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第12話

午前中は、遅刻のせいで、バタバタしてしまったが、午後からは、患者の容態も安定していたので、いつもどおりの業務を無事にこなせた。  「お疲れ様でした」  食事を済ませ、当直室に戻る途中、永井は一条とすれ違った。 「ああ。お疲れ。当直中、なにかあったら、すぐに連絡しろよ」 「はい。でも、できれば呼ばないようにはしたいんですけどね」 「それは、こっちのセリフだ」 一条が、永井の額を小突く。 「先生、手加減知らないから、痛いですって」 永井は、額を押さえるが、その表情には、棘とげしさがない。 「悪い。この間は…」 「そのことはいいです。もう消えてるんで。」 永井が、右手首を一条の前に見せた。一条は、それを優しく掴むと、安心したような笑みを浮かべた。 「安心したよ。たしかに消えてるな。」 「でしょ?」 永井が、微笑む 「また明日な。ちゃんと寝ろよ」 「はい。おやすみなさい」 永井が返すと、一条は手首を離し、永井の横をすり抜けていった。  一条が自分の視界から消えた途端、妙に淋しい気持ちが、永井の心を覆う。永井は、思わず後ろを振り向いてしまった。  同じようなタイミングで、一条も後ろを振り向き、二人の視線が重なった。  永井は、それが気恥ずかしく、一礼すると、きびすを返し、当直室へと歩き出す。  でも、やはり一条が気になってしまい、再び後ろを振り向いたが、一条の姿はなかった。  後ろを向かなきゃよかったと小さな後悔が、永井の胸をきしきしと締め付けた。  当直室に戻り、ベッドに横たわるが、今日に限ってなぜかなかなか寝付けない。 「見回りでも行ってみようかな」 上体を起こし、永井が呟く。肩まではずしていたケーシーのボタンをとめ、髪の毛を手櫛で整えると、当直室を出た。薄暗い廊下を歩き、 そっと自分の患者の病室のドアを開けた。患者の寝顔を確認し、そっと、病室を出る。三部屋ほど回り、エレベーターで、蓮見の病室がある九階へ向かう。 最近の蓮見は、夜中に永井を呼び出すことがなく、おとなしく治療に専念をしているようだ。  九階は、人気がなく静かな廊下に永井の足音だけが、響く。  コツコツコツ。  後ろから、別の足音が聞こえ、永井は、反射的に振り向いたが、誰も永井の後ろには、いなかった。どこか不気味さを感じつつも、特別室である蓮見の病室を小さくノックする。  「なに?」 眠っていると思っていた蓮見の声が、返ってきて、永井は、どきっとしてしまった。深呼吸をし、平静を取り戻す。 「永井だけど」 「永井先生!?どうしたの?そっちから、来てくれるなんて珍しいじゃん。入れば?」 「様子見にきただけだから、すぐに戻るよ」 はしゃいだ素振りの蓮見の声が返ってきて、永井は静かにドアを開けると、病室へと入る。そして、蓮見の傍らに立った。 「座れば?ソファもあるし、椅子持ってきてもいいし」 蓮見が、上体をゆっくり起そうとするの永井が背中を支え、手伝う。 「言ったろ?すぐに戻るって。どう?昼間に抜糸とドレイン二本抜いてみて。痛みはない?」 「大丈夫。最初の痛さに比べれば、全然平気なんだけどさぁ。それよりもいいかげんここにいるもの厭きたよ」 うんざりといった顔で、蓮見が永井を見る。 「もうすこしの辛抱だよ。ドレインも一本だけになったし、あと…一週間くらいで退院できるんじゃないかな」 「げー、一週間もかよぉ。それ、せいしょーねんには、キツイよ。言い換えれば、一ヶ月もエッチできないってことだろ?ひとりエッチも入院してから、してないつーのによぉ」 「そうだね。でも、それ、言われても俺にはどうすることも出来ないよ。っ蓮見くん!?」 「そっか。その手があったんだ♪ねぇ先生、治ったら、俺とエッチして」 永井が、苦笑いを浮かべると、蓮見が、永井の腰に腕を廻し、額を腹につけてきた。永井は、患者を乱暴に扱うわけもいかないので、困った顔をしながら、蓮見の手首をを掴み、優しく自分から引き離そうとしたが、 蓮見の力は強く、なかなか離れてくれない。 「そういう冗談は、好きじゃないんだ」 怒気を含んだ声で、永井が静かに言う。 「マジで言ってんだけどなぁ。いいじゃん。一回くらい。だって、先生、昼間一緒にいたおっさんとデキてんだろ?」 「おっさんて…一条先生のこと?どうして、そう思うかなぁ。俺、そういう嗜好ないよ」 蓮見の意外な言葉に永井は、怒るのも通り越し、呆れてしまった。 「だってさぁ。あのおっさんが、俺に永井先生を夜な夜な呼び出すのはよせみたいなこと言ったんだよぉ。俺を見る目こわいしさあ。てっきり、おっさんの所有物なのかと 思ってたけど?」 「え?そうだったんだ…。きっと、目が怖いのは、一条先生の顔が悪人ヅラなだけで、俺とは関係ないと思うよ。しかも、所有物って…」 「なんだ。違うんだ。それにしても、前々から思ってたけど、先生って、腰ほそっ」 「だから、やめてくれって…」 蓮見が、腕を強くし、しがみつくように永井の腰を引寄せた。 「今晩は、あきらめるけどぉ、もう少しだけ、こうさせて。」 甘えるように言われ、永井は抵抗する気をなくした。 「しょうがないな。三分だけ、こうしててあげるよ。」 永井が、腕時計で時間を確認し、宥めるように言う。そして、蓮見の両肩に手を乗せた。 「サンキュー先生。」 「……。」  蓮見は、それっきり黙ったまま永井に抱きついている。時折、永井は腕時計で、時間を確かめながら、蓮見の背中を撫でた。蓮見が持つ温度は、熱く、夏希を彷彿させた。  「時間だよ」 静かに言い、蓮見の背中から、手を離した。 「うん…」 蓮見は、名残惜しそうに永井の身体から、離れた。 「いい子だね」 「わがまま、もう一個言っていい?」 蓮見が、永井の右手を両手でひっぱった。 「何?」 蓮見の目を見つめる。 「キス」 「無理。」 間髪いれずに永井はいい、蓮見の手から離れると、背を向けた。 「ケチ!」 蓮見の声を背中に受けながら、永井は病室を出た。  廊下は、先程と同じく、薄暗くしんと静まり返っている。  「先生」 永井が、当直室に戻ろうと、エレベーターがある方へ向きを変えた時、背後から、掠れた女のような男のようなどっちとも取れるような声が聞こえた。 さっきの足音のこともあり、不気味さを感じつつも永井は、後ろを振り返った。  「先生」 もう一度同じ声が聞こえ、永井は声の場所が、角部屋である蓮見の隣の病室からしているのが分かった。  そこは、蓮見の部屋よりも広く上の部屋で、現在は誰も使われていないため鍵が掛けられているはずである。  「永井先生」 部屋に向かうのをためらっていると、今度は、確実に自分を呼ぶ声が聞こえた。  深呼吸をし、永井は声に導かれるまま部屋へとゆっくり向かう。

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