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第25話

 カタカタカタ。 パソコンのキーボードを打つ音だけが、静まり返った研修医室に響いている。  永井は、デスクにノートパソコンを広げ、ひとり黙々と今朝の患者記録を電子カルテに入力して行く。  そして、ひととおり打ち終えるとツナサンドを齧り咀嚼しながら、電子カルテを確認する。   「あと30分くらいで先生が講義から戻ってくる時間か。」 腕時計を見ながら、ひとり呟き、残りのツナサンドを口に放り込み、水で喉に流し込んだ。 それから、デスクの片隅に置いている白い小さな紙袋を手に取り、そこから錠剤を1錠取りだし呑んだ。 「はぁ。」 白い紙袋の隣に置いていた小さな水色の紙袋を眺めながら、永井は小さく溜め息を吐いた。  その中には、今呑んだ錠剤と一緒に処方された10cm程の大きさのチューブ状の水色の蓋の塗り薬が入っている。  触診の際に患者の肛門に指を入れた経験はあるが、自分で自分のそれに指を入れて薬を塗るとなると勝手が違う。  羞恥心が先走ってしまうのだ。 しかし、塗らなければ傷の痛みとの戦いは先送りになるだけだ。    「こんな事をしている場合じゃない」 腕時計に目をやると5分が経過しようとしていた。 刻一刻と迫る時間に永井は、意を決してノートパソコンを閉じると、紙袋からチューブを取りだし、それを持ってソファに移動した。  そして、人が来るかどうか外の音に耳を澄ませながら、靴を脱ぎ、足を少し曲げたまま、壁に向かってソファに横向きになった。  トントントン。 「永井いるか?」 すると静寂を破るようにドアの外から聞き慣れた低い声と共にドアを叩く音が、聞こえた。  「はい!」 永井は、慌ててチューブを白衣の胸ポケットにしまってから、ソファから立ち上がった。  その瞬間、尻の後ろにピリッとした痛みが走るが、顔に出さないように努めながら、ドアに近づいた。  カチャリ。  「あれ?お前一人か。てっきり、佐木と一緒にいるのかと思ったよ。」 一条が、ドアを開け、研修医室の中を見渡す。 「いえ。午前の電子カルテの入力をしたかったので、佐木とは、別行動なのです。確か次の予定は、蓮見くんのところに行きますよね?片付けが、まだですので少しお待ち頂いてもいいですか?」 「ああ。構わないよ。思ってたより早く教授に解放されたから、直行してしまったんだが、結果お前を急かすはめになっちまったな。すまない。」 「いいえ。俺が、いつでも出れるようにしておけば良かったのです。油断してました。」 「油断?鬼の居ぬ間に洗濯ってやつか?」 「そういう意味で言ったわけではなかったのですが……。すみません。」 永井は、たじろぎしどろもどろになりながら言葉を返す。 「ははは。冗談だよ、冗談。本当にお前は真面目なやつだな。ほら、ネクタイ曲がっているぞ。」 「あ、すみません。」 バタン。 ネクタイに伸ばされた手と共に一条が、一歩研修医室に足を踏み入れるとドアが閉まり、途端に研修医室と廊下に再び隔たりができた。 しかし、つい先程と違うのは、今この閉ざされた空間の中にいるのは、自分だけでなく一条もいるという事である。  仕事中は、側にいても何も感じなかったのに一条の手元に目を落としながら、永井の中でなんともいえない妙な緊張感とほんの少しの昂揚感が芽生え始めていた。一方一条は、永井の白衣の胸ポケットから僅かに覗く水色の蓋が、気になっていた。 「直ったぞ。」 「ありがとうございます。」 「なあ?お前の胸ポケットに入っているやつは、俺が処方した塗り薬か?」 一条は顎で永井の胸ポケットを促す。 「はい。そうですけど……。」 塗ろうとして躊躇しすぎて塗れなかった事が蘇り、永井は気まずさから目を泳がせる。 「けどなんだ?俺が来るのが早かったばかりに塗りそびれたってわけか?」 「ええ。まあ。」 「ふうん。そうか」 一条は、一瞬口元をニヤリと歪めてから、 「お詫びに俺が塗ってやろう。」 「え!?」 永井が塗り薬を自分で取るよりも早く一条の手が素早くそれを抜き取った。 「俺の事よりも蓮見くんのところに行かないと。飲み薬はちゃんと呑んだので俺の方は大丈夫です。塗り薬は家でちゃんと塗りますので……。」 「塗り薬は、一日二回だぞ。今やって夜に家で塗ればちょうど二回だ。蓮見も大事な患者だが、俺にとってはこれを処方した以上お前も大事な患者のひとりだ。医師としては薬をさぼるのを見逃すわけにはいかないな。俺にやってもらうのに抵抗があるというなら、いまここで自分でやるか?」 「そんな……先生の前でだなんてできませんよ。」 自分が、一条の前で薬を尻の穴に塗っている姿を想像し、永井の顔がみるみるうちに羞恥心で真っ赤に染まっていく。 「じゃあ俺が塗ってもいいんだな?」 「は…い」 その言葉に永井の顔は、ますます赤く染まっていく。 「安心しろ。ちゃんとゴム手袋はするし、俺に背中を向けなくてもいい方法でやるから」 一条が、なだめるような口調で言い、自分の白衣のポケットから医療用のゴム手袋を取り出した。

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