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第36話

一条は、エレベーターの前に立ち、こちらに向かって歩いてくる永井をじっと見つめる。  濃紺のスリムなスーツ、白のカッターシャツにワインレッドのネクタイを締め、すっと背筋を伸ばしたまま歩く姿は、一条の目を引きつけてやまない。周りの景色や人が、セピアがかったように見えてしまう。 目が合い、永井が、僅かに表情を変えると、一条は、我に返り、見とれてしまっていた自分自身に苦笑いをした。  「お疲れ様です。もしかして、俺のこと待っててくださったんですか?」 「ああ。たまには、待ち伏せもいいだろうと思ってな」 「変ですよ。さっきまで、一緒だったのに。」 永井は、一条の袖を掴み、表情を和らげる。 「まあ、そうだな。実を言うと、少しお前に話したいことが、あってさ。車に少し来れないか?」 一条は、周りを気にしながら、神妙な面持ちで、自分の袖を掴む永井の手に自分の手を添えた。 「はい。少しなら大丈夫ですけど…。」 「手間は、取らせないよ。お前もいろいろと忙しいだろうから」 「……。」 腕時計を見ながら、永井が、答えると、一条がその腕を掴み、抑揚のない声で言う。これから、自分が誰に会うのかを見透かされているような気がし、永井は、一条から目を逸らした。 「先生…」 一条が、その腕を掴んだまま、エレベータのパネルを押す。永井は、その背を見つめながら、躊躇いがちに呼んだ。 「どうした?」 頼りない声色に心配そうな面持ちで、一条が、振り向いた時、それを邪魔するように永井の携帯が、振動した。 「すみません」 小木からだと思い、永井は、慌てて携帯を取り出し、一条から、少し離れた。エレベーターが、ちょうど開いたが、一条はそれを無視し、エレベーターが下りた後にもう一度パネルを押し、パネルを睨みつけるように立つ。  「お疲れ様です」 一条に電話相手の声が聞こえないように手で押さえながら、声を潜めて永井は話す。 「お疲れさま。今日の待ち合わせなんだけどね。バス停にしようか?」 「はい。分かりました」 「10分以内に来てね」 「え…」 本当は、30分後くらいにして欲しかったのだが、通話は、永井が返事をする前に切れてしまった。  「すみません。あの、待たせてしまったのに申し訳ないのですが、すぐに出なくては、いけなくなってしまって…。」 「そうか。それなら、しかたないな。せめて、途中までエレベーターで一緒に行こうか?」 「はい」 携帯をしまいながら、一条に近づき、永井が言うと、一条は振り向き、永井の肩に手を置いた。永井は、その眼差しに決心が、揺らぎそうになりながらも、頷いた。  そして、二人は、降りてきたエレベーターに乗り込んだ。 「俺も先約があってな。」 「そうだったのですか。それなのに待たせてしまってすみません」 「いや、いいよ。それにしても、今日は、蒸すな。こういう日は、窓を開けないとな」 一条が、汗などかいてないのに額の汗を拭うふりをする。 「そ…うですね。たしかに今日は、晴れてますし、蒸し暑いですよね。」 ぎこちない笑みを浮かべ、永井は返すが、一条が突然そんなことを言い出した意図を掴めずにいた。 「無理しなくていいぞ。」 「……。」 やんわりと言った後、切なげな顔で、一条は、永井を見つめた。ズキンと、永井の心のどこかが痛んだ。  ふたりの間に会話が途切れ、間もなくしてエレベーターはエントランスのある1階についてしまった。駐車場は地下なので、永井だけが降りた。 「用が済んだら、すぐに連絡するから!だから…」 叫ぶように一条が言い、言葉の途中で、ドアがしまってしまった。  だから…言葉の続きが気になって仕方なかったが、かぶりをふると気を取り直して、永井は、小木の元へ向かった。 

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