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第15話

澄んだ青が空を覆いつくす。フェンスの向こうには、キラキラ輝く海が広がっており、逆側には、富士山が薄っすら見える。  大中小の木が立ち、その周りには、芝生が敷き詰められており、舗装された道を散歩したり、ベンチに座ったりと緩やかな午後の時間が、ここ屋上外観庭園には、流れている。  永井は、風に木の葉が揺れている様を紙コップのコーヒーを片手に眺める。 午前中は、蓮見の虫垂にたまった膿の洗浄と一条の回診だった。仕事中、永井は、一条の目が見れず、態度も以前のようにそっけなくなってしまっていた。でも、一条に冷たくすればするほど、永井自身も心が痛んでいた。 だから、永井は昼休みになると、荒んだ心を落ち着かせるためにひとりになれる屋上を選んだのだった。 じっとしていると、背中や尻の後ろが、ズキズキ痛むが、周りの空気に心は、浄化さえていく気がする。などと思っていたとき、頭上から蓮見の声がした。  「永井先生、お隣いいですか?」 「構わないけど」 永井が少し端によると、蓮見は、嬉しそうに笑いながら、お腹に負担をかけないようにゆっくり座った。 「ちょうどよかったあ。先生に聞きたかったことがあったんですよ。」 「何?」 永井は、コーヒーを口につけたまま、蓮見を見る。 「朝は、おっさんとかがいたから、聞きにくかったんですけどぉ、俺と会ったあと、隣の部屋に行きませんでしたか?」 「…なんで、そんなこと聞くの?」 空になった紙コップを握りつぶしながら言う。。 「気のせいかもしれないけど、隣から『殺してくれ!』って、怒鳴り声がしたんです。それが、先生に似てるなあと思ったんですけど、それっきり声が聞こえなくなっちゃったから、なんとも言えないんですけどね。」 「蓮見くんの気のせいだよ。俺は、すぐ当直室に戻ったしね。それにあの部屋は、昨日、退院したばっかで使われてないはずだから、ひとがいるのは、おかしいよ」 「先生が言うならそうかな。……でも、よく分かりましたね。俺の隣には二部屋あるけど、隅の使われてない方を言ってるって」 意地悪そうに笑いながら、蓮見が永井を見つめた。永井の表情が、蓮見を見たまま、凍る。 ブルブル。その時、白衣のポケットにいれていた永井の携帯が振動した。 「ごめん」 空気を断ち切るようにいい、携帯を取り出す。新着メールが一件入っているが、それは、永井の知らないアドレスからだった。 件名は、『記念写真』と、書かれており、一瞬、読むのを躊躇ったが、メールを開けてみた。 すると、画像が開き、携帯を持つ手を震わせ、永井の顔が、みるみるうちに真っ青になっていった。 それは、舌を絡めあっているシーンを口元だけ、写したものだった。  二人とも顔は見えないが、ひとりは、鼻から下が写っており、その下唇の左端にある小さなほくろが、永井だという事を象徴している。 もうひとりは、うまい具合に口唇の先と舌しか写っていない。いつ撮られたものかは、安易に予想できる。 永井は、最中、シャッター音が聞こえたので、男が自分を撮っていたのは分かったが、キスの時にも撮られていたのには、気づかなかった。 「先生、すげぇ顔色悪いよ。どうしたの?」 蓮見が、永井の肩を掴み、困惑した顔で永井の顔を覗き込む。 「いや、なんでもないよ」 額に滲む汗もそのままに笑顔を作りながら言い、震える指でメールごと画像を削除した。 「なんでもないなら、手なんか震えるわけないだろ!?」 蓮見が、永井の肩を揺すりながら、もう一方の手で、携帯を持つ手を握る。 「ただの寝不足だよ。寝付けなかったから」 「ホントにそれだけ?今、着たメールが原因なんだろ?いや……その前に俺が、先生の声聞いちゃったって、言ったから?」 蓮見は、永井の肩に指が食い込むくらい強く肩を掴み、食い入るように永井を見つめる。永井は、避けることなく、冷めた目で、蓮見を見つめ返した。 「本当に蓮見くんは、『殺してくれ』て、声を聞いたんだよね?他には何も聞こえなかった?」 「うん。だから、俺、隣に行こうとして、起きあがろうとしたんだけど、傷口が痛くなって……。声はマジそれ以外聞こえなかったよ。なあ、先生?あそこで何してたの?『殺してくれ!』って、普通言わないよね?誰にも言わないから、教えて!」 蓮見は、永井の両肩を揺する。 「たいしたことじゃないんだ。開いてたから入ってみたら、ゴキブリがいてさ。 俺、ゴキブリが嫌いだから、思わず『殺してくれ』て、叫んじゃったんだ。ほら、いちおう、あの部屋は、勝手に入ってはいけないからね」 曖昧に笑い、携帯をポケットにしまい、蓮見の両手首を掴んだ。 もしも、あのとき、蓮見が来ても、今の身体の蓮見では、男から自分を助けるの は、難しかっただろう。下手したら、あの男の力では、蓮見の身が危なかったかもしれない。 それにあんな醜態を他人に晒け出すなんて……と、考えると、蓮見が、来なくてよかったかもしれないと、思う反面、助けて欲しかったとも永井は思った。今となっては、後の祭りだが……。 「なんだ。先生、ゴキブリ嫌いなんだ。そういうのかわいいね。」 蓮見が、にっこり笑う。 「かわいい?」 永井がきょとんとした顔で蓮見を見つめた。 「たしかに先生はかわいいけど、そんな嘘、真に受けるわけないじゃん。いいよ。看護師さんとかおっさんには、黙っててあげる。先生が言いたくないなら、聞かない。その代わり、また、俺に会いに来て。」 言うと、蓮見は、永井の口唇に触れるだけのキスをした。永井は、目を開けたまま、それを受け入れた。 「……三日後に当直がある。その時に忙しくなければ、病室にいくよ。」 永井は、蓮見の口唇が離れると、蓮見のキスに催眠術でもかかったかのように温度のない声でそう告げた。 「安心して。今の俺の身体じゃ、先生を襲うなんて無理だよ。キスくらいならできるかもしれないけどね。 こういうやり方って、あんまりしたくないけど、俺は先生に逢える口実が欲しいだけなんだ。先生、好きだよ」 蓮見が、緩く永井の身体を抱きしめる。永井は、されるがままに蓮見の肩に額をつける。蓮見が持つ熱は、やはり熱いと永井は思う。 「悪いけど、君の気持ちには応えられない。」 「うん。わかってる。でも、約束は守ってよね。」 「ああ。それはもちろん」 永井は、それだけ言うと、蓮見の身体を押しやり、元通りに戻った。 「サンキュ。」 蓮見は、立ち上がり、永井に一礼すると、ひとりで風景へと消えてしまった。  再び、永井は風に木の葉が揺れている様に目を向ける。  不思議と蓮見から受けたキスは、男だというのに嫌な感じがしなかった。  一瞬だから、嫌悪感を感じる間もなかったというのもあるが、蓮見の温度が夏希と似ているからだ。束の間の懐かしさを永井は、蓮見から感じていた。  それは、現在進行形で想う恋というよりは、たまに思い出して、眺めてみたいアルバムの写真のような感覚である。  永井は、自然に顔を綻ばせた。そして、空の紙コップを手にすると、ベンチから立ち上がった。  この昼休みの時間は、大きな影とわずかなぬくもりを永井にもたらした。

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