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第17話

 永井のすすり泣く声が、トイレに静かに響く。  永井は、小木のシャツを掴み、その胸板に顔を押し付けていた。 じわりじわり。小木の白いシャツに涙で濡れていく。 その間、小木は無言のままずっと永井の肩を抱いていた。 「……。」 「……。」  やがて、永井は、涙が枯れると、ゆっくりと顔をあげ、潤んだ瞳を小木に向けた。  小木は、綺麗な笑みを向け、永井を見つめ返した。  目が合った途端、永井は、自分が置かれている状況が恥ずかしくなり、ほんのりと頬を染め、小木から半歩後ずさった。そして、眼鏡を掛けてから頭を下げた。 「すみません。長い間、抱きついてしまって。シャツはきちんと洗ってお返しします。こんなとこ人に見られたら、小木さんに迷惑ですよね?」 「ううん。迷惑だなんてちっとも思っていないよ。むしろ君が僕を頼ってくれるなんて、光栄だよ。シャツのことも気にしなくていい。そのうち乾くしね。」 「……すみません」 「永井くん、謝らなくてもいいよ。僕が好きでやってるんだからさ。ねえ?そんなに僕に申し訳ないって思うなら、これから夕食に付き合ってくんない?」 「え?はい。構いませんが…。」 突然の誘いに戸惑いながらも、永井は、小木の誘いに承諾した。 「よかった。このまま家に帰ってひとりで、食事するのも侘びしいなと思ってね。君がOKしてくれて本当に助かったよ」 小木が、目を細めて笑う。 「俺でよければいつでも誘ってください。てっきり俺、小木さんなら、彼女いるかと思いました。」 「まさか。いないよ。仕事だけが恋人ってね。そうだ。こんなとこで話してないで、そろそろ、出ないとね。」 「そうですね。」 小木に促され、永井は、トイレを出た。 小木の手が、さりげなく永井の腕に触れようとした瞬間、永井が、ふと胸に沸いた疑問を口にした。 「でも、どうして小木さんが、外科病棟にいたんですか? 小木さんて、小児科でしたよね?」 「ああ。帰る時にね。下で君のお友達に会ってね。それで、君がまだ研修医室にいるってことを知ってさ。一緒に帰ろうかなと思って、外科に行ったわけ」 「それなら、電話くれればよかったのに」 「院内でメールや電話しても、君とちゃんとつながったことあったけ?」 「……ないですね」 「だよね?だから、直接行く方が、近いと思ってね」 「すみません……。ここで待っててください。荷物取ってくるんで」 永井は、小木を置いて、研修医室に入った。ベッドには、投げ捨て、開かれたままの携帯が転がっていた 永井は、それを手に取ると、先程の忌々しいメールを画像ごと削除し、バッグにしまった。 そして、バッグを肩に掛け、ケーシーが入った紙袋を持ち、研修医室を出た。  「お待たせしました」 「行こうか?」 「!?」 小木が、永井の背中に手を添えた瞬間、びくりと永井は肩を跳ねさせ、小木から半歩離れた。 「……小木さん、すみません」 「なにが?」 「今、露骨に避けてしまったみたいで……。別に小木さんのことが嫌ってわけじゃないんですよ。ただ、びっくりしてしまって」 「いいよ。気にしてないから。」 小木が、永井の僅かに震える指先を見やり、いつもの笑みを浮かべた。  小木に連れられて来た場所は、海鮮居酒屋だった。  入り口には、生簀があり、カウンター席とテーブル席、奥には座敷があり、賑わっている。  永井は、小木の後ろにくっつくように歩き、奥の座敷へと行く。座敷は、入り口とは違い、静かだった。  永井は小木が座ると、小木に促されるまま落ち着かない様子で向かい側に正座をして座った。小木は、そんな永井の様子を見ながら、微笑ましそうに笑っている。 「意外ですね。小木さんなら、もっと静かな……ワインとかが似合いそうな場所なのかと思ってました。」 「そう?まあ、ワインも好きだけど、日本酒の方が好きだよ。永井くんはそういう店の方がよかった?」 「いえ。そっちの方がもっと落ち着かないよ」 「それなら、よかった。」 にっこり笑い、お品書きを広げる。 「永井くんって、日本酒呑める?」 「多少なら……。」 「て、ことは、だいぶイケるってことだね。好き嫌いは?」 「特にないですけど……。」 「じゃあ、適当に頼んじゃうね。」 「はい」 小木に押し切られるように言われ、永井が頷くと、小木が、店員を呼び止め注文していく。  「ごめんね。無理強いしちゃったかな?」 「いえ。そんなことないです。俺も誰かとごはん食べるの久しぶりなんで、よかったです。ご一緒できて」 店員が去り、小木に笑顔で問われ、永井が、かぶりを振る。 「そういって、もらえると嬉しいな。」 「……。」 小木は、片手で頬杖を着き、射抜くように永井を見つめた。永井は、捕らわれたように小木から目が離せなくなってしまった。 「永井くん、忙しくって、彼女と逢う暇ないんじゃない?」 「ええ。おかげで、別れてしまいました。」 過去を振り返るように永井が答える。 「わるいこと聞いちゃったね。もしかして、さっきのって彼女からの別れの電話とか?」 「それは、違いますよ。……お話はできないんですけど、さっきのは、また別のことです。」 「ごめん。酒の席は、楽しくなくちゃね。」 「そうですね」  力ない笑顔で永井が返した時、店員が、注文したものを運んできた。  お通しは、きゅうりとたこの酢の物だった。それは、お洒落な陶器の小鉢に入っており、目でも楽しめるようになっている。料理は、あわびと中トロまぐろの刺身と出し巻き卵、天ぷらの盛り合わせが並び、冷酒のビンが一本とうすい水色の切子細工のぐい呑みが、永井と小木の前に置かれた。 「このお酒ね。ここのオリジナルなんだよ」 ビンのふたを開けながら、嬉しそうに小木が言う。 「そうなんですかぁ。あっ。」 「こっちが誘ったんだ。まずは、どうぞ」 小木が、ビンの口を永井に向けた。 「すみません。じゃあ」 「ありがとう。」 永井が、ぐい呑みを持ち、小木についでもらうと、永井が小木に注ぎ返した。そして、乾杯をすると、酒を一口口に含んだ。それは、甘口で呑みやすく、普段、日本酒を飲む機会があまりない永井でも、飲みやすい味でだった。 「どう?おいしい」 「はい。」 頷く永井のぐい呑みにすかさず小木が注ぐ。食べ物も小木が勧め、永井は小木にうまく流されるままにテーブルに置かれた料理も消化していく。  一時間が、過ぎ、永井の頬も赤みが帯びてきた。  いつもなら、自分のペースを守っているため、一時間程度じゃ酔わない永井だったが、小木の注ぐペースに飲まれ、酔いが、回ってきたようだ。頭の中がふわりふわりとし、体が熱を帯びていく。小木は、自分のペースを守り、シラフと変わらぬ表情で、永井の目を見ながら、話をしていく。  ブルブル。他愛ない会話と料理に舌づつみを打っていると永井のバッグの中の携帯が振動した。 「電話鳴ってるよ」 「はい。あ……。」 永井がちらりと着信画面を確認すると、それは、一条からだった。病院で何か会ったのだろうかと、永井は思案し、永井は、あわてて立ち上がった。 「すみません。病院からみたいです。電話してきます」 「うん。足元気をつけて」 立ち上がった瞬間、ぐらっと、視界が一瞬揺らいだが、なんとか持ちこたえおぼつかない足取りで、トイレへと向かった。  トイレの近くの柱にもたれたまま、前髪を掻き分ける。気持ち悪くはないが、こんなに酔っ払ったのは、久しぶりだ。  「もしもし。お疲れ様です。」 『その感じは、まだお前は外なのか?』 「はい。知り合いと新杉田で、今呑んでまして…」 一条の声で、一瞬にして酔いが冷めたような気分になるが、足元は、ふわりとしている。 『そうか。それなら、少し、安心した。たまには、飲んで気を紛らせるのも大事だからな。特にこの仕事はそういうことが多い』 「はい。あの、どうして電話を?」 『今日の様子がおかしかったから、心配になってな。そういう理由で電話しちゃ悪いか?』 「いえ。心配して下さりありがとうございます」 永井は、掠れた声で見えない一条に向かって、頭を下げた。一条の優しさが、耳元から身体中に染み渡っていくようで、二度も緩んだ涙腺が、また緩みそうになる。 「声が少しおかしいな。結構飲んでるのか?呑みすぎには気をつけろよ。そのうち、俺とも呑んでくれ」 『そうですね。是非』 笑顔で、永井が答える。  酔いが回ってるせいなのか永井は、素直に一条の誘いに乗ろうとしていた。  今一緒にいるのは、小木なのに一条への逢いたさが、募っていく。  『意外だな。プライベートと仕事は別だって、断られるのかと思ったよ。まさか『是非』とくるとは思わなかったな。』 「今は、そういう気分なんです」 『ほぉ。酔うと結構かわいいんだな。医局の飲み会でも、二外の飲み会でも、平静保ってて詰まらなかったが、こうして、話していると、どんなツラして俺と電話してるのか見てみたくなるな。ま、無理な話だが』 「そんなことないです!まだ電車もありますし、ご迷惑でなければ、今からでも逢いに行けます!!」 永井は、いつになく必死で携帯の向こうの一条に向かって、しゃべる。 『ははは。あんなに俺に冷たくしたと思ったら、今度は、会おうだなんて。なんだか、酔ったときのお前のその無防備さが、心配になってくるな。』 「ダメですか?」 『そういわれると弱いな。分かった。俺が逢いに行くから、おまえは、家でちゃんと起きて待ってろ』 一条の言葉に永井は、笑みを浮かべた。 「ありがとうございます。」 『ああ。それじゃあ、後でな』 「はい」 「……。」 「……。」 言ったものの、お互いになかなか携帯を切れず変な沈黙がふたりに訪れる。  「永井くん」  いつの間にいたのか小木が、永井の側に立っていた。

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