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第32話
エレベーターでの別れ際目的階で降りた小木の指先が一瞬、永井の背中に触れた。
ぞわり。
ほんの僅かな感触なのに永井は、恐怖心でひとり顔色を青くさせた。
冷や汗が、背中や頬を伝う。
壁に凭れて気持ちを落ち着かせようとしたが、すぐにエレベーターは医局のある階についてしまった。気持ちを引きずったまま永井がエレベータを降りると、そこには、黒とグレーの細かい千鳥格子の上品なスーツ姿の一条が立っていた。
「おつかれさまです。これから、お帰りですか?」
永井は、一条に感づかれてはいけないと必死に笑顔を取り繕い平静を装うと試みる。
「ああ。そうだ。」
「あの、何か?」
しかし、一条は、一目で永井の異変を察知し、
永井を凝視した。押しつけられるような視線に耐え切れなくなった永井は、一条から、目を少し逸らした。
「何か?じゃないだろ?具合が悪いなら、無理して、直接こっちに戻ってこなくてもいいんだぞ。夕方出勤なんだから、それまで、うちで寝てろ。」
「大丈夫ですよ。大したことないので。やり残した事があったので少しだけ寄ったまでです。それが済んだら出勤時間まで研修医室のベッドで仮眠するつもりだったのですよ。」
一条の指が、永井の額に滲んだ汗を拭う。
「そんなツラして言われても説得力がないんだよ。」
「本当に一時的なものなので、少し休めば良くなると思います。先生のお気遣いは有りがたいのですが、俺は平気です。」
「平気って、顔してないから心配してるんだろ?少し休めば回復するって事は、まさかエレベーターで、誰かがお前に背中に触れたのか?」
一条が、永井の両腕を掴み、心配そうな顔で、永井の目を見つめる。
「はい。さすが先生は何でもお見通しですね。でも、本当に一瞬だけエレベーターを降りた人の指先が俺の背中に当たっただけなのです。だから、大したことないですよ。」
一条との会話で徐々に永井の頬の色が、元に戻っていく。
「そうか。ただ指が当たっただけにしては、様子が酷くないか?俺がお前に触った時よりもその様子は酷くみえるぞ。まさか、悪化してるのか?心療内科の荒井先生に時間外に頼んでみようか?」
「いえ。そこまでではないので、大丈夫です。心配お掛けしてすみません。」
「謝るな。お前は何も悪いことはしてない。」
「すみま……」
言いかけた言葉を飲み込み永井は、
「片付けたい事はあったのですが、このまま研修医室でギリギリまで寝ますね。失礼します。」
軽く会釈をしてから、一条の前を通り過ぎようとする。
「おやすみ。…て、俺が、そう簡単に引き下がるとでも思ったのか?具合が悪いのなら、尚更、休まないとだめだろ?俺が夜勤代わるから、お前は、佐木にでも送ってもらって帰れ」
一条が、永井の腕を強く腕を掴み、永井を引き止めた。
「いいですよ。そんなことしていただかなくても」
「ダメだ。」
強く一条が言い、一条は、永井の腕を掴んだまま医局へと歩いていく。その後ろを、永井がついていくと、ちょうど、入り口に当直明けでこれから、帰ろうとしている佐木がいた。一条は、永井から手を離し、佐木の進路を阻むように立った。
「佐木先生、お疲れ」
「お、お疲れ様です。」
一条は、患者の前以外で研修医に先生付けで呼ぶことは、滅多にない。その一条に『佐木先生』と呼ばれ、佐木の声は、驚きのあまり、声を上ずらせた。
「佐木先生、これから帰りなら、この病人を送ってやってくれないか?」
「永井をですか?構いませんが、たしか当直でしたよね?」
「ああ。昨日は高橋医院だったしな。今日のは俺が代わってやることにした。」
二人して、一条の背後にいる永井を見やりながら、会話をする。永井は、二人に注目され、居たたまれない気持ちである。
「へえ。先生って、意外に優しいんすね」
「意外には、余計だ。」
「ふうん。了解しました。」
佐木が、二人を交互に見ながら、一人で納得したように頷き、永井にだけ不気味な笑みを向けた。
「なんだよ?」
「んにゃ、なんでもないよ。さて、一条先生のご命令どおり、帰りますか?先生、お疲れ様です。」
怪訝な顔でみる永井に対して、さらっと受け流してから、一条に頭を下げた。
「お疲れ。永井、今日はゆっくり休むんだぞ。」
「はい。本当にすみません。そうだ、佐木、帰る前に今日退院の患者のところに寄りたいんだ。俺が受け持った患者で一番長く入院してたから、最後に顔くらいは見せたいと思って」
「お、偉いねぇ。でも、俺もその気持ち分かるよ。んじゃ、研修医室で、煙草吸って待ってっから。」
「悪いな」
「気にするな」
佐木が、二カッと笑い、一条に再度一礼をしてから、研修医室へと歩いていった。
「仲いいんだな」
佐木の姿が、見えなくなったのを確認すると、一条がボソリといった。
「そうでもないですよ。佐木とは、大学時代よく同じグループになっただけなので、ふたりで呑んだりとかそこまでの付き合いはないです」
「そうか。…ここでは、なんだから、ちょっと来い」
「どこ行くんですか?」
「いいから!」
低くぴしゃりと一条が言い放ち半ば強引に一条は永井の右腕を掴み、医局を出て、廊下を歩き出した。どこに連れていかれるか分からない永井は、不安な顔で一条に連れられるまま、歩いていく。
一条が、永井を連れて着た場所は、当直室だった。
中にはいり、ドアに寄りかかるように一条が、立つ。
「先生?」
永井が、一条を見つめた瞬間、一条は、強く永井の身体を抱きしめた。同時にバッグが永井の傍らに落ちた。肩口に顔を埋めさせられ、汗の混じった一条の匂いが、永井の鼻をくすぐる。
小木の指先が背中に触れただけで恐怖心を感じていたのに今の永井は、一条の温もりに安堵感を感じている。
「せめて、どうしようもなくなった時でいい。何かあったら、第一に俺に助けを求めて欲しい。俺が知らないところで、お前が苦しんでいるのは、耐えられない」
「……。」
返事の変わりに永井は、一条の背に腕を回した。一条の優しさやぬくもりに胸がキシキシと痛む。
五分ほど、二人はお互いの背骨が折れるくらい強く抱き合っていた。
「…そろそろ、佐木も待っていることだし、蓮見くんのところに行かないとな。」
「はい…」
一条が、そっと永井の身体を引き離した。永井は、名残惜しそうに一条から離れ、切なげな表情で一条を見詰めた。
「そういう顔するな。仕事に戻れなくなる。」
一条は、困ったような顔をし、永井の乱れた髪を直す。
「先生って、ずるいですよね。こういうことしといて、すぐに仕事の顔に戻ってしまうんですから」
「そうでもない。さっきとかな」
「さっき?」
「なんでもない。ほら、早く白衣着て、病室にいけ」
小首をかしげ見る永井に一条は、何かをごまかすようにバッグを拾い、永井に押し付けた。
「分かりましたよ。俺は、後から出て行くので、先生は、先に行ってて下さい」
「ああ。明日は、日勤だったよな?夜は、空いてるか?」
夜と言われ、永井の表情が、一瞬だけ曇った。
「夜ですか?…すみません。先約があって…。」
「分かった」
「でも、電話しますね」
「いいよ。無理しなくて。どうせ、明日また逢えるんだ。だが、何かあったら、連絡しろよ」
「はい。言われなくても、今の俺は、真っ先に先生に助けを乞いますよ。」
永井は、微笑み、眩しそうに目を細めた。
助けという言葉に一条は、何かを察知するが、あえてそれには、触れないことにし、永井の身体をもう一度、抱きしめた。
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