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第31話

「これは、縫わないと。縫合の用意と消毒お願いします」 血の滲んだ包帯を外し、患者の左腕上腕の傷を見ながら、永井が看護師に指示を出す。  現在の時刻は、午前二時。 系列病院の高橋医院の居心地のいいベッドで、仮眠しているところを永井は、看護師に起こされ診察室に向かった。 患者は、プラチナブロンドの短髪の背の高い青年だった。彼は、永井の前に座り、痛みに顔を歪めながら、じっと永井に差し出した腕を見つめている。 「センセって、研修医?」 「そうですよ。ごめんね。他の先生、今、手が放せないんだ」 「そーゆう、意味で言ったんじゃなくて、ただ聞いてみたかっただけ」 「そう。」 永井は、そっけなく返し、看護師から消毒を浸した脱脂綿を挟んだピンセットを受け取った。 「これから、消毒と傷口を縫うから、おとなしくしてて」 「は〜い。つっ…」 永井が、看護師からそれを傷口にぺたぺたと塗る。青年は、つり上がった形のいい眉を潜める。   縫合をし、包帯を巻き終えると、彼は永井のネームプレートを見やった。 「サンキュ。永井センセ、結構、縫うのうまいね。」 「それは、どうもありがとう。沢海さんこそ、止血してあったけど応急処置でも、習ったことでもあるの?止血してなかったら、このくらいすまなかったかもしれないね。」 「今日、ちょうど大学で応急処置やったばっかでさ。うろ覚えなんだけど、役にたって良かったよ。マジヤバいよなこの傷。実は、これさ。 四マタが、本命にバレて、その女んちで俺が寝てるときに刺されそうになってさ。よけた時にできたやつなんだ。思ってたより、出血あったから、女の方が血を見たとたん、気絶しやがってよ。しかたないから、自分で止血して、女んちから一番近いここに来たってわけ。」 沢海が、長い足を組みながら、じっと永井の顔を見つめる。 「それが、本当なら、警察に連絡したほうが…」 「いい。理由も理由だし、あんまコトを大袈裟にしたくねぇし」 「それもそうだね。一層の事これを機に勉学に励むのも悪くないと思うよ。」 沢海が、きっぱりと告げるので、永井は、彼の意思を尊重し、『自分で謝って、包丁で切った』と、にケガの理由をカルテに書きこむ。 「そうしよっかなあ〜。でも、センセだって、男としてひとりじゃ足りないって、気持ちわかるよね?」 「さあね。俺は、同時進行で複数と付き合った経験がないから、わからないな」 「センセ、真面目そうだもんね。でも、幅広くモテそうだよね」 「君と違って僕はモテないよ。はい、もう治療は終わったんだから、帰って下さいね。念の為、午前中にちゃんと診てもらって下さい。」 「わかったよ。帰りますよ。どうもありがとうございました」 「お大事に」 沢海は、永井と看護師に、軽くお辞儀をし、診察室を出ていった。 その後は、運のいいことに永井が、患者を診ることは、なかった。 朝の九時になり、高橋医院の日勤の医師がやってくると、永井は、当直時の報告をし、医院をでた。そして、そのまま、バスに乗り、自分の病院へと向かう。  停留所につき、バスから降りた時、ベンチに座っているベージュの薄手にニットを着た小木と目が合った。 その瞬間、永井の動きが止まる。バスが、永井の後ろを走り去ったと同時に小木が、立ち上がり微笑んだ。 今まで優しいと思っていた小木の笑顔が、永井には今では怖いものにしか見えなくなっていた。  「おかえり。ここにいれば、来るかと思って、待ってたんだ」 「た…ただいま。でも、どうして、小木さん?」 「昨日の事を謝りたくてさ。ちょっとからかうつもりが、君を怖がらせてしまったからね。ごめんね」 永井に近づき、頭を下げた。 「そんな、頭上げてください。わざわざそのために俺のことを待ってたんですか?逆にこっちの方が恐縮してしまいますよ。」 永井が、慌てたように言うと小木は、ゆっくりと頭をあげた。 「許してくれるんだ。よかった。ねぇ?時間ある?そこのカフェで、コーヒーでも飲まない?」 「え?。構いませんが…」 小木が、永井の両肩を掴み、極上の笑みを向け、永井の目を見据える。その目に吸い込まれるように永井は、頷いた。  病院近くの白を基調にした小さなカフェ。  椅子やテーブルは、全て手作り風の木製で、小さいながらにこだわりが見えている。  永井と小木は、奥の窓際の席に向かい合わせに座り、コーヒーとミックスサンドを注文した。 「ごめんね。朝ごはんにつき合わせちゃって」 「いえ。俺も朝食食べてなかったので、ちょうどよかったです」 「そういってもらえると、助かるよ。そうそう、永井くんを待ってたのは、謝りたかったてこともあるんだけどね。一条先生のことで、話しておきたいことがあって」 「一条先生のこと?」 一条という言葉に反応するように永井は、食いつくように小木の顔を見つめた。 「あのひとね。患者の母親とデキていたことがあるんだ。もちろん、夫もいるひとだよ。信じらんないよね不倫だなんて。医師としての腕だけは評判もよかったけど、ひととしてはね。どうなんだろうね。」 小木が、穏やかな顔を嫌々しげに眉を歪ませさる。 「でも、過去のことなんでしょう?」 「まぁ、僕が二外にいた頃の話だからね。過去といえば、過去なんだろうけどね。君が、結構あのひとのことを信頼してるみたいだから、こっちとしては、心配になってしまうよ」 「心配しなくても大丈夫ですよ。俺、元々は、一条先生に対して、いいイメージなかったので、患者の母親と不倫してたって聞いても、そんなに驚きませんよ。仕事は信頼できますから。」 永井は、不思議とショックを受けずにその話を一条の一部として受け入れていた。きっと、それは、元々いいイメージをもっていなかったからなのかもしれない。 それに現在も続いていて、永井のことを 好きだというわけではないのなら、永井にとっては、別にどうでもいいことだった。 「永井くんがそういうならね。あ、ちょっとトイレにいってくるね。先に食べてていいから」 「はい」 一瞬だけ小木は、永井の反応に苦笑いを浮かべたが、いつもの笑みに戻し、席を立った。  小木と擦れ違いにウエイトレスが、ミックスサンドとコーヒーを運んできた。永井が、コーヒーをひとくち飲んだ時、バッグの中の携帯が振動した。 それを取り出し、画面をチェックする。アドレスが、いつものメールと同じだったので、周りを確認してから、メールを開いた。  件名は、『アルバム』。画像は、四つ添付してあり、恐る恐る画像を開いてみた。  一枚目から三枚目は、今まで、送られてきたものであり、最後の四枚目は、勃起し、先走りで濡れそぼった永井自身の先にダブルクリップが、挟んであるものだった。見るからに痛々ししそうな画像だ。 永井の脳裏に、あの時の出来事が甦る。 未だに消せないあの時感じた痛みや恐怖が全身を駆け巡り、顔が青ざめ、体が小刻みに震え、冷や汗が背筋を流れた。 携帯を閉じても残像は消えない。  「永井くん、大丈夫?」 「!?」 突然背後から、小木が永井の両肩に手を置いてきた。永井は、背後からの感触に顔を強張らせ、肩を震わす。一条が、永井の背後に触れたとき以上の恐怖を永井は、小木になぜか感じた。 跳ね除けようと思えば、跳ね除けられるのに身体は、ただ震えるばかりで動いてはくれない。 「永井くん?なにかあった?」 「な…なんでもないで…す」 搾り出すように永井は、声を発する。 「なんでもなかったら、どうしてそんなに青ざめた顔して、震えてるの?」 「…俺の後に来ないで下さい。」 「え?」 声らしい声を永井がやっと発すると小木は、怪訝な顔で、永井の肩から手を離し、永井の横に移動した。背後からの気配がなくなり、少しだけ、永井の表情が和らぐ。 「すみません。俺、背面恐怖症で、後ろに人に立たれたり、背中を触られるのが駄目なのです。時と場合によるのですが、今みたいに後に人がいると、怖くって、震えてくることがあるのです。」 「背面恐怖症?…ああ。だから、あの日君がトイレで泣いてた時に僕が、君の背中を抱こうとしたら、びくっとしてたんだね。そういえば、他にも君の背中に触れようとした時、避けられたっけ。」 「はい。それが、原因だと思います。すみません。」 永井が、震える指先をそのままに小木の方を見上げた。 「そういうことなら、しかたないよね。むしろ、僕のほうが気付いてやれなくてごめんね。」 小木が、ポケットからハンカチを取り出し、永井の額に滲む冷や汗を拭く。 「……。」 小木を見上げたまま黙って、永井はされるがままになっている。いつもなら『大丈夫です』とでも言って汗を拭いてもらうのを断るに今の永井には、どういうわけか小木がやることに逆らえずにいた。 「永井くん、すごい汗だよ。ここじゃなくて、別の場所で休む?それとも、うちまで送ろうか?」 「……。」 ハンカチをポケットにしまいながら、言う。  なんだろう?このまだ拭えない恐怖心は。永井は、小木の優しさに頭では、感謝しつつも身体は、強張る一方だった。 「永井くん?」 「あ…ここでいいです。少しすれば、落ち着くと思うので。小木さんも席に座ってください」 「そう?君が言うなら、しかたないね」 無理やりに笑みを作り、永井が、言うと渋々、小木は席に戻った。そして、冷めたコーヒーに砂糖とミルクを入れ、かき混ぜる。 小木と距離が離れ、気持ちが楽になっていくような気がし、徐々に震えていた身体も止まった。 「よかった。落ち着いてきたみたいだね。」 小木が、コーヒーを一口にのみ、永井を見ながら、安心したように微笑んだ。 「は…い。どうもご迷惑おかけして、すみません。」 「迷惑だなんて思ってないよ。君が、背面恐怖症だと知らなかった僕の不注意だよ。聞いていいかな?前から、背面恐怖症だったの?」 「ええ。…まぁ」 食い入るように見る小木に永井は、曖昧に答える。いくら親切な小木でも、理由を話すわけには行かない。 「ふうん。最近…か」 小木が、ボソリと言うと、永井は、驚きの表情を浮かべた。 「いえいえ。前からですよ」 慌てたように永井が、否定するが、小木は、にこにこと笑みを浮かべたまま、永井を見つめている。 「いいよ。そんなに否定しなくても。理由を聞きだそうなんて、思ってはいないから。」 「小木さん…。本当、いろいろと俺に気を使っていただいて、申し訳ないです。」 「前に言ったよね?君は、弟を思い出させるって。だから、君にはいろいろとしてあげたくなるんだよ。あのさ。申し訳ないって思うのなら、明日の夜、うちで呑まない?」 片手で頬杖をつきながら、永井の目を覗き込む。永井は、冷めたコーヒーを飲む手を止め、カップに口をつけたまま、小木を見る。  永井の脳裏に一条に『あいつには近づかない方がいい』と、言われたことが過ぎった。しかし、小木が何か知ってるのではないかという一度抱いた疑いが、どうも心に心に引っかかり、 小木のうちにいくのは、チャンスかもしれないとも思うのだった。 「もしかして、先約があるの?例えば、一条先生とか」 「そんなのありませんよ。」 「そう。よかった。それなら、大丈夫だよね?」 「はい。」 「ありがとう」 永井は、小木に誘導されるように頷くと、小木は、魅惑的な綺麗な笑みを永井に向けた。 「それでは、どうしますか?」 「そうだね。明日は、お互いに日勤なわけだから、終り次第、連絡を取って、一緒にうちにいこうか?」 「分かりました。」 「ちょうどいい日本酒が、手に入ったんだ。楽しみにしておくよ」 「はい…」 永井は、一気に残りのコーヒーを飲み干した。

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