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第10話
トントン。
「はい。」
即座に永井が返事をすると、無遠慮にドアが開けられた。
「おお。永井か。やはりまだ残っていたんだな。送ってやるから、帰るぞ」
研修医室に入ってきたのは、一条だった。
「はぁ!?なんで、俺が一条先生に送られなきゃなんないんですかぁ?」
永井は、一条の突然の言葉に驚き、立ち上がる。佐木は、突然蚊帳の外に放り出されたような気分になってしまった。
「電車が、信号機に雷雨が落ちたとかで、しばらく動かないらしい」
「本当?!」
「嘘ついてどうする。信用できないなら、当直室のテレビでも見るか?」
「分かりました。信じます。それなら、俺、ここに泊まりますよ」
永井が、ソファに目をやりながら言う。一条の視界にやっと佐木の存在が入り込んできた。
「先週、ほとんど当直だったんだろ?うちに帰れる時は、うちに帰って寝たほうがいい。身体、壊すぞ」
「…じゃあ、タクシー拾います。」
苛立たしげに一条は、髪を掻き揚げる。
「かわいくないな。俺が送ってやるって言ってるんだ。素直に人の厚意は受け取っておけ」
そして、一条が、乱暴にカルテが挟んであるファイルを奪い、研修医室を出て行った。
「ちょっと、一条先生!?」
「これ、戻しとくから、駐車場で待ってる」
永井が、ドアを開け叫ぶが、すぐに意地を張ってしまった自分がバカらしくなり、研修医室の扉を締めた。
「…仲悪いのかと思ってたけど、仲いいんだなお前ら」
ボソリ。佐木が言う。ふたりのやり取りを見ているうちに佐木の欲情は、だいぶ冷めてきていた。
「勘違いするな。別に仲なんかよくないよ。」
ぶっきらぼうに言い、永井は、ロッカーに行った。
「お待たせしました」
駐車場で、車の前に立つ一条を見つけると、永井は、ゆっくりとそこに近づいていき、頭を軽く下げた。
一条は、何も言わず、車に乗り込むと、助手席のドアを中から開けた。永井は、一条に促されるまま、車に乗り込む。
一条の車は、黒のクラウンで、外装だけでなく、内装も黒である。一条に似合う車だと永井は、思う。
シートベルトを締め、落ち着かない様子で、窓の外を見ている永井を一条は、ちらりと見やると、車を発進させた。
駐車場を出ると、外は、一条の言うように雷雨を伴った激しい雨が、降っており、窓の景色は雨で滲んでいる。
「行き先は?」
「磯子までお願いします」
「了解。ラジオつけるな」
「はい」
窓の外に目を向けたまま、永井は答える。一条は、ラジオをつけ、永井の横顔を盗み見る。
どこかのFMラジオから流れる曲だけが、車内で流れる唯一の音だ。
「前見て運転してください」
一条の視線に気付いた永井が、一条の方をやっと振り向いた。二人の目線が、一瞬だけ合う。そして、一条は、前に向きなおした。
「やっと、こっち、向いてくれたな。」
「え?」
「ほとんど無理やり車に乗せた俺も悪いが、こういう時くらいしゃべってくれてもいいだろ?嫌なら降りるか?傘くらい貸すが」
静かに低く一条が言う。その声は、怒っているようにも聞こえるが、悲しそうにも聞こえる。
「…すみません。不快に思ったのなら、降ります。」
永井が、シートベルトをはずす。あわてて一条が左手を伸ばし、永井の右手首を掴んだ。
「そういう態度が癪に障るんだ」
「だから、降りるって…」
「降ろさない。」
ギリギリと一条が永井の手首を掴む手に力を込める。永井は、痛さに眉をしかめながら、一条の手を両手で剥がそうとするが、びくともしない。
「離して下さい!」
「シートベルトをつけたら、離してやるよ。」
「……。」
永井は、一条の顔を睨みつけてから、空いている左手で、シートベルトを締めなおした。カチャッという音が聞こえると、一条は、永井の右手首を開放した。
開放されたそれには、薄っすらと指の跡が残っている。
永井は、右手首を擦りながら、一条の横顔を見る。信号が赤になり、一条が永井の方に顔を向け、永井の右手首に手を伸ばした。永井の表情が一瞬強張ったが、今度は優しく掴むと、
一条は、自分の方へと引き寄せた。
「悪いな。少し跡になってしまったな。」
手首を撫でながら、ついさっきとは、違う優しい声音で一条が、言う。
「いえ。このくらいなら、明日には消えます」
「素直に痛いんだったら、痛いといえ。疲れないか?いつもそうやって、壁で自分のこと塗り固めて」
「どうでしょう。長年そうしてきたから、疲れるも何もそれが当たり前になってるんで。あ、信号、青になりましたよ。」
「ああ。分かってる。もう少しで磯子だが、どうすればいい?」
前に向きなおし、一条が、永井の右手首を掴んだまま聞く。
「次の信号を右に曲がってください。それと、いいかげん手離してください」
「了解」
一条が、名残惜しそうに開放した。
「あの、そういえば、先生って、うちはどこなんですか?」
「うちか?うちは、病院から見て永井んちとは、逆方向だな。」
一条が、永井をちらりと見やり、嬉しげに言う。
「そうだったんですか?本当にすみません。」
永井が、一条の方を向き、頭を下げる
「気にするな。俺が送るって言ったんだ。それよりも、やっと永井が仕事以外のことを俺に聞いてくれたな」
「そうでしたっけ?」
「そうだ。仕事熱心なのはいいが、もう少し肩の力を抜いた方がいい。あたられるこっちの身にもなれ」
あたられる?その言葉に永井は、思い当たる節がなく、怪訝な顔で一条の横顔を見る。一条は、口元を歪め、信号を右に曲がった。
「気付いてないみたいだな。プライベートで何があったか知らんが、今日の永井はいつもより俺に対して刺々しさが増してたぞ」
「あ…」
思い当たることといえば、夏希と二日前に別れたことだ。それが、一条に対しての態度に表れてたとは、永井には思いも寄らなかった。
永井は、ひとに当たってしまっていた自分が恥ずかしくなり、顔を赤らめ、それを悟られないように窓の外に目を向けた。
「思い当たる節があるってわけか。」
一条が、含み笑いを浮かべる。
「…彼女と別れたんです。」
窓を見たままで、永井がぽつりと言う。
「そうか。」
一条は、すべてを受け止めるように言い、それ以上なにも言わなかった。
たった一言だが、永井の心は、一条に打ち明け、受け止められたことにより、軽くなったような気がした。
「ここでいいか?」
永井のマンションの前に車を止め、一条が永井を見つめる。
「はい。ありがとうございました」
永井は、笑顔で一条を見返した。
二人の視線が重なり合う。
瞬間、初めて、永井は一条の眼差しの暖かさに気付いた。少しずつ少しずつ自分で覆っていたものが、一条に剥がされていく感覚に永井は、
戸惑い、目を逸らした。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
永井は、ドアを開け、一条の車から出た。
うちに帰ると、永井はベッドに直行した。
そして、仰向けのまま、携帯を見ると、小木からの着信とメールが一件ずつ入っていた。
『おつかれさま。昼間、電話したんだけど手術中だったのかな?
明日は、朝一緒に行ける? 大丈夫なら、TELちょうだいね』
永井が、明日は通常通りだったので、小木に『大丈夫です』と、メールを打とうとした時、病院から着信がきた。
「はい。」
「永井先生、胆石で入院の林さんが、嘔吐しまして、至急、病院に来てください」
「嘔吐!?もしかして、腸閉塞とか?今、誰がついているんですか?」
「佐木先生が、いたので…。でも、一条先生にも念のため連絡しておきました」
「一条先生?分かりました。急いでいくので、お願いします。」
永井が、電話を切ったと同時に着信が来た。今度は、病院ではなく、登録をしていない番号である。
「俺だ。一条だ。今から、そっちに戻るから、待ってろ」
それだけ、言うと永井の返事も待たずに電話はすぐに切れた。
永井が、傘を差して、さっき別れた場所で待っていると、二十分もしないうちに一条がやってきた。
永井の前で車を止め、乗った時と同じように助手席のドアが開けられた。
「乗れ」
「はい。すみません」
頭をさげ、傘を閉じて、永井が車に乗り込む。
「林さんだったな?」
「たしか、腹膜炎になったことがあるらしいので、癒着による腸閉塞なのではないかと…」
「診てないから、断言できないが、その可能性もあるな。」
「はい」
真剣な眼差しで、永井が一条を見ていると、一条は、口元を歪めた。
「着くまで時間があるんだ。ここで、ああだこうだ言っても意味がない。」
「そうですけど…」
自分の患者の容態が悪化したのは、永井にとっては初めてのことなので、気が気でないのである。手に汗を掻きながら、ぎゅっと拳を握る。
一条の手が永井の右手に伸びると、そっと、それを包んだ。永井は、それを剥がすことなくただ受け止める。
「ああ。そうか。こういう事態は初めてなのか?」
「はい」
「現場に行ったときに対処すればいいわけだから、とにかく林さんと佐木を信じろ。それと、俺からの助言だ。寝れる時に寝とけ。椅子倒していいからさ。
着いたら、起こすよ」
「先生に悪いですよ」
「俺は、向こうで寝る。明日も手術なんだ。また、倒れられたら困るからな」
「分かりました」
従うように言うと、永井は、椅子を少し倒し、寝る体制になった。
「おやすみ」
永井から離れた手で、永井の頭を優しく撫でる。永井は、その心地よさに身をゆだねるように目を閉じた。
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