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第29話
久しぶりに目覚めのいい朝だった。
それなのに隣にいたはずの存在がないと気づいた時、永井は、悲しい気分になった。
「先生、本当に帰ったんだ。」
ポツリと呟き、永井は、枕元に置いてある眼鏡をかけた。視界は、クリアーになったのに心は晴れない。
「起きなくちゃ。」
ゆっくりと体を起こした時、ブルブルと携帯が振動した。
それを手に取り着信者を確認する。
一条だった。
永井の心は、曇り空から一気に晴れへと変化していく。
「おはようようございます!」
「おはよう。どうやら、ちゃんと寝れたみたいだな。声がすっきりしてる」
「多分、先生のおかげだと思います。」
「うん。そうか。それなら、また自宅治療に行かないとな。」
「はい…。お願いします」
永井が、少し照れたように答えると、電話の向こうから、笑い声が聞こえた。
「ははは。冗談だよ。今度は、傷口を悪化させ兼ねないからな。治ったら、伺わせてもらうよ。」
「はい。」
「それじゃあ、また、病院でな。」
「はい。また」
通話は、一条のほうから切れた。
耳に一条の声の余韻を残したまま、永井は、クローゼットを開け今日着ていくスーツを選ぶ。選ぶといっても、一条に一着譲ってしまったので、今は三着しかもっていない。
今日は、こげ茶のスーツに薄い黄色のYシャツに紺のネクタイを締めることにした。
永井は、髪型を整え部屋を出るとウーロン茶をコップ一杯飲んでから家をでた。
途中のコンビニで、朝食用にたまご&ツナサンドと水を買い、病院に向かう。
そして、研修医室で、それを食べていると、ノック音が聞こえた。
トントン。
「はい。」
「おはよう。」
「誰?」
「俺だよ。佐木。ひどいな俺は『はい』って、返事だけでも永井だって分かったのに。」
佐木がドアを開け、研修医室に入ってきた。
ノックの主が佐木だと分かるとサンドウィッチを食べる手を止めず、視線だけを向けた。
「分からなくてごめん。佐木、おはよう。」
「もう少し俺にも関心持てよな。おお、珍しい。ここで、朝メシくってん?」
佐木が永井に近づき、机の角に手を置く。
「ああ。そうだよ。うちに食べるものがなくてさ。」
「へぇ。ああそっか。それを飲むためか?」
机の上に水と一緒に置いた錠剤が入った白い紙袋を佐木が顎でしゃくると、永井は、薬品名を見られないようにそれを手に取った。
「うん。そんなとこ」
「そういえば、一昨日あたりから、具合悪そうにしてたもんな。あんまし、無理すんなよ。無理っぽかったら、俺でカバーできるところは、するし。」
「ありがとう。あれ?佐木って、そんなにいいやつだったけ?俺の中ではもっと軽薄なイメージだったんだけど?」
「失礼な!俺は元々いいやつだっちゅーの!お前が、ちゃんと俺と接してなかったから、気付かなかっただけだろ。」
「うん。そうかもしれない。」
「そうかもじゃねよ。もう少し興味持てよ」
「いてっ!」
佐木が、永井の額にデコピンしてから、逃げるようにロッカーへと去って行った。永井は、片手で、額を擦りながら錠剤を飲んだ。
たしかに大学時代ちゃんと接しようとしなかったなと思いながら。
午前中は、蓮見のドレイン抜きと回診があった。
特にかわったことはなかったが、心なしか一条と目が合う回数が増えたような気がした。
午後からは、一条が執刀医の内視鏡の手術があるので、その助手が終わりしだい、系列病院の高橋医院への当直に行く予定だ。
今は、手術までの束の間の休息と称した昼休憩である。
永井と一条は、次の行動も一緒ということもあり、二人して食堂で昼食をとることにした。
「今日は、高橋医院で外直か?」
「はい。」
「なんなら、送ろうか?」
「いいですよ。バス乗って行くので。」
「そうか。」
「はい。その御心遣いだけで充分です。」
向かい合わせに座り、会話の合間に視線が重なる。
休憩時間だと思うと、若干気が緩んでしまうのか一条と視線が合うたびに永井は、何とも言えぬ疚しさと恥ずかしさを感じてしまうのだった。
永井が、定食の味噌汁を飲んでいると、一条の背中の向こう側から、トレイを持ってこちらに向かって歩いてくる小木の姿が目に映った。小木は永井の姿を見つけるや否やすぐさま永井に微笑んだ。
永井は、それに軽く会釈で返す。永井の様子に一条が振り向くと、小木の口元から一瞬だけ笑みが消えた。
「お久しぶりです」
小木が、一条に近づき再び微笑みを口元に張り付け、軽く頭を下げた。
「おお、久しぶり。元気そうだな。」
「はい。お陰さまで。一条先生こそますます男前に磨きがかかっていらっしゃいますね。」
「それは、どうも。」
一条は、表情ひとつ変えず、小木の応対をする。小木もいつものように笑みを絶やさず、穏やかな口調で一条と話している。
永井には、ふたりのやり取りが、なんだか怖いものに感じられ、 二人の間に口を出せずにいた。
「久しぶりの再会と言うわけで、お隣よろしいですか?」
「ああ。俺は構わないが。永井がさっき君に会釈していたようだが、面識でも?」
「はい。以前、永井くんがまだ医大生だった頃に定期券を拾ったことがあるんですよ。その時からの知り合いでして。今では同じ病院に通う者同士親しくさせて貰ってます。この間はうちに泊まったよね?」
「は、はい。その節はお世話になりました。」
一条には、昨晩話した事だが、他の男の家に泊まった事に後ろめたさを感じ、永井は、動揺のあまりしどろもどろになりながら、言葉を返した。
「永井くんて、本当にいい反応するね。いいかな?ご一緒して」
小木が、永井のほうを向き問いかける。
「はい。一条先生が構わないなら、俺も構いませんよ」
永井が、ちらりと一条を見やりながら言うと、小木は一条の隣に座った。
そして、二人の顔を交互に見る。
「仲がいいんですね。僕、一条先生が、研修医にそこまでべったり指導してるのを初めて見ましたよ。ボディシャンプーの香りもお揃いだなんて。」
「そうか。たまたまだろ。よくある市販のボディシャンプーにしか過ぎない。」
一条は淡々と答えているが、永井は水を噎せそうになってしまった。
「確かにたまたまかもしれませんね。でも、気をつけたほうがいいですよ。せっかく、腕もいいし、上に好かれてるのに研修医とベタベタしすぎて、ホモだなんて噂が流れたら、イメージダウンですよ。」
小木は、一条と会話をしつつも小木は、永井を見据えたままだ。その視線に居たたまれなくなった永井は、呼吸を整え食べることだけに集中させた。
「言っておくが、あのことは、俺が上に密告したというわけではないからな。」
コップに入った水を飲み、一条が、小木に首を傾ける。
「ええ。分かってます。先生のことだから、金田くんのために言わなかったんでしょ?」
「そうだ」
怒鳴るわけではないが、怒りを込めた声で一条は言い、再びご飯を食べはじめた。
「……。」
沈黙が流れると小木も二人につられるようにごはんを食べ始めた。三口程、ご飯を口に入れると、箸をおき、永井の方を再び見つめた。
小木の視線を感じ、永井が顔を上げる。
「永井くん、必要以上に一条先生に近づかない方がいいよ。変な噂が流れたら、先生も君も困るだろ?それでなくても、君は、モテルんだからね。」
「モテるだなんて、そのような事はないですよ。…小木さん、もしかして、俺のこと何か知ってるんですか?」
小木は、何かを知っているのかもしれない。そう思わざるを得ない言い方に永井の背筋に冷たいものが走る。
「さあ。何か思い当たる節でもあるのかな?」
「ない…ですけど」
しどろもどろに答えると、黙って二人の会話を聞いていた一条の顔つきが、険しいものになった。
「いくぞ。永井。」
一条が立ち上がり、小木には、見向きもせず、永井の食器と自分の食器を重ねると、歩き出した。
「待ってください。あ、失礼します。」
「うん。またメールするね」
永井は、小木に一礼すると、一条の後を追った。小木は、笑みを浮かべたまま、その背中が消えるまでずっと見ていた。
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