさとかそういう中身のトコもスゴイ好きで…好きだったよ。好きだったんだけど……」
しゃべりながら、夏希の瞳には、涙が溢れていた。
「夏希、もうしゃべらなくていい」
切り捨てるように永井は言い、夏希の身体を背骨が軋むくらい強く強く抱きしめた。
「まーくん、ごめんね。」
「ううん。ほったらかしてた俺が悪いんだ。でも、ありがとう。わざわざ言いに来てくれて」
優しく優しく永井は告げ、そっと夏希の身体を自分から離した。
「…ううん。それじゃね」
夏希は、笑顔を作り、永井を見つめた。
「ああ。元気でな」
永井もつられて笑顔になる。
そして、夏希は、永井の言葉を聞くと、永井に背を向け走って行った。
残された永井は、彼女の姿が見えなくなると、携帯を取り出し、メールや着信履歴やアドレスを消した。
新しい日々を迎えるために…。
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