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第16話
「永井」
昼休みが終わり、医局に戻ると、待ちかまえていたように一条が永井に近寄ってきた。
「はい。なんでしょうか?」
永井は、立ち止まり、一条から目線をはずしたまま言う。
「午後から、大学で、中本先生の代わりに古塚先生の助手をやることになってな。四時には、こっちを出たいんだ」
一条は、永井に視線を注ぎながら言う。永井は、一条の視線を視界の端に感じつつも逸らしたまま受け答える。
「はい。それで、午後から俺は何をすればいいでしょうか?たしか、先生の患者の木村さんと山田さんが、点滴でしたよね?」
「ああ。そうだ。よく分かってるな。木村さんは、四時からで、山田さんは、五時からやってもらいたい。もちろん、その管理も頼んだぞ。」
「はい。」
「それと、高橋医院から、もう少ししたら、患者が来るから、お前も一緒にくるように」
「分かりました。」
「これが、患者のカルテだ。目を通しておけ」
「はい。」
「……。」
一条は、手に持っていたカルテを永井に渡した。永井が、それを両手で受け取ると、一条の視線が、手首に釘付けになった。
慌てて、永井はそれに気づき、手首を隠すようににカルテを見ながら、一条に背を向けた。
「……いつもの腕時計は、どうした?」
背後から、一条が永井の背に手を添えた。その瞬間、永井の顔が引きつり、肩をびくつかせ、カルテが永井の手から落ちた。
永井の身体は、深夜の出来事のせいで、背後の気配に過敏になってしまっていた。
「悪い」
謝りながら、カルテを一条が拾ってあげようとすると、同じくカルテを拾おうとした永井の指先と一条の指先が、触れ合った。
永井は、身体を強ばらせ、一歩後ろに後ずさり、尻餅をついた。床に尻がつくと、ピリっとした痛みが尻の後ろから走り、眉をしかめてしまう。
「永井、どうした?」
一条が、カルテを手にとり、永井の顔を心配そうに覗き込む。
「いえ。なんでもないです。」
立ち上がろうとするが、腰に力が入らず、永井は、再び尻餅をついてしまった。
一条は、たかが背中に少し触れただけで、こんなに動揺しているというよりも怯えている永井に違和感を感じた。
そういえば、朝も後ろ髪に触れただけで、表情が変わっていた。昨日までの永井なら、嫌なら払いのけるくらいの気の強さを持っていたはずだ。
「ほら、掴まれ」
中腰になり、一条が、永井の前に手を差し伸べた。永井は、躊躇いながらも一条の腕を掴み、立ち上がった。
「…すみません」
一条から、手を離し、小さい声で言いながら、頭を下げた。
「気にするな。それよりも、体調が悪いなら、早退できるように話しておこうか?」
「いえ。具合は別に悪くないです。大丈夫です。夜までちゃんと働けます。」
「そうか…。それなら、構わないが、無理はするなよ。」
一条が、穏やかに優しく言う。
「ご心配ありがとうございます。…先生、そろそろ病室に行ったほうが、いいんじゃありませんか?」
「そうだな。その前に俺は、ドクターズウォッチを持つから、お前は、この腕時計をしてろ。」
腕にしていたロレックスヨットマスターロレジウムをはずす。。
「そんな…。それなら、ドクターズウォッチのほうを貸してください」
「だめだ。それ、隠したいんだろ?昨日までしてた腕時計がないのもそれのことも今は聞かないでおいてやるから、とりあえず、これを着けろ」
「……。」
一条が、永井の左手首を捕らえると、ロレックスヨットマスターロレジウムを永井につけた。永井は、じっと自分の手首を見つめる。
「右手の方は、袖でごまかして、隠せよ。」
「すみません」
「暗い顔するな。仕事中だぞ。」
「すみません」
掠れた声で、永井は、頭を下げた。じりじりと一条の優しさが、永井の胸を締め付ける。
一条は、永井の頭をぽんぽんと軽く叩くと、自分の机の引き出しから、ドクターズウォッチという簡易脈拍計算尺付のシルバーのポケットウォッチを取り出した。
そして、胸ポケットにそれをつける。
「さて、いくか。お前は、隣で黙っていとけ。」
「はい」
一条は、ドアに向かって、歩き出すと永井もその横について歩いていった。
今度入院するという患者というのは、有名な会社の社長らしく、恰幅のいい頭の半分くらい髪の毛が禿げ上がった男だった。
入院する病室というのが、永井が、強姦された特別室で、永井は、両手を握り締め、得体の知れない緊張感に襲われながら、一条の後について、病室に入った。
一条は、患者に軽く挨拶をすると、病室を出た。
「どうした?えらく緊張してるみたいだが?」
エレベーターの前で、一条が、永井に問いかける。
「え〜と…ああいう方を担当するのは、初めてなので…」
俯いたまま、しどろもどろに嘘の理由を永井が述べる。
「病気に偉いも偉くないも関係ない。永井なら、理解してるとおもったけどな」
「そうですね。すみません」
笑顔をつくり、永井は一条を見上げた。
「無理して笑わなくていい。今日の永井は、見ていて胸が痛くなる。朝、俺には関係ないと言われたが、それなら、普段どおりのお前を嘘でもいいから、演じられるだろ?
何をお前は怖がっているんだ?俺が、何かしたか?…いちいち、逃げられちゃ、接していて、疲れるよ。」
一条が、永井を見つめたまま、冷たく言い放つ。グサグサと一条の言葉が突き刺さる。
「すみません。明日からは、気をつけます。先生は、何も悪くないんです。俺に原因があるだけでして…」
永井が、今にも泣きそうな勢いで、一条を見つめ返した。
「分かった。」
それだけ言うと、一条はちょうど開いたエレベーターに乗った。永井もそのあとに続いて乗るが、ふたりの間にその後会話は、なかった。
永井は、その後の業務を一条の腕時計とともに過ごした。
誰も居ない研修医室で、着替えると、ベッドに腰掛け、天井を見上げる。
今日は、手術もなかったので、たいして疲れることもしなかったが、一日が非常に長く感じられた。
ブルブル。バッグの中で、携帯が、振動した。
携帯をバッグから取り出し、画面を確認する。どうやら、メールのようだ。
件名は、『記念写真?』と書かれており、アドレスは、昼間と同じである。削除しようか迷ったが、メールを開けてみることにした。
震える指先で、携帯のボタンを押す。
それは、ケーシーのボタンを全て開け、白い裸体を晒したままソファで仰向けになっている男が、別の男の陰茎を手首に痣のある右手で握っているというものである。
ソファの男は、鼻から下が映っており、男の方に首を傾かせ、口を半開きにし、右乳首が、赤く腫れている姿が、卑猥だ。強姦の後というよりは、ただの情事のあとで、コトが終わっても、まだ陰茎を欲してるようにも見える。
顔が、映っていなくても、昼間送られてきた画像よりもソファの男が明らかに自分だというのが分かる。
気を失っている時に撮られたものだろう。
永井は、自分の右手を広げ、苦々しげに見ると、トイレに駆け込み、しつこいくらいに右手を洗った。
自分の右手が、とてつもなく汚らわしいものに思えてくる。
洗っても洗っても穢れは、消えてはくれない。
永井の目に、今日一日の苦しみを吐き出すように涙が零れ、その場で崩れ込み、手で顔を覆い、声を押し殺して泣いた。
流しっぱなしの蛇口の水もまるで永井の涙のように流れていく。
「永井くん?」
「!?」
突然、背後から、声がし、永井の肩がびくりと跳ねた。泣いていたのも自然に止まり、身体を強張らせる。
「やっぱり永井くんか。」
たしかめるようにゆっくりと穏やかな口調で、背後の人物がしゃべる。その声に永井は、思い当たるふしがあり、恐る恐る首だけで後ろを向き、上を見上げた。
「小木…さん?」
蛇口の水を止める私服姿の小木と永井の目が合った。
「……。」
「……。」
「なにかあったの?」
中腰になり、小木が心配そうに永井の目をじっと見つめると、永井は、その目に吸い込まれるように小木の胸に飛び込んだ。そして、再び涙が溢れ出た。
小木は、優しく永井の身体を抱きとめ、何も言わずに背中を撫でる。
背中に廻された腕に永井が身体を、一瞬ビクッとさせると、小木は、手を離し、永井の肩を抱いた。
自分のシャツを濡らす永井を見ながら、その口元に不気味な笑みを浮かべて…。
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