「蓮見くん、元気でね」 洋服に着替え、病室のソファに座る蓮見を永井が、見下ろす。 　荷物は、スポーツバッグに全てまとめ、後は母親が来るのを待つのみである。 「その言い方ひどくない？二度と会わないみたいじゃん。俺、まだ通院すんのに。どうせ、俺はじゃまモノだよ」 長い足を組み、永井を睨む。 「ああ。ごめんごめん。」 「なぁ？先生。俺って偉いと思わない？秘密最後まで守ってるし」 「…そうだね。ありがとう」 一瞬だけ永井の脳裏にあの日のことが、蘇り、眉を潜める。 「んじゃさ。お礼にキスさせて。先生の口唇って、女より柔らかいし、してて気持ちかったし」 蓮見が、腕を伸ばし、永井の手を引き寄せようとする。 「あのねぇ。」 　トントン。 永井が苦笑いを浮かべた時、ノック音がした。ほっとしたような表情を永井が浮かべたのを蓮見は、詰まらなそうに見上げ、手を放した。 「はい。どうぞ」 「どうもすみません。遅れてしまって。仕事がなかなか抜け出せなくて」 蓮見とそっくりな女性が入ってきた。 彼女は、 スーツに身を包み、髪をシルバーのクリップで、アップにしたやや化粧が濃いである。 　蓮見の母親だ。 「いえいえ。大丈夫ですよ。」 永井が、にっこりと微笑む。 「先生には、お世話になりました。なにかとわがままに育ててしまい、迷惑をかけてばかりだったでしょう？」 「そんなことないですよ。いいコでしたよ」 「うわぁ、大人って、イヤだねぇ。嘘ばっかいいやがって。研修医だから、心配だって言ってたくせによ。先生だって、俺のこといちいち深夜に呼び出して、ウザイとか思ってたんだろ?」 蓮見が、二人の間に立つようにようにソファから、立ち上がった。 「聡良！」 母親が、気まずそうな顔をした後に怒鳴った。 「まあまあ。お母さん。たしかに蓮見くんは、最初は困った子だとは、思ったけど、いいコだと思ったのも事実だよ。」 蓮見を見上げ、永井が告げる。 「たく、いいコって、年でもねぇよ。おい、ババア、とっとと帰ろう。」 永井から、照れたように目を逸らし、ベッドにおいてあるスポーツバッグのほうへ行く。 「聡良！ひとまえでババアは、よせって、言ったでしょ！先生、すみません。」 「いえ。僕としても勉強になりましたから。今後は、息子さんの異変に気付いてあげてくださいね。もうすこし、気付くのが早ければ、三日くらいで退院できたんですから」 「はい。すみません。それでは、失礼します」 「お大事に」 スポーツバッグを抱えた蓮見に向かって、永井が微笑んだ。蓮見は、複雑な顔をし、永井をじっと睨む様に見詰めたまま永井に近づいてきた。 「前に、いったこと嘘じゃないから。じぁね」 低い声で言い、永井の白衣のポケットに何かを忍ばせ、母親とともに病室を出て行った。 　残された永井は、白衣のポケットに手を入れ、綺麗に折りたたんであるノートの切れ端を取り出した。 　それには、『気が向いたら、連絡して』と、雑な字で蓮見のメールアドレスと携帯番号が一緒に書いてあった。 嵐の去ったあとのように穏やかな気持ちが、胸を覆う。 　「このまま無事、早く普通の男としての生活が出来るといいね。」 そう。自分のような同性ではなく、入院する前の異性にだけ興味があった日々に戻れるようにと願いながら、永井は、その紙を八等分に破き、白衣の胸ポケットにしまった。 　エレベーターを待っていると、背後に悪寒が走り、永井は、一歩斜め後ろに下がってから、後ろを振り返った。 　「びっくりしたぁ。小木さんだったんですね」 触られたわけではないので、先程よりましだが、またしても、背中に冷や汗を掻いてしまった。 「こんにちは。ああ。そっかぁ。ごめんね。後ろダメなんだっけ?」 「はい」 「ちょっと驚かすつもりだったんだけどね。その様子だとちょっとどころでは、なさそうだね？」 小木が、さっとハンカチを取り出しで、永井の額の汗を拭いた。 「度々すみません。朝よりは、平気なんですけどね。」 苦笑いを浮かべ、小木を見る。自分でも情けなくなってしまう。背後にひとの気配があるだけで、こんなにも脆くなってしまうなんて、どうにかしなければならない。いっそうのこと、 一条の言う通り心療内科の荒井先生を紹介して貰った方がいいのでは？と、考えてしまった。 「そうだね。朝みたいに顔色まで、悪くなさそうだね。そんなに重く考えることもないと思うよ。こういうのは、意識しすぎるのもいけないと思うんだ。」 小木が、微笑みながら、ハンカチを水色のケーシーの胸ポケットにしまう。 「そうかもしれませんね。助言ありがとうございます。」 「改まらなくていいよ。僕は、ただ君が悩む顔が、みたくないだけなんだから。そういえば、今日は、よかったね。特別室の患者さん、退院だったんでしょ？」 「え？は…い。でも、どうして、小木さん、知ってるんですか?」 戸惑いを隠せない表情で、永井が聞く。 「知りたい?明日、教えてあげるよ…って、たいした理由じゃないよ。特別室に入るくらいだからね。それなりな身分だから、他の科でも有名になるんだよ。しかも、あのとおり、若くて、顔もよければ、看護師たちの話題の的ってわけ」 「ああ。たしかにそうですね。」 「僕は、ああいうのは、好みじゃないけどね。どっちかといえば…」 「……」 小木が、綺麗な笑みを浮かべながら、永井の頬を片手で撫でた。その冷たい手の感触に永井の背筋に鳥肌が、立つ。 「あはは。いくら僕でもこんなところでくどいたりしないよ。永井くんは、いちいち反応がよすぎて、困るね。それじゃ、勤務中に長話もなんだから、失礼するよ。おつかれ」 「おつかれさまです」 小木は、後ろ手で手をひらひらさせながら、特別室の方とは逆のほうへと歩いていった。 　永井は、小木の背中を見送ると、ちょうどエレベーターが最上階から降りて来そうだったので、慌てて下ボタンを押した。 そして、開いたエレベーターに乗り、後ろの隅に壁に背を向けるように立った。こうすれば、誰かが後ろにくることはない。永井の中での習慣になってしまっていた。 　腕時計を見ると、佐木と別れてから、一時間近くが、経過しようとしていた。 　さすがに怒ってるだろうなと、思いつつ、永井は、早足で、研修医室に向かった。